第一章 6

文字数 2,020文字

 死体は白い革張りのソファの裏にあった。

 それまで家の立派さばかりにとらわれていたわたしは、家具をまわりこんだ直後、ここで殺人があったことをあらためて思い知らされた。死体は、それまでなんの変哲もなかった生活の場を一瞬にして異様な空間に変えてしまっていた。

 エリック・マートンは頭部に銃弾をうけ、仰向けに倒れて絶命していた。
 床にひろがる血溜まりは、ソファの背に飛び散った脳漿と同じく表面がかたまりはじめている。わたしの脳裏に、昨夜ほとんど手をつけなかったステーキのグレービーソースが浮かんだ。
 被弾の衝撃で飛び出した左目は、彼のトレードマークである銀縁眼鏡とともに顔の横にずり落ち、無事だった右目は天井を睨んでいる。顔の上半分で驚きの表情を浮かべるいっぽう、口はぽかんと半開きになっている。
 カメラのフラッシュがふたたび焚かれ、アンバランスな顔つきのマートンの傍らに転がっていたグラスと、そのなかに残っていた氷がいくつかの星を瞬かせる。グラスから流れた琥珀色の液体は、彼の血と混ざりあっていた。

「ちょっといいか?」リッチーが声をかけると、カメラを構えていた鑑識官が場所をゆずる。リッチーはしゃがみこみ、なんの躊躇もなくマートンの髪をわしづかみにして弾丸が飛び出したであろう後頭部をのぞきこんだ。「口径はでかいな。ライフルの……それもマグナム弾か」

 その行動にわたしは思わず顔をしかめた。

「弾は現場付近に残ってた。詳しく調べる必要はあるが、大きさからみて・四〇八シャイタック弾だ」班長が言いながら証拠品袋をよこす。

 シャイニー・タクティカル社製、M200とそれに使用される・四〇八シャイタック弾は、じつに二〇〇〇メートルを超える長距離狙撃も可能なほど安定した弾道をたもつことができる。受け取った袋のなかには、黄銅色の弾頭部分がひとつだけ入っていた。人の命を奪った凶器という事実からか、手の中でほのかな熱を発しているように感じた。
 わたしが証拠品を見つめているあいだに、マートンの頭部を手放したリッチーは立ち上がり、窓に背を向けて部屋全体を見わたした。

「玄関は施錠はされていたのか?」
「ああ。ご丁寧にドアチェーンまでかかってた」班長が答える。
「室内に凶器の銃は?」
「いいや、弾丸だけだ」
「死亡推定」
「昨夜の午前一時から三時のあいだってところか。詳しくは検死にまわさんとわからんがね」

 リッチーは腕組みしたまま考え込むと、ソファのそばに置かれたガラスのロウテーブルに視線を移した。その上にはウィスキーの壜とアイスピールが置かれている。アイスピールには氷が融けてできた水が溜まっており、その中でトングとマドラーが半身浴をしていた。
 床に落ちていたグラスとあわせて考えると、マートンはウィスキーをオン・ザ・ロックで飲んでいたのだろう。

「暖房はついていたのか」
「いまはもう切っちまったがな。それでもまだ暑いくらいさ。華氏八十度で設定されてたよ」

 リッチーは窓を振り返ると、罰当たりにも死体をまたいで反対側に転がるグラスを見おろした。

「リサ、こっちに来てみろ」

 リッチーに促され、わたしは彼の隣に立って肩をすくめてみせたが、マートンの亡骸にさらに近づくのは勇気が必要だったし、躊躇するのが表に出ないようにするのはそれ以上に苦労させられた。

「どうだ?」
「寒いわね、ここは」わたしは上着の前を閉じるようにして組んでいた腕をほどいて頭上を指さした。「だってほら、窓が開いてる」

 ぶ厚い二重構造の窓の上部は枠で仕切られており、一部が外倒しで開くようになっていた。
 昨夜のニューオーウェル市の冷え込みはかなりのもので、陽が昇ったあとも空気が冷え込んでいる。そんな外気が流れてきたせいか、窓際は室内を満たしていた熱気を寄せつけていない。

「たしかにそうだな」リッチーが鼻で笑う。
「こんなの見ればわかることじゃない」腹立ち紛れにわたしは言った。そこには警官殺しの現場の雰囲気に呑まれていたせいで、簡単な事実に気がつかなかったことへの悔しさもあったのだが。
「それじゃあ、窓は開いてる意味はわかるか?」
「マートンが換気かなにかをしようとしたんじゃないの。だって、ここはまるで蒸し風呂じゃない」
「それは原因だろ。おれが訊きたいのはそういうことじゃない。重要なのはな、リサ。密室と考えられる現場で唯一、この窓だけが外界とつながってるってことだ」

 リッチーの言いたいことがいまいちわからずに眉根を寄せていたわたしだったが、あることに思い至って目を見開いた。

「ちょっと待ってよ、リッチー。あなたまさか、あの窓から弾丸が撃ち込まれただなんて言うんじゃないでしょうね?」
「まあね」リッチーが頷く。
「ありえないわ」

 わたしはそう言ってふたたび頭上を見上げた。換気用窓の隙間は大人どころか子供だって通れないほど狭い。

「そいつは禁句だぞ、リサ。ありえない、なんて言葉は捜査の邪魔になるだけだ」
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