第二章 112
文字数 1,826文字
ひとまずメモリーカードをハンカチで丁寧にくるんでポケットにしまうと、わたしはエンブレムの蓋をはめなおした。蓋はごく自然に本体と馴染み、滑らかな表面は細工の跡を少しも感じさせなかった。
ふたたび椅子の上に乗って不恰好にバランスをとりながらエンブレムを壁にかけなおす。床に降りたわたしは、そこでようやく息をついた。メモリーカードを手にしてから、呼吸さえ忘れかけていた。
ドア枠の上のエンブレムは、わたしが見るかぎりでは以前の様子と変わらなかった。それから椅子も元の位置に戻す。
窓の外ではジョンの狙撃を助け、わたしたちの命を救ってくれた太陽が、いまや空の高い位置までのぼっていた。
「リサ」
突然背後から声をかけられ、わたしは思わず飛び上がった。振り返ると、ドアのそばにアルが立っていた。
「なにか見つかったか?」
「いいえ、なにも」わたしは何気なさを装いながら言った。
アルは無言で頷くと、どこか困ったような笑顔を浮かべた。
「まあ、ちょっとぐらい息抜きをしたくなるのも無理はないな。なにせあんなことがあったすぐあとだ」
アルは自分に言い聞かせるようにふたたび頷いた。わたしが署長のオフィスを物色していたとはつゆ知らず、飛び上がった理由にも彼らしい好意的な解釈をしてくれたようだ。それがまったくの誤解であっても、わたしはまたしてもアルの善意に救われた。
「だがここで休むのは感心せんな。署長に見つかりでもしたらどやしつけられるぞ」
「そうね、気をつけるわ」わたしはアルに微笑んでみせると、あえてとってつけたふうを装ってこう続けた。「それで……そう、ここにはなにもなかったわ」
「そうか。じゃあ地下室のほうを頼めるか。リッチーが言うには二階から上に爆弾があるとは考えにくいそうだ。たしかにそこは朝から晩まで署の人間が詰めてるわけだしな」
「言えてるわね」
爆破の影響でエレベーターが故障していないともかぎらないので、わたしとアルは階段で一階のホールに向かった。
「怪我はしてない?」階段を降りながら、わたしはアルに訊ねた。
「ああ、なんとかな。まったくついてるよ。おまえさんはどうだ?」
「額を切ったけど、もうよくなったわ。血も止まったし」
実際、疲労は残っているものの体調はいくらかましになっていた。きっと署長のオフィスでカードを見つけた興奮も手伝っているのだろう。
「さっきは助けてくれてありがとう」わたしはその興奮を隠しながら言った。
「なに、事務屋もたまには現場で役に立たんとな。それに、逆の立場だったらおまえさんもああしただろう」
「まあね。そうかも」
「ところで、このあいだの証拠品のことだが、出し渋ったりして悪かったな」
「いいのよ。わたしがあなたの立場でもそうしてたわ」
「だといいがな」
「皮肉なんかじゃない」
アルは左右の頬をトランペット奏者のように大きくふくらませてにこりと笑うと、右手を掲げた。わたしは彼の手の平を自分の手の平で打った。
人気の無い廊下に、わだかまりの消えた軽快な音が鳴り響く。
「あの証拠品……」わたしは訊ねた。「提出はまだなの?」
「うむ。署長から指示があってな。もうしばらく十九分署預かりになるそうだ。まったく、普段はこんなことまずないのにな。事件の内容が内容だからなのか、まったく居心地が悪いったらないよ。奥歯に肉の切れっ端が挟まってるみたいだ」
アルの口ぶりからすると、どうやら証拠品は署長の独断で本部の手に渡っていないらしい。時間稼ぎにしかならないのだろうが、やはり明るみに出るとまずいなにかがあるのだろうか。
考えられるのは、ミヤギ氏に渡したサム・ワンの弾丸だ。だが、それを提出することがなぜ署長の不利益になるのか。
「どうかしたか?」
アルに呼びかけられ、わたしの意識はふけっていた物思いから浮き上がった。
「いいえ、なにも」
このとき、わたしの胸の内に、アルに証拠品を持ち出したことを正直に白状したい気持ちが強くわきあがった。
命の恩人でもあるこの善良な警察官を、わたしは騙している。彼の真面目な仕事ぶりに泥を塗ってしまったのだ。
「アル、わたし……」
「どうした?」
「ううん。ホールでのこと、本当にありがとう」
「よせよ。それよりまだ仕事は残ってるぞ」
おさえられなかった告白を感謝の言葉でごまかしたことに、わたしの罪悪感はますます募った。だが、いまはそれにじっと堪えた。
アルにはいつか正直に話そう、そう思った。すべてが終わったとき、正直に。
ふたたび椅子の上に乗って不恰好にバランスをとりながらエンブレムを壁にかけなおす。床に降りたわたしは、そこでようやく息をついた。メモリーカードを手にしてから、呼吸さえ忘れかけていた。
ドア枠の上のエンブレムは、わたしが見るかぎりでは以前の様子と変わらなかった。それから椅子も元の位置に戻す。
窓の外ではジョンの狙撃を助け、わたしたちの命を救ってくれた太陽が、いまや空の高い位置までのぼっていた。
「リサ」
突然背後から声をかけられ、わたしは思わず飛び上がった。振り返ると、ドアのそばにアルが立っていた。
「なにか見つかったか?」
「いいえ、なにも」わたしは何気なさを装いながら言った。
アルは無言で頷くと、どこか困ったような笑顔を浮かべた。
「まあ、ちょっとぐらい息抜きをしたくなるのも無理はないな。なにせあんなことがあったすぐあとだ」
アルは自分に言い聞かせるようにふたたび頷いた。わたしが署長のオフィスを物色していたとはつゆ知らず、飛び上がった理由にも彼らしい好意的な解釈をしてくれたようだ。それがまったくの誤解であっても、わたしはまたしてもアルの善意に救われた。
「だがここで休むのは感心せんな。署長に見つかりでもしたらどやしつけられるぞ」
「そうね、気をつけるわ」わたしはアルに微笑んでみせると、あえてとってつけたふうを装ってこう続けた。「それで……そう、ここにはなにもなかったわ」
「そうか。じゃあ地下室のほうを頼めるか。リッチーが言うには二階から上に爆弾があるとは考えにくいそうだ。たしかにそこは朝から晩まで署の人間が詰めてるわけだしな」
「言えてるわね」
爆破の影響でエレベーターが故障していないともかぎらないので、わたしとアルは階段で一階のホールに向かった。
「怪我はしてない?」階段を降りながら、わたしはアルに訊ねた。
「ああ、なんとかな。まったくついてるよ。おまえさんはどうだ?」
「額を切ったけど、もうよくなったわ。血も止まったし」
実際、疲労は残っているものの体調はいくらかましになっていた。きっと署長のオフィスでカードを見つけた興奮も手伝っているのだろう。
「さっきは助けてくれてありがとう」わたしはその興奮を隠しながら言った。
「なに、事務屋もたまには現場で役に立たんとな。それに、逆の立場だったらおまえさんもああしただろう」
「まあね。そうかも」
「ところで、このあいだの証拠品のことだが、出し渋ったりして悪かったな」
「いいのよ。わたしがあなたの立場でもそうしてたわ」
「だといいがな」
「皮肉なんかじゃない」
アルは左右の頬をトランペット奏者のように大きくふくらませてにこりと笑うと、右手を掲げた。わたしは彼の手の平を自分の手の平で打った。
人気の無い廊下に、わだかまりの消えた軽快な音が鳴り響く。
「あの証拠品……」わたしは訊ねた。「提出はまだなの?」
「うむ。署長から指示があってな。もうしばらく十九分署預かりになるそうだ。まったく、普段はこんなことまずないのにな。事件の内容が内容だからなのか、まったく居心地が悪いったらないよ。奥歯に肉の切れっ端が挟まってるみたいだ」
アルの口ぶりからすると、どうやら証拠品は署長の独断で本部の手に渡っていないらしい。時間稼ぎにしかならないのだろうが、やはり明るみに出るとまずいなにかがあるのだろうか。
考えられるのは、ミヤギ氏に渡したサム・ワンの弾丸だ。だが、それを提出することがなぜ署長の不利益になるのか。
「どうかしたか?」
アルに呼びかけられ、わたしの意識はふけっていた物思いから浮き上がった。
「いいえ、なにも」
このとき、わたしの胸の内に、アルに証拠品を持ち出したことを正直に白状したい気持ちが強くわきあがった。
命の恩人でもあるこの善良な警察官を、わたしは騙している。彼の真面目な仕事ぶりに泥を塗ってしまったのだ。
「アル、わたし……」
「どうした?」
「ううん。ホールでのこと、本当にありがとう」
「よせよ。それよりまだ仕事は残ってるぞ」
おさえられなかった告白を感謝の言葉でごまかしたことに、わたしの罪悪感はますます募った。だが、いまはそれにじっと堪えた。
アルにはいつか正直に話そう、そう思った。すべてが終わったとき、正直に。