第二章 75
文字数 1,566文字
「彼を殺さないで……」
その声音から、シシーが男に対して愛情に近いものを抱いていることがわかった。
男はシシーにとって、破滅をもたらした悪魔のような存在でありながら、この苦痛から解放してくれる唯一の救世主でもあったのだ。
救われるためなら、シシーはどれだけ浅ましく卑屈なことでもするだろう。事実、彼女はこの薄汚い下種のものをくわえこんだのではないか。もっと言えば、シシーが男に抱いていたのは愛情ではなく、むしろ崇拝に近い感情だったのかもしれない。
ジョンは捨て鉢になりかけていた。
これ以上、自分が知っていたシシーの変わり果てた姿を見たくはなかった。男の身柄がどうなろうと知ったことではなかったし、撃てば十中八九自分を殺すであろうシシーの銃の存在もどうでもよかった。
むしろ脳みそを浴室の白いタイルにぶちまけることが幕引きとなっても、この舞台を降りられるのならば瑣末な問題に思えた。
「シシー……」
ジョンはそれだけ言った。この数ヶ月というもの、ひとりきりでいるときなどにしばしば口にしながら、けして本人には届くことがなかった呼びかけだった。
それに呼応するかのように、シシーの唇がかすかに震える。
「ジョン……」
はじめ、吐息にかき消されそうなその声を、ジョンは幻聴だと勘違いした。
この長い日々の中、思い焦がれていた相手からの呼びかけを欲していた自分が作り出した妄想の産物だと、そう思えてならなかった。
だがシシーの顔を見て、それが嘘などではないことを知った。
瞳こそ虚ろなものの、彼女は口元にかすかな笑みを浮かべていたのだ。それはジョンがこれまで見たことがないほど弱々しく、しかしなによりも美しい笑みだった。
禁断症状という深く暗い森を抜け、シシーの心は束の間差し込んできた太陽の光を浴びたのだろうか。それともほんの気まぐれから、ショートしていた脳の配線が正常な形に戻ったのだろうか。いずれにせよ、ジョンはこの機を逃さなかった。
「シシー、おれがわかるのか?」
シシーは顎を引くように、ほんの少しだけ頷いた。慎重そうなその仕草に危うさを感じてジョンが身構えていなかったら、すべてが手遅れになっていただろう。
「ジョン、そこにいたのね」
そう言ったシシーの手には拳銃がおさまったままだった。彼女が銃を自分のほうへと引き寄せたとき、ジョンは男から離れて床を蹴っていた。
シシーが銃口を自分のこめかみにあてた瞬間、ジョンは彼女に飛びかかっていた。
その直後、浴室に先ほどのものよりも幾分低い銃声が響いていた。
天井の一部が砕け、かびくさいおがくずが降りそそぐ。
ジョンとシシーはバスタブの中で組み合いながら、天井の細かい破片を頭から浴びていた。
ジョンは拳銃を持ったシシーの右手首をつかみ、スターターピストルよろしく頭上に掲げていた。もう片方の手にはレオから譲り受けた拳銃を持ったまま、シシーの肩をつかんでいた。
ジョンの手に銃把ごとすっぽりとおさまってしまうほど細い肩は、ほんのわずか力をこめただけでも折れてしまいそうなほど華奢だった。そしてシシーの肌は、裏路地でマッチの火に浮かびあがるたび、密かに想像していたとおりの滑らかさだった。
「馬鹿はよせ」
ジョンはそう口にした直後、自分が涙を流していることに気がついた。
度重なる興奮を経て感情を操る舵がきかなくなっているせいで、その涙が悲しみからにじんだものなのか、嬉しさからあふれたものなのかはわからなかった。
それでも、一歩誤れば目の前でシシーを失っていたかもしれない事実に戦慄し、震えが止まらなかった。
シシーもジョンと同じように泣いていた。ただしジョンと違って、彼女は子供のようにわめき散らしてもいた。
それから銃をジョンにあずけると、シシーは彼の胸にすがりついてさらに泣き続けた。
その声音から、シシーが男に対して愛情に近いものを抱いていることがわかった。
男はシシーにとって、破滅をもたらした悪魔のような存在でありながら、この苦痛から解放してくれる唯一の救世主でもあったのだ。
救われるためなら、シシーはどれだけ浅ましく卑屈なことでもするだろう。事実、彼女はこの薄汚い下種のものをくわえこんだのではないか。もっと言えば、シシーが男に抱いていたのは愛情ではなく、むしろ崇拝に近い感情だったのかもしれない。
ジョンは捨て鉢になりかけていた。
これ以上、自分が知っていたシシーの変わり果てた姿を見たくはなかった。男の身柄がどうなろうと知ったことではなかったし、撃てば十中八九自分を殺すであろうシシーの銃の存在もどうでもよかった。
むしろ脳みそを浴室の白いタイルにぶちまけることが幕引きとなっても、この舞台を降りられるのならば瑣末な問題に思えた。
「シシー……」
ジョンはそれだけ言った。この数ヶ月というもの、ひとりきりでいるときなどにしばしば口にしながら、けして本人には届くことがなかった呼びかけだった。
それに呼応するかのように、シシーの唇がかすかに震える。
「ジョン……」
はじめ、吐息にかき消されそうなその声を、ジョンは幻聴だと勘違いした。
この長い日々の中、思い焦がれていた相手からの呼びかけを欲していた自分が作り出した妄想の産物だと、そう思えてならなかった。
だがシシーの顔を見て、それが嘘などではないことを知った。
瞳こそ虚ろなものの、彼女は口元にかすかな笑みを浮かべていたのだ。それはジョンがこれまで見たことがないほど弱々しく、しかしなによりも美しい笑みだった。
禁断症状という深く暗い森を抜け、シシーの心は束の間差し込んできた太陽の光を浴びたのだろうか。それともほんの気まぐれから、ショートしていた脳の配線が正常な形に戻ったのだろうか。いずれにせよ、ジョンはこの機を逃さなかった。
「シシー、おれがわかるのか?」
シシーは顎を引くように、ほんの少しだけ頷いた。慎重そうなその仕草に危うさを感じてジョンが身構えていなかったら、すべてが手遅れになっていただろう。
「ジョン、そこにいたのね」
そう言ったシシーの手には拳銃がおさまったままだった。彼女が銃を自分のほうへと引き寄せたとき、ジョンは男から離れて床を蹴っていた。
シシーが銃口を自分のこめかみにあてた瞬間、ジョンは彼女に飛びかかっていた。
その直後、浴室に先ほどのものよりも幾分低い銃声が響いていた。
天井の一部が砕け、かびくさいおがくずが降りそそぐ。
ジョンとシシーはバスタブの中で組み合いながら、天井の細かい破片を頭から浴びていた。
ジョンは拳銃を持ったシシーの右手首をつかみ、スターターピストルよろしく頭上に掲げていた。もう片方の手にはレオから譲り受けた拳銃を持ったまま、シシーの肩をつかんでいた。
ジョンの手に銃把ごとすっぽりとおさまってしまうほど細い肩は、ほんのわずか力をこめただけでも折れてしまいそうなほど華奢だった。そしてシシーの肌は、裏路地でマッチの火に浮かびあがるたび、密かに想像していたとおりの滑らかさだった。
「馬鹿はよせ」
ジョンはそう口にした直後、自分が涙を流していることに気がついた。
度重なる興奮を経て感情を操る舵がきかなくなっているせいで、その涙が悲しみからにじんだものなのか、嬉しさからあふれたものなのかはわからなかった。
それでも、一歩誤れば目の前でシシーを失っていたかもしれない事実に戦慄し、震えが止まらなかった。
シシーもジョンと同じように泣いていた。ただしジョンと違って、彼女は子供のようにわめき散らしてもいた。
それから銃をジョンにあずけると、シシーは彼の胸にすがりついてさらに泣き続けた。