第二章 39
文字数 2,108文字
「とにかく、おれたちは現場を確保する。店にはもう誰もないんだろうな?」
「ひとり」わたしは答えた。「まだ被害者の孫がいる」
ティムは眉根を寄せると、「おいおい。どうして置いてきちまったんだ」
「心配ないわ。彼はなにもしてない」
「わかるもんか」
わたしは店に入ろうとするティムの腕をつかんで止めた。振り向いたティムの顔に浮かんだ苛立ちは、いよいよ怒りに変わりつつあった。
「お願い、手荒なことはしないで」
「約束はできんぞ」ティムは振りほどくようにして店に向かった。
「現場の指揮は誰が?」
「ベンソン刑事だ」ティムは振り返りもせずいうと、足早に店内の薄暗がりへと消えていった。
「リッチーが?」
「知り合いか?」ひとりごちたわたしにジョンが訊ねる。
そのとき、くすぶるようなエンジン音とともに一台の自動車が野次馬の輪と規制線を割るようにしてあらわれた。さきほどのわたし以上に躊躇のない運転だ。
わたしたちの手前三フィート足らずの距離までフロントグリルが迫らせてから、車は急停止した。すぐに運転席のドアが開き、ひとりの男が道路に降り立つ。
よれよれのコートをはおり、砂色の無精ひげがのびる口の端で煙草を銜えているのは、リッチー・ベンソンだった。
リッチーはわたしの姿を見てもたいして感情を動かされなかったと見え、ただその眠たげな目を<ホワイトフェザー>の店先に移して唇の隙間から白い煙を吐き出すだけだった。
「おいリッチー、リサだぜ」そう言ったのは助手席から出てきたマイクだった。「なんだってこんなところにいるんだ?」
マイクとだけ目が合ったことで、わたしの心臓は高鳴った。いつもこうだ。むきになるのはわたしばかりで、リッチーは涼しい顔しかしたことがない。
そう苛立ちながらも、わたしの脳裏では昨日見た彼のうちひしがれたような表情ばかりがよみがえっていた。
「制服警官はどこに行ったんだ?」わたしとマイクを無視するように、リッチーは路肩に停まった無人のパトカーを見ながらいった。
「ティムたちは店に入ったわ。現場確保の最中よ」
言いながらわたしがふたりの道を阻むように立つと、リッチーはようやくこちらに視線を向けてきた。
リッチーは一瞬、眉をひそめると、「はねっかえりのお嬢ちゃんがこんなところでなにしてる? 優雅にお買い物か?」
わたしはほんの少しの後ろめたさとともに、このベテラン刑事に食ってかかるのをはじめて躊躇した。彼が眉をひそめたとき、思いがけない感情がその目の奥で波打つのを見てしまったからだ。それは普段は飄々としているリッチーにはおよそ似つかわしくない深刻なものだった。その軽口からも感情を無理に押し殺していることがわかるほどに。それでもわたしは言った。
「ふざけないで。わたしはこの奥の現場にいたのよ。第一発見者なの」
「ふざけてるのはどっちだ、メリッサ・アークライト刑事。いつもの癇癪を爆発させたあとは仕事を放り出して雲隠れ。久しぶりに顔を見せたかと思えば男連れでいつもの減らず口か。いったいなんのつもりだ?」
言いながらリッチーはジョンのほうを見た。視力以外の感覚にすぐれたジョンがその鋭い眼光に気づかないはずはなかったが、彼はあくまで盲人であることに徹していた。
「マートン殺しの捜査よ」わたしはすぐに答えたが、内心ではいまのリッチーを相手にすることへ尻込みもしていた。「わたしも事件を洗いなおしてるの」
「なにが洗いなおしてる、だ。ろくに署にも顔を見せないでおいて、いまさら仲間の仇討ち気取りか?」
「あなたにだけは言われたくないわ! あの日、現場であなたがマートンにしたことだって忘れない。あなたこそ仇討ちなんて考えないでよ!」
「おれはそんなもの考えちゃいないさ。ただ刑事として、目の前で起きた事件の犯人を挙げていくだけだ。おまえさんはそうした刑事としての義務さえ捨てて逃げ出したんだよ、お嬢ちゃん」
「いいえ、捨ててなんかいない」
わたしは冷静だった。
顔は茹であがったみたいに熱く感じていたし、髪の毛が逆立つほど興奮もしていたが、それでも芯は冷えていた。
たとえ飲みこんだ熱湯を氷にして吐き出すことはできなくても、少なくとも〝お嬢ちゃん〟と言われても逆上しないほどには。
「警察官だった父は、被害者を尊んで、丁重にあつかった。たとえそれがどんな悪人であっても。そして解決のため、いつも真摯に事件と向き合っていた」
そのときだ、リッチーの銜えていた煙草の先が大きく持ち上がったのは。
わたしは手ごたえを感じていた。たとえ強く響くほどではなかったにせよ、わたしの最後の言葉は彼の感情をわずかなりとも動かすことに成功したらしい。
リッチーは煙草の火を消すと、吸殻をコートのポケットにしまった。
「勝手にしろ」
そう言ってリッチーはわたしをかわし、店の入り口へと歩いていった。なおも食い下がろうとするわたしを、彼が振り返る。その目を見た瞬間、わたしはそこから一歩も動けなくなってしまった。
「おまえさんはなにもわかっちゃいないよ。なにもだ」
店の中へ入っていくリッチーとマイクの姿が見えなくなると、わたしはその場にへたりこんでしまった。
「ひとり」わたしは答えた。「まだ被害者の孫がいる」
ティムは眉根を寄せると、「おいおい。どうして置いてきちまったんだ」
「心配ないわ。彼はなにもしてない」
「わかるもんか」
わたしは店に入ろうとするティムの腕をつかんで止めた。振り向いたティムの顔に浮かんだ苛立ちは、いよいよ怒りに変わりつつあった。
「お願い、手荒なことはしないで」
「約束はできんぞ」ティムは振りほどくようにして店に向かった。
「現場の指揮は誰が?」
「ベンソン刑事だ」ティムは振り返りもせずいうと、足早に店内の薄暗がりへと消えていった。
「リッチーが?」
「知り合いか?」ひとりごちたわたしにジョンが訊ねる。
そのとき、くすぶるようなエンジン音とともに一台の自動車が野次馬の輪と規制線を割るようにしてあらわれた。さきほどのわたし以上に躊躇のない運転だ。
わたしたちの手前三フィート足らずの距離までフロントグリルが迫らせてから、車は急停止した。すぐに運転席のドアが開き、ひとりの男が道路に降り立つ。
よれよれのコートをはおり、砂色の無精ひげがのびる口の端で煙草を銜えているのは、リッチー・ベンソンだった。
リッチーはわたしの姿を見てもたいして感情を動かされなかったと見え、ただその眠たげな目を<ホワイトフェザー>の店先に移して唇の隙間から白い煙を吐き出すだけだった。
「おいリッチー、リサだぜ」そう言ったのは助手席から出てきたマイクだった。「なんだってこんなところにいるんだ?」
マイクとだけ目が合ったことで、わたしの心臓は高鳴った。いつもこうだ。むきになるのはわたしばかりで、リッチーは涼しい顔しかしたことがない。
そう苛立ちながらも、わたしの脳裏では昨日見た彼のうちひしがれたような表情ばかりがよみがえっていた。
「制服警官はどこに行ったんだ?」わたしとマイクを無視するように、リッチーは路肩に停まった無人のパトカーを見ながらいった。
「ティムたちは店に入ったわ。現場確保の最中よ」
言いながらわたしがふたりの道を阻むように立つと、リッチーはようやくこちらに視線を向けてきた。
リッチーは一瞬、眉をひそめると、「はねっかえりのお嬢ちゃんがこんなところでなにしてる? 優雅にお買い物か?」
わたしはほんの少しの後ろめたさとともに、このベテラン刑事に食ってかかるのをはじめて躊躇した。彼が眉をひそめたとき、思いがけない感情がその目の奥で波打つのを見てしまったからだ。それは普段は飄々としているリッチーにはおよそ似つかわしくない深刻なものだった。その軽口からも感情を無理に押し殺していることがわかるほどに。それでもわたしは言った。
「ふざけないで。わたしはこの奥の現場にいたのよ。第一発見者なの」
「ふざけてるのはどっちだ、メリッサ・アークライト刑事。いつもの癇癪を爆発させたあとは仕事を放り出して雲隠れ。久しぶりに顔を見せたかと思えば男連れでいつもの減らず口か。いったいなんのつもりだ?」
言いながらリッチーはジョンのほうを見た。視力以外の感覚にすぐれたジョンがその鋭い眼光に気づかないはずはなかったが、彼はあくまで盲人であることに徹していた。
「マートン殺しの捜査よ」わたしはすぐに答えたが、内心ではいまのリッチーを相手にすることへ尻込みもしていた。「わたしも事件を洗いなおしてるの」
「なにが洗いなおしてる、だ。ろくに署にも顔を見せないでおいて、いまさら仲間の仇討ち気取りか?」
「あなたにだけは言われたくないわ! あの日、現場であなたがマートンにしたことだって忘れない。あなたこそ仇討ちなんて考えないでよ!」
「おれはそんなもの考えちゃいないさ。ただ刑事として、目の前で起きた事件の犯人を挙げていくだけだ。おまえさんはそうした刑事としての義務さえ捨てて逃げ出したんだよ、お嬢ちゃん」
「いいえ、捨ててなんかいない」
わたしは冷静だった。
顔は茹であがったみたいに熱く感じていたし、髪の毛が逆立つほど興奮もしていたが、それでも芯は冷えていた。
たとえ飲みこんだ熱湯を氷にして吐き出すことはできなくても、少なくとも〝お嬢ちゃん〟と言われても逆上しないほどには。
「警察官だった父は、被害者を尊んで、丁重にあつかった。たとえそれがどんな悪人であっても。そして解決のため、いつも真摯に事件と向き合っていた」
そのときだ、リッチーの銜えていた煙草の先が大きく持ち上がったのは。
わたしは手ごたえを感じていた。たとえ強く響くほどではなかったにせよ、わたしの最後の言葉は彼の感情をわずかなりとも動かすことに成功したらしい。
リッチーは煙草の火を消すと、吸殻をコートのポケットにしまった。
「勝手にしろ」
そう言ってリッチーはわたしをかわし、店の入り口へと歩いていった。なおも食い下がろうとするわたしを、彼が振り返る。その目を見た瞬間、わたしはそこから一歩も動けなくなってしまった。
「おまえさんはなにもわかっちゃいないよ。なにもだ」
店の中へ入っていくリッチーとマイクの姿が見えなくなると、わたしはその場にへたりこんでしまった。