第二章 54

文字数 1,232文字

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 無事に契約がまとまり、ジョンを買って上機嫌だったピーノの表情は、アメリカへの帰途につくころにはすっかり険しいものに変わっていた。ジョンのことで、ピーノにとって思わぬ誤算が起きていたからだ。

 たとえば車のセールスマンは商品を売るとき、エンジンの馬力やステアリングの性能について語ることで、これがいかに値打ちものであるかを吹聴するが、肝心の燃費や維持費についてはひた隠しにしたり、大した問題ではないと強調したりもする。
 あの売人も安さばかりを声高に勧めるばかりで、人間をひとり買うことについてどれだけのデメリットが生じるのかについてはほとんど説明をしていなかった。
 もちろんそれは、客の買い渋りを防ぐためのテクニックでもあるのだろうが、同時に人身売買において暗黙の了解だったとも言えるのかもしれない。
 だがピーノにとって、それはまったく念頭にない問題だった。

 要するにジョンには金がかかったのだ、それも多額の。

 衣服、食事、寝床。どこかへ移動するときに交通機関を使えば料金が余計にかかるし、自動車ではシートがひとつ埋まる。
 さらに都合の悪いことに、売人はジョンを文字通り身ひとつで売り渡したのだ。そのため戸籍や国籍などもなく、偽造IDを一式揃えるだけで目玉の飛び出るような金額が必要になる。

 そうした現代人としての証明をジョンが手に入れられるのは、ずっとあとになってからのことだった。
 少年の頃のジョンは、存在しない幽霊のようなものだった。ピーノにとってはそのほうが都合がよかったからだ。

 仮に彼が犯罪に手を染めたとしても、はじめから社会的に存在しない人間であれば当局からの追及をかわすことができる。マフィアの、そのなかでも特に汚れた仕事を請け負うには適任だった。だが仕事をこなせるようになるまでには、やはりたくさんの手間と時間と、なにより金が必要だった。

 ピーノたちはアルベローニの手配した船に乗り、海路で大西洋を渡ってアメリカを目指していた。
 アルベローニ・ファミリーは海運業に顔が利いたので、ピーノも空路より海路を使うほうが安全だった。

 だが、それはジョンにとっては危険な航海だった。海は穏やかだったが、船内では嵐が吹き荒れていたのだ。
 その台風の目こそ、ほかならぬピーノだった。

 爆破事件のほとぼりも冷め、ようやくアメリカ本土に帰れるにも関わらず、長く退屈な船旅を強いられていたピーノは機嫌を損ねていた。
 指名手配犯であるピーノにとっては海路のほうが安全なのだが、彼は自分の三半規管の弱さを棚にあげ、波に揺られながら半日に一度は海面に反吐をぶちまけなければならないのは、過ちから買い上げたひとりの少年のせいだと決めつけていた。

 おまけにその少年にはこれでもかというほど金がかかる。これから意気揚々と帰国し、思う存分暴れまわろうとしている出端をくじかれたと感じていたのだ。この気まぐれで横暴な男が、その責任をジョンに押し付けないはずがなかった。
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