第二章 8

文字数 3,928文字

「今日はなにを読んでいるんだ?」
「『ヴォーグ』」わたしは一瞥もくれずに答えた。
「よくもそう、毎日飽きもせずに雑誌を眺めていられるものだな」
「いい加減な格好がなんとかって、あなたが言ったんじゃない」
「中身だって肝心さ。どれだけハイセンスに着飾っても、中身がともなわないのでは意味がない」
「わたしは中身もブスだっていうの?」
「そう言わざるを得ないな。わたしの家に来ては一日中ファッション誌やらコミックスやらを読みふけっているんだから」

 わたしは雑誌を勢いよく閉じた。叩きつけられたページ同士が破裂したような大きな音をさせたが、ジョンは眉ひとつ動かさなかった。それがますますわたしの神経を逆撫でした。
 穏やかな口調で言われると余計に癪にさわる。まるでよき理解者を装いながら生徒をいたぶるのが趣味がある教師のようだ。

「じゃあお言葉ですけど、ミスター・ウェリントン? わたしはいったいなにを読むべきなのかしら?」
「ディケンズにスタインベック、それにヘミングウェイ。素晴らしい読み物は世の中にたくさんあるだろう」
「小説だって、たまには読んでるじゃない。ここでもね」
「異次元からあらわれた醜い怪物と遭遇して、最後は必ず主人公の気がふれるたぐいの小説だろう?」
「あのね、ジョン」相手の挑発を無視して、わたしは辛抱強く言った。「これでも家では事件資料をくまなく読んでるの。それからあなたが渡したあの次の標的リストもね」
「あれをそんなふうに軽々しく呼ぶんじゃない」
「へえ、神様の名前みたいに? わたしに命令しないで。とにかく、そんなものばっかり読んでたらおかしくなりそうなのよ。それこそあなたが馬鹿にする怪奇小説の主人公みたいにね。息抜きくらいさせてよ」
「ならせめて雑誌は持ち帰ってくれ。わたしにはどうせ無用の長物だ」
「あら、だったら今度読み聞かせでもしましょうか? あなたは地域ボランティアのカードにサインさえしてくれればいいわ」
「そう言い方をするな」
「ならわたしに命令しないで」

 それきりわたしたちは黙りこんだ。最悪の気分だった。
 ここに通いだしてからというもの半分は口論、もう半分は無言のまま過ごしている。平和的な会話が成立したことなど、数えるほどしかない。

「紅茶のおかわりは?」言いながらジョンは立ち上がった。
「いただくわ」わたしは答えた。語尾がわずかに震えていた。

 口論がどれだけ激しくなろうとも、ジョンがわたしに怒りをあらわにすることはなかった。
 以前、まともに会話ができた数少ないタイミングで、折にふれてわたしはジョンがいつも冷静でいられることに感心してみせたことがあった。

〝当然さ。殺し屋は快楽殺人者ではないからね〟ジョンはそう答えた。〝逆をいえば、冷静さこそが殺し屋と殺人鬼を分ける要因であり、殺し屋になくてはならない素質でもある。激昂しやすい性格は不要なんだ。同時に、慈悲と寛容さもいらない〟

「きみは殺し屋にむいていないな」キッチンからジョンが言う。「つくづくそう思うよ」
「殺し屋の素質のことね。ええ、わたしも同じこと考えてたわ。だから刑事になったのよ。情熱ひとつで悪に立ち向かうのって素敵じゃない」
「ロマンチストだな。殺し屋にはいない」
「でしょうね。あなた、殺し屋には冷静さが不可欠って言ってたものね。それ以外にはなにか必要なものはないの?」
「あとは依頼と標的、それから報酬があれば、誰だって殺し屋になれるさ」

 わたしは姿の見えない相手に頷いた。

 キッチンの奥にいるジョンはこの動作に気づくだろうか? もしかしたら気づくかもしれない。聴力をはじめとする彼の感覚は驚くほど鋭い。その能力はまるでコウモリだ。

「それで、あなたの仕事にはどれぐらいの大金が積まれてるのかしら。ミスター・ウェリントン?」
「心ばかりの月賦とこの家。それからできもしないピアノの調律師という肩書きと、過去に犯した罪の免除。それだけだが、ただの市民として生活するには、これ以上ない報酬さ」
「なべて世はこともなし」

 わたしの返事に、ジョンは笑いを返した。キッチンから水を流す音がする。ポットに溜まった茶葉を洗っているのか、あるいはカップを洗っているのか。ジョンはお茶を淹れかえるたび、几帳面にもこの行為を繰り返している。

 几帳面さも殺し屋に必要なのだろうか。そう思いながら、わたしはジョンの机を見た。そこには黒く、電話帳ほどの厚みのあるファイルが置いてある。
 点字の標的リスト。書き方は違うが、わたしも同じ内容のものを持っている。

 わたしは立ち上がると、もう一度キッチンを見た。ジョンが書斎に戻ってくる様子はない。

「ねえ、ジョン」わたしはファイルに手をのばしながら言った。
「なんだ?」

 まだジョンの声がキッチンの奥からしたので、わたしはひとまず胸を撫でおろした。

「さっきはごめんなさい。少し言いすぎたわ」
「いや、わたしのほうこそ悪かった。どうにもきみと話していると、つい感情的になってしまう」
「あなたが? 意外ね。まあわたしのほうはもとから感情的だけど」

 わたしが笑ってみせると、ジョンもキッチンから笑い返した。わたしは足音を忍ばせて、キッチンとは反対側にあるドアに向かった。そちらは書斎の隣の部屋へと続いている。

「最近なんて必要以上に感情的だわ。おまけに心のバランスがくずれているとでもいうのかしら。無気力になったかと思えば、急になんだか気分がよくなったり」
「それはなんとも……」
「フロイトめいてる?」
「ちょっと意味合いが違うんじゃないか?」
「そんなことないわよ」
「フロイトね……」
「そう、フロイト」

 話を引き延ばしながら、わたしは音をたてないようにドアノブをひねると、隣の部屋へと入っていった。

 そこは工作室だった。とはいっても、ジョンが趣味で小物や工芸品を作るわけではない。そこは銃の手入れをするための部屋だった。

 工作室の中央にはプレス機のような機械が乗った作業台が据えられていた。
 ハンドローダーだ。ジョンはこれを使ってより命中精度の高い弾丸を自作しているのだろう。
 その隣には薬莢を磨くためのターボタンブラーと使い古しの空薬莢、袋づめされたクルミのチップ、秤などが整然と並んでいる。しかし秤に載せるための火薬や、雷管は置かれていない。もしかしたら、ジョンが別のところで厳重に保管しているのかもしれない。

 わたしの立つドアの右手の壁際には、ぼろきれのつまった木箱や再利用できないほど歪んでしまった薬莢が目一杯入ったバケツが置かれた棚が置いてある。その奥にはもうひとつの作業台が置かれ、そばの壁には工具類が吊るされていた。
 ジョンはここで銃のさらに細かい調整をしているのだろう。この物にあふれながらもこざっぱりとした工作室を、シェードを通して射し込む太陽の光がほんのりと照らしていた。

「リサ?」長く無言でいたせいだろう、ジョンが声をかけてくる。
「ええ、聞いてるわ」

 わたしは声を張り気味に答えた。相手は書斎を挟んで反対側のキッチンにいる……少なくとも、いまのところは。

「それで、心のバランスの問題だけど。やっぱり原因はあなたとの事にあると思う。正直、あなたのことは嫌いじゃないわ、ジョン。それは言っておく」
「そいつはどうも」
「でも、最近わたしの身のまわりで起きた変化には、あなたが深く関わってる。その意味もわかるでしょ?」
「ああ」ジョンは答えた。「だが、だからといってわたしにできることはなにもないんだ。そのことをきみにもわかってほしい」
「ええ、そうね。お互い恨みっこなしにしましょ。なるべくしてなってしまったことなんだから」

 わたしは雑多なものが置かれた棚に早足で近づくと、ぼろきれをわしづかみにした。銃をメンテナンスする際にオイルを拭き取るものだろうか、持ち上げた瞬間に独特のにおいが鼻を突く。
 本当は火薬か、銃本体を洗浄するアルコールでもあればよかったのだが、ぐすぐすはしていられなかった。

「でもね、わたしもつらい立場にいるの。普段から職場で浮いてる存在だったけど、最近はますますそれが強くなって……オフィスにいても同僚は誰も話しかけてこなくなったわ」

 わたしは作業台のそばに立つと、ハンドローダーのそばに置いてあるブリキ缶の蓋を引き寄せた。一辺十インチほどの正方形の蓋の上には空薬莢が数個転がっていたが、わたしは構わずその上にぼろきれを乗せた。機械油で黒ずんだぼろきれは、すぐにわたしの手に酸化したにおいをうつしていた。

「けどやっぱり思うの」わたしは言った。「いくらわたしが後先考えなしに引き受けたからといって、やっぱりこの職務には納得がいかないわ。馬力のある車だと偽って、年寄りロバを売りつけられたようなものよ」

 わたしはファイルを即席の薪の上に置き、作業台の隅に置かれたブックマッチを拾いあげた。この部屋に入ったとき、最初に目をつけたものだ。
 蓋を開けてみると、中には赤い頭を並べて数本のマッチが残っている。上着のポケットには持参したライターをしのばせていたが、わたしはこれからすることにこのマッチを使うことを選んだ。ほとんど直感だった。『ヴォーグ』と一緒に売店で買った新品のライターより、この古ぼけたマッチのほうが確実に火をつけられると思えたのだ。

 背後で気配がする。振り返ると、ジョンがキッチンの出入り口で洗いたてのポットとカップと手に呆然と立ち尽くしていた。

「なにをしているんだ?」
「なにって……」

 わたしは自分自身に頷いてみせた。これから起きることがたとえどんな結果を招こうとも覚悟していた。

「正すのよ、すべてを」わたしはマッチを擦った。「これでフェアになる」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み