第二章 1

文字数 1,202文字

 サケとはとんでもないアルコールだ。
 まろやかな口あたりと舌を突く刺激、そして鼻から抜ける甘い香りは気持ちをどんどん愉快にさせていく。あてがわれたグラスは小さく、一杯だけでは物足りず次々と注いでしまう。
 飲めば物足りず注ぎ、注げばまたつい飲んでしまう。
 それを繰り返していると、あるとき世界が回りだす。

 わたしが席を立ったのは粗相……リッチーがよく「別の杯に注ぎなおす」と冗談めかして言う行為、つまり嘔吐のこと……をするためではなかった。
 いくら店の雰囲気が気安くくだけていたとしても最低限の礼儀は心得ていたつもりだし、そんなことをしでかせば、なによりわたしをここに連れてきてくれた相手に対して失礼だからだ。なのでわたしは中座の際、よくまわっているとはいえない呂律で、わざわざ相手に顔を洗ってくると断っておいた。

 そうしてかれこれ十分近く、わたしは蛇口から流れる水を頭から浴びて、襲いかかる酩酊感を追い払おうとしていた。
 復活祭も終わってじき四月になろうという頃にも関わらず、寒さはまだまだしぶとく街に居座っていたが、いまのわたしにとっては酔いを冷ませる気温の低さがありがたかった。
 店のペーパータオルを多めに拝借して顔と頭をふくと、湿り気の残った髪をゴムでまとめてトイレをあとにする。

 スシ・バー<ユニヨシ>は、七番街から少し奥に入ったところに看板を出していた。
 ほんのりと暗くした店内の照明は濃いオレンジ色で、長調のピアノ独奏曲がそれに落ち着きを与えていた。その雰囲気があってか、ほかのテーブルにつく顔の見えない客の会話もひそひそ声で交わされている。
 店の奥にかけられたスクリーンでは映画が音声無しで流されている。盲目のベトナム帰還兵が細長い包丁を振り回して悪人と戦うという、店内の雰囲気にあまり似つかわしくない内容だったが、どういうわけか文句を言う者はわたしを含めてひとりもいなかった。

「ずいぶん長かったわね。大丈夫?」キャシーは丸テーブルに頬杖をつきながら、わたしの帰りを待っていた。
「ええ。ちょっと酔いを冷ましてたの。もう平気よ」席につきながら、わたしは通りかかったウェイターにサケのおかわりを頼んだ。
「まだ飲むの?」キャシーが目を剥く。
「ええ。もっと本物を堪能しないとね」わたしは口の端を持ち上げてみせた。

 キャシーが食事に誘ってくれたのは三日前のこと、夕食をすませようとわたしが久しぶりに<ノアズ・パパ>を訪れたときだった。

「ひどく疲れてるみたい」接客してくれたキャシーはわたしの顔を見るなりそう言った。

 実際のところ、疲れているかどうかは自分ではわからなかった。だがここ数日めまぐるしい状況が続いていたのは事実だ。そんなわたしを見かねたキャシーが連れ出してくれたのが、この店だった。

「本物のスシを食べさせてあげる」キャシーはそう言って、一発で男を舞い上がらせるような笑顔をわたしに向けた。
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