第二章 56

文字数 2,573文字

「それじゃあ最終ラウンドといこうや。これに勝ったらさっさと部屋に戻れよ」

 ジョンはきっぱりと頷いた。それどころか顔じゅうに笑顔さえ浮かべていた。

 ピーノは突如、持っていた煙草を投げ捨てると、ジョンに張り付いた笑みごと彼の顔をわしづかみにし、力ずくで手摺に押しつけた。柵の横棒が首に食い込み、それまでの短い半生ではじめて耳にするような声が自分の喉からしぼりだされる。

 突然のことに、ジョンは痛みや恐怖よりも先に驚きを感じた。畏怖の対象であろうと、ついさっきまで一緒にゲームに興じていたピーノの豹変ぶりが信じられなかった。

「おれはな、後悔してるんだよ」

 ピーノが耳元でささやいてくる。静かな声だったが、息のできない苦しみも相まってジョンは心臓を握りつぶされたような気分になった。

「おまえみたいな小僧をつかまされちまってよ。おまけに名付け親にまでなっちまった。払った金はどうする? おまえが一丁前になって返すまで待ってろっていうのか? 冗談じゃねえぜ……過去は帳消しにできねえよな、そいつはおれもわかってる。だが未来はどうだ? もしこれから先も、おまえに損しかねえとなれば、ここでさっさとけりをつけちまうのも手だよな」
「離して……」ジョンはしぼりだした自分の声にまたしても驚かされた。まるで老人のようにしわがれた声だった。
「言っただろ。勝ったら部屋に帰してやる。時間は十秒、おれに関係する言葉を十個言ってみろ。それができたら離してやる……できなくても離してやるよ。ただし、そのときはこっちにだ」

 言いながらピーノはさらに力をこめ、船の真下に広がる淀んだ海面をジョンに見せた。
 スクリューに巻き上げられた白波が眼下で乱れた線を引いている。まるでさきほどピーノが手にしていた煙草の煙のようだ。
 そこでまずジョンは、薄れはじめた意識の中でピーノと煙草を結びつけた。

 残りはあと九つ。時間は十秒。その絶望的な数字に、酸欠で鈍りだしたジョンの頭脳はなかばパニックにおちいっていた。

「さあ、言ってみろ!」

 言いながらピーノは腕の力をさらにこめた。視界がぼやけ、うっすらと赤みを帯びていく。なにかの筋が切れるようないやな音が喉の奥で響く。
 ピーノははじめからジョンに勝たせるつもりなどなかったのだ。まず一問目で要領を覚えさせ、二問目でスリルを味わわせつつ、それを切り抜けた自分の実力に自惚れを持たせる。

 そして最後にどん底へと突き落とす。
 ピーノは最初から、手の平に置いたキャンディをちらつかせておいて、背中にまわしたもう片方の手に隠し持ったナイフでぶすりとやるつもりだったのだ。

「ほら半分が過ぎたぞ」

 頭上からというより、ずっと遠くのほうからピーノの声が聞こえる。視界はさらに赤黒く変わり、その暗さも増していった。それでもなんとか「煙草」と言おうとして懸命に喘いだ。
 だが、ひとつ答えられたところで残りはまだ九つある。対して残り時間はたった三秒だ。

「なにをしている?」

 目の覚めるような怒鳴り声にピーノの力が緩む。その拍子に、気道とともに視界が一気にひらけた。
 ジョンは一瞬の隙を逃さずピーノの手を振りほどくと、床を這うようにして柵のそばを離れた。塩辛い海風が痛んだ喉を焼くのもおかまいなしに、あえぐように空気を吸う。

「なにをしているかと訊いたんだ」

 二度目の声に顔をあげると、渋面を浮かべたレオが腕を組んで立っていた。

「見てのとおりだよ」ピーノは両手を広げてみせた。「ちょっとふざけてただけさ」

 これはマフィアの常套句だ。
 相手を殴ったら「ふざけてただけ」。殺してしまったら「おふざけがすぎたんだ」。それで許されると思っている。

 レオはため息をつくと、大股でふたりに歩み寄った。ピーノはそれを尻目に悠々と新しい煙草に火をつけている。

「真面目に答えろ」レオがピーノに詰め寄る。
「怖い顔するなよ。たかだか子供一匹だ」
「ああ、そうだな。ほんの一匹だ。だが大枚をはたいて半月前に買ったばかりの子供だ。それも組織の金でな。おまえの兄貴からもらった金だ。それがわかっているのか?」
「それがどうした。兄貴が金で買ったから大事にしろと?」
「意味のあるものにしろと言っているんだ。おまえがなにを買ってそいつをどうしようと勝手だがな、ロディは無意味なことを嫌うぞ」
「少なくとも数日は小突きまわして遊んでやったさ。だがな、金がかかりすぎるんだよ。それこそ兄貴の金の浪費だぜ。なに、ここでばらしちまえば足はつかねえ。大丈夫さ、どうせ誰にも知られてねえ、いてもいなくてもわからねえ小僧なんだ」
「それで本国に帰ったらどう説明する? なるほど、ロディは子供がひとりくたばったところでなんとも思わねえ。だがな、おまえが考えなしの札付きからなにも成長していないと知ったらひどく落胆するだろうよ。それから激怒するぜ。いいか、おれはその巻き添えはごめんだ。そいつをここに――」レオはピーノの胸板に指を突きつけると、「銘じておけ」
「おれに説教をたれるんじゃねえよ」ピーノはレオの指を振り払った。ピーノの手から煙草が飛び、火の粉を散らしながらふたたび海へと落ちていった。「それにここはおまえの古巣じゃねえ。兄貴のところでも、そのまた前の古巣でもねえんだ。いいか、いまのおまえの主人はこのおれなんだ。飼い犬が主人の足元で糞をたれるんじゃねえ」

 ピーノはそう言ってレオを脇へ押しやると、船室へと歩いていった。
 レオはそれを止めも追いもせず、その後ろ姿をただ黙って見ていた。

「ああ、そうだ。ジョン……」ピーノが立ち止まる。「楽しかったぜ。またゲームをしようや」

 そう言って振り返ったピーノの笑みを見て、ジョンは心底震えあがった。窒息しかけた息苦しさや喉の痛みは、ピーノへの恐怖で吹き飛んでいた。彼はピーノが船室に入って後ろ手にドアを閉めるまで、その背中から目を離せずにいた。

「おまえもさっさと戻れ」ピーノの呪縛からジョンを解放してくれたのは、またしてもレオの声だった。「船倉に入ったら二度と外に出るな。陸にあがるまでだ。二度目はないからな」

 レオとジョンの視線がかち合う。その茶色い瞳からレオがなにを考えているのかを察するのは難しかった。
 だが彼の瞳に一瞬だけよぎった光に、ジョンは憐れみを見た気がしたという。
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