第二章 37

文字数 2,749文字

「そいつは突然やってきたんです」

 どれくらいの時間が経っただろう。トチロウが祖父の膝に突っ伏したまま言った。彼の声音はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
 夕日は相変わらず窓から差し込んいる。まるでこの部屋だけ時間が止まっているかのようだ。

「あの電話のあと、じいちゃんは一階から、二階にいたおれに屋根裏の整理をするように言ったんです。普段は面倒だからやらなくていいって、あれほど言ってたのに……おれがなにか言おうとすると、口ごたえするなってすごい剣幕で怒鳴るんですよ。それでおれも仕方なく屋根裏に行ったんです。

 しばらく作業してると、下から言い争うような声が聞こえたんです。
 いや、違うな。じいちゃんの叫び声しか聞こえなかった。おれはその場ですくんじまいました。あのときのじいちゃんの声はひどく怯えたものだったから……おれはこの人がそんなになるところなんて、いままで一度も見たことがありません。
 おれたちの商売を横取りしようと地元のチャイニーズマフィアが店に押しかけてきたときだって、この人は連中に正面から啖呵をきって追い返したんですよ。それがまるで、五歳の子供みたいに泣きじゃくってたんです。おれはそこからもう動けませんでした。

 それからしばらくして、悲鳴どころかなにも聞こえなくなりました。おれはすぐにでもじいちゃんのところに行くべきだった。なのに根が生えたみたいに立ち尽くしてたんです。ずいぶん経ってから店の外が騒がしくなって、車が止まる音がしました。それから店のドアが開く音も。そこでようやくおれは銃を持って階段をおりたんです」

 放心したトチロウが耳にしたのは、わたしたちが店に忍びこんだ音なのだろう。我ながら静かに素早く動いていたつもりだったが、想像以上にうるさくしていたらしい。

 トチロウが銃を手に二階からおりてきたことに、わたしは背筋が凍る思いだった。
 もしもトチロウと階段でばったりでくわしていたら、襲撃者と間違えられた挙句に撃ち殺されていたかもしれない。店はあちこち薄暗く、同士討ちがおきてもおかしくはない。いみじくも、わたしは階段にさしかかったときに階上からの襲撃を警戒していたではないか。

 わたしたちは早くも、顔の見えない誰かに踊らされていたのかもしれない。いもしない亡霊に惑わされ、お互いを危険にさらして。

「ごめんな、じいちゃん……」トチロウはふたたび声を震わせた。「おれがもっと早くきてたら……痛かったよな、怖かったよな。ごめん、ごめんな。じいちゃん……」

 トチロウはおもむろに床に手をのばすと、散らばっていた祖父の指を拾い集めた。
 わたしは彼を止めることができなかった。ここで現場保全について一席ぶつなど、できるはずがなかった。そもそもわたし自身、現場にずかずかと押し入るや、生死を見極めるためとはいえ不用意にもミヤギ氏の亡骸に触れてしまったのだ。

 ジョンとの電話が不自然に切れたことから察するに、トチロウに屋根裏の整理を命じたとき、すでにミヤギ氏はサム・ワンと対峙していたのだろう。彼は孫を守るために一階まで来させまいとしたのだ。その場に立ち会っていたら、トチロウもこうして生きてはいなかったに違いない。

 だがサム・ワンにトチロウを見逃すメリットはあったのだろうか?
 トチロウが店の二階にいることは明白だったはずだし、凄腕の暗殺者なら標的がふたりになったとしても対応できなくはないはずだ。
 しかしサム・ワンは、あえてトチロウの命を奪うことはしなかった。

 これは宣戦布告だ、わたしは思った。
 サム・ワンはアルベローニ・ファミリーからわたしたちへのメッセージとして、トチロウとミヤギ氏にそれぞれ役割をあたえたのだ。ひとりを証人として、ひとりをみせしめとして。
 ひょっとすると、この残酷な取引をもちかけたのはミヤギ氏本人なのかもしれない。彼はこうすることで、冷酷な暗殺者の手から孫の命を救う唯一の方法を得たのではないか。

 だが、たとえ頭に銃を突きつけられたとしても、わたしはこの考えをトチロウに言うつもりはなかった。あくまで推論にすぎなかったし、トチロウがこの考えを知ればまず自分を責めるだろう。そうなれば、彼の心は間違いなく押し潰されてしまう。

 表で唸るような短いサイレンの音がした。通報を受け、付近を巡回していたパトカーが駆けつけたのかもしれない。
 止まっていた時間がふたたび動き出した。

「ジョン、警察がきたわ」わたしはそう言いながらも、トチロウから視線をはずせなかった。

 うなだれたトチロウがその場を動く様子はなかった。力が抜けて立てないというより、自らの意志でそこにとどまっているようだ。

「表に警官がきていたら、事情を説明してもらえるか?」ジョンが言う。「少しのあいだだけでもふたりだけにしてあげよう」
 わたしは頷くと、「どのみち、梃子でも動きそうにないものね」

 わたしたちは無言のまま倉庫から立ち去ろうとした。

「リップさん、リサ」それをトチロウが呼び止める。静かな、それでいてしっかりと耳に届く声だった。「じいちゃんから電話で聞いてるはずです、あの弾丸の持ち主のことを。おれ、頭悪いけど、でもわかります。おふたりが探してるのと、じいちゃんをこんなふうにしたやつは同じってことが。だからお願いです。そいつを絶対に逃がさないでください」

 わたしは口を開きかけたものの、なんと答えたらいいのかわからなかった。正直なところ、トチロウの願いを請合うことが怖かったのだ。
 心からこの青年には同情するが、同時にわたしは襲撃者のことを恐れてもいた。
 約束してしまったが最後、その悪意のかたまりのような存在を相手にしなくてはならなくなる。そう思うと、わたしの口からは言葉がいっこうに出てこようとはしなかった。

「わたしは仇討ちなんてしないよ」考えあぐねるわたしをよそにジョンが言った。
「ちょっと、ジョン」
「トチロウ、きみもミヤギさんの仕事がどんなものか知っていただろう。彼の裏稼業のことを考えれば、遅かれ早かれこうなることはわかっていたはずだ。そしてミヤギさん自身にもその覚悟はあった。そもそも、仇討ちなんてわたしの柄じゃない」

 睨みつけるわたしをよそにジョンは出口へ向かった。

「だがミヤギさんはわたしにとって、もっとも頼りになる商売仲間だった」倉庫の出入り口で足を止めると、ジョンは振り返らずにそう言った。「彼はわたしに信頼に値する銃を調達してくれ、情報を仕入れてくれた。目も見えず、裏稼業で使い物になるのかどうかもわからないわたしを、対等な取引相手として扱ってくれた。それがわたしの答えだ。トチロウ、きみに言われるまでもない。やつには必ず、ミヤギさんの命に見合った報いを受けてもらう」
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