第二章 71
文字数 1,427文字
シシーの家は街はずれの集合住宅の三階にあった。一階部分はバーになっており、真昼間からジュークボックスの大音量が建物を振動させている。
階上にあがるには裏手にある外階段を使う必要があり、その一段目に座り込んだ浮浪者が紙袋に入れた酒瓶を片手に、赤らんだ顔を錆びついた手摺にもたせかけていた。
ジョンは散らかったごみと浮浪者を避けながら階段をのぼった。
もぐりの売人については道すがら、公衆電話でレオに報告を済ませておいた。レオと話しながら脳裏に浮かんでいたのは、煙草を銜え、マッチの火に照らされたシシーの横顔だった。できたばかりの痣を、短い前髪で隠すように俯いたシシーの横顔。
レオには戻る時間を多めに見積もって告げていた。シシーの家を訪ねるためだった。
見えすいた嘘だったし、そうしてまで道草を食うべきではないことは確かだった。だがレオはできるだけ早く帰ってこいと言っただけで、それ以上はなにも訊こうとはしなかった。
三階の非常口からドアが並ぶ廊下に入る。
天井の電灯は割れるか切れるかしており、廊下の薄闇にまぎれてひと組の男女が昼下がりの抱擁を交わしていた。
視線を落としながら進んでいたにも関わらず、ジョンは途中でなにかに躓いた。
三輪車だった。
こんなところに子供が住んでいるのだろうか。三輪車は塗装もぼろぼろで、うち捨てられたその感じがかえってこの建物の雰囲気に合っていた。
シシーの部屋は廊下の突きあたりにあった。
行き止まりに面した壁には窓があり、優しげな陽だまりを作っている。ジョンはその陽だまりに立つと、シシーの部屋のドアに向きなおった。
呼び鈴に指をのばすのがためらわれる。長く顔を合わせていなかったシシーにどう声をかけるべきかわからない。ここまで来ておきながら、引き返すという選択肢まで浮かんでしまう。
耳をすまして部屋の様子を探ろうとしてみたものの、廊下でささやきあうカップルの声と、足元から響く重低音がその邪魔をする。
ジョンは深呼吸をひとつすると、意を決して呼び鈴を押した。シシーに会いたいという気持ちよりも、時間を浪費しているという焦りが彼の行動を決定づけた。
だが反応はなかった。
来客への返答もなければ、ドアがわずかに開いて、隙間からシシーがこちらを覗きこむこともなかった。
一度決心してしまえば人間は大胆になるもので、ジョンはふたたび呼び鈴を押してみた。今度は幾分か長く。
だがしばらく待っても、やはり反応はなかった。
留守なのか。落胆と安堵を胸に廊下を引き返そうとしたとき、周囲の喧騒からはっきり浮かびあがるように、部屋の奥からなにかの物音がした。
ごとり、と重たいものを落とすような音だった。
胸騒ぎがした。思い過ごしだという楽観的な考えをかき消すように、ジョンはのばした手でドアノブをまわした。
ドアは施錠されておらず、なんの抵抗もなく開いた。
中に入ると、すぐ左手には手狭なキッチンがあり、正面の奥に寝室と思しき部屋が見える。ろくな換気もされていないのか、すえたにおいがたちこめている。
部屋の中は廊下よりもさらに暗く、閉ざされたシェードごしのくすんだ日光だけがぼんやりと室内の輪郭を描いている。
キッチンのシンクにはデリバリー食品の容器がうずたかく積まれ、そこを得体の知れない虫が這いまわっていた。
「シシー?」
ジョンは暗がりに声をかけたが、返事はない。
空耳だったのかと思いながらも、足は奥へと進んでいった。
階上にあがるには裏手にある外階段を使う必要があり、その一段目に座り込んだ浮浪者が紙袋に入れた酒瓶を片手に、赤らんだ顔を錆びついた手摺にもたせかけていた。
ジョンは散らかったごみと浮浪者を避けながら階段をのぼった。
もぐりの売人については道すがら、公衆電話でレオに報告を済ませておいた。レオと話しながら脳裏に浮かんでいたのは、煙草を銜え、マッチの火に照らされたシシーの横顔だった。できたばかりの痣を、短い前髪で隠すように俯いたシシーの横顔。
レオには戻る時間を多めに見積もって告げていた。シシーの家を訪ねるためだった。
見えすいた嘘だったし、そうしてまで道草を食うべきではないことは確かだった。だがレオはできるだけ早く帰ってこいと言っただけで、それ以上はなにも訊こうとはしなかった。
三階の非常口からドアが並ぶ廊下に入る。
天井の電灯は割れるか切れるかしており、廊下の薄闇にまぎれてひと組の男女が昼下がりの抱擁を交わしていた。
視線を落としながら進んでいたにも関わらず、ジョンは途中でなにかに躓いた。
三輪車だった。
こんなところに子供が住んでいるのだろうか。三輪車は塗装もぼろぼろで、うち捨てられたその感じがかえってこの建物の雰囲気に合っていた。
シシーの部屋は廊下の突きあたりにあった。
行き止まりに面した壁には窓があり、優しげな陽だまりを作っている。ジョンはその陽だまりに立つと、シシーの部屋のドアに向きなおった。
呼び鈴に指をのばすのがためらわれる。長く顔を合わせていなかったシシーにどう声をかけるべきかわからない。ここまで来ておきながら、引き返すという選択肢まで浮かんでしまう。
耳をすまして部屋の様子を探ろうとしてみたものの、廊下でささやきあうカップルの声と、足元から響く重低音がその邪魔をする。
ジョンは深呼吸をひとつすると、意を決して呼び鈴を押した。シシーに会いたいという気持ちよりも、時間を浪費しているという焦りが彼の行動を決定づけた。
だが反応はなかった。
来客への返答もなければ、ドアがわずかに開いて、隙間からシシーがこちらを覗きこむこともなかった。
一度決心してしまえば人間は大胆になるもので、ジョンはふたたび呼び鈴を押してみた。今度は幾分か長く。
だがしばらく待っても、やはり反応はなかった。
留守なのか。落胆と安堵を胸に廊下を引き返そうとしたとき、周囲の喧騒からはっきり浮かびあがるように、部屋の奥からなにかの物音がした。
ごとり、と重たいものを落とすような音だった。
胸騒ぎがした。思い過ごしだという楽観的な考えをかき消すように、ジョンはのばした手でドアノブをまわした。
ドアは施錠されておらず、なんの抵抗もなく開いた。
中に入ると、すぐ左手には手狭なキッチンがあり、正面の奥に寝室と思しき部屋が見える。ろくな換気もされていないのか、すえたにおいがたちこめている。
部屋の中は廊下よりもさらに暗く、閉ざされたシェードごしのくすんだ日光だけがぼんやりと室内の輪郭を描いている。
キッチンのシンクにはデリバリー食品の容器がうずたかく積まれ、そこを得体の知れない虫が這いまわっていた。
「シシー?」
ジョンは暗がりに声をかけたが、返事はない。
空耳だったのかと思いながらも、足は奥へと進んでいった。