第一章 27

文字数 1,609文字

 階段をのぼりきった先にある通用口のドアを数インチほど開けると、ジョンはその場でわたしを振り返った。

「きみは見届け人だ」ジョンは言った。「同時に監視者であり、わたしのパートナーでもある。それがきみの役目だ。バックパックは持ってきたな?」
「ええ、ここにある」
「よし、中に双眼鏡がある、それからファイルも。金庫にしまってあったものの片方だ。わかるね?」
「やっと見せてもらえるのね」
「まだだ。まずは双眼鏡だけだ」

 おあずけをくらったが、わたしは彼の言うとおりに双眼鏡だけを取り出した。

「よし、ここにきてくれ」

 わたしはジョンがあけてくれた場所におさまった。ドアの隙間からはビルの屋上と、わずかに切りとられた街並みを見ることができた。
 ニューオーウェルはまだ夜が明けきっていなかったが、頭上の暗闇から視線をおろすと、ビルの谷間から空が徐々に白みはじめ、海も朝焼けで真っ赤に燃えていた。

 ジョンはそばの壁にもたれると、わたしにさらに指示を出した。

「倍率を調整して建物を見てくれ。三百五十ヤード先の、ガラス張りの新しいビルだ」
「見えたわ」

 ピントを調整しながらわたしは答えた。双眼鏡のレンズが朝日を反射するビルを拡大して映す。
 双眼鏡はかなりの高倍率で、遠方にあるはずのビルとの距離が一気に縮まって見えた。

「よし。ビルの十五階、手前の背の低いビルの屋上にある旗の真上にある窓を見てくれ」
「十五階……旗の真上……見つけた」
「明かりはついているか?」
「いいえ、暗いままよ」
「ではそのまま見張って、部屋の明かりがついたら声をかけてくれ」
「それだけ?」

 わたしは思わず双眼鏡から目を離した。ジョンは手を振って監視を続けるよう促した。こちらに視線を向けもしないぞんざいな動作だった。そもそも、ぶ厚いサングラスに覆われた彼の目は視力を失ってはいるのだが。

 わたしはふたたび無人の一室の監視にあたった。
 明け方の凍てつくような風がドアの隙間に殺到してくる。強風は肌が剥き出しになっているところに、針で突くような攻撃をしかけてきた。
 わたしは双眼鏡を持ちかえると、かじかんだ片手をポケットに突っ込んだ。寒さは厳しく、ジョンが渡してくれたダウンコートがなければ五分も我慢できなかったかもしれない。

「なにか話をして」わたしは言った。「じっとしてるだけだと寒さでおかしくなりそう」
「話ね……」

 双眼鏡からそっと視線をはずしてみると、ジョンはポケットから取り出した板ガムを二枚いっぺんに口に放りこんでいるところだった。

「どんな話がいい?」ガムを噛みながらジョンが言う。
「なんでもいいわ」わたしは双眼鏡に目を戻した。
「なら、思考実験といこう。簡単な選択の話だ。
 いいかい、きみは制御不能におちいったトロッコに乗ってレールの上を猛スピードで走っている。レールの先は二股の分岐になっていて、右には複数の男たち、左にはひとりの男がそれぞれ立っている」
「複数って、具体的には?」
「複数は複数さ。とにかくふたり以上、ひとりよりも多い。
 トロッコはそのままの進路をとると右のレールを進み、複数の男たちを轢いてしまう。だが分岐の手前には進路を変更できるポイントがあり、きみの決断次第で左に進むことができる。そちらにも男はいるが、ひとりだけだ。
 さて、そこで問題だ。きみはなにもせず複数の男が死ぬのを見過ごすか、それとも自らの決断でひとりの男を犠牲にするか、どちらを選ぶ?」
「どっちって……単純に被害をすくなくするにはポイントを切り替えて左の道を選ぶわよね」
「ああ。だがその結果、ひとりの男が死ぬ。それもきみが下した決断によってだ」
「これって、有名なトロッコ問題ってやつでしょ」
「そう、知っている人は多い。だが、そうした問題に本当に直面する人は多くはないはずだ」

 わたしはそれ以上まともに相手をしなかった。ジョンもまた、答えを出さないわたしにさしたる興味もしめさなかった。
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