第二章 57

文字数 2,495文字

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「それから言われたとおり、わたしは船倉の隅で小さくちぢこまっていたよ。窓はなかったし、食事は思い出されたようなタイミングで不定期に運ばれてくるだけだったから、時間の感覚はすぐになくなってしまった。何日間そうしていたかはわからないが、ずいぶん長いことそこにいたんだろうな」
「ひどい。子供にそんなことするなんて」

 気がつけば、わたしは手にしていた壜を爪が白くなるほど握りしめていた。

「ああ。だが、ピーノはやつ自身の道理で行動していたんだ。自分で買ったものだが、思いのほか金がかかったのでむかついた。だから捨てようとした。そんなところだろう。誰だって思い当たる節はあるんじゃないか?」
「ええ、まあね。でもそれは退屈な雑誌やちっとも効果の出ないダイエット食品に対してすることよ。人間の……それも子供にするなんて考えもしないわ」
「それを考えついて行動を起こすのがピーノだった。善悪を説こうとしたって、本当の悪人には通じないものさ。子供だったわたしはやつが去り際に吐いた台詞がいつまでも頭から離れなかった。『またゲームをしよう』そのひとことを思い出しただけで、わたしは身体の震えが止まらなかった。子供だったわたしにとって、ピーノは恐怖の象徴だった。いや、もっと言ってしまえばやつは死の象徴だった」
「でもあなたは克服した。そしていまもこうして生きている。どうやったのかは知らないけど」
「それについてはおいおい話そう。だが、わたしはいまだに死への恐怖を克服したわけじゃないよ。それどころか、死をもっとも恐れてさえいる」
「殺し屋がそんなこと言うわけ?」
「わたしが取り扱う商品は殺しだからね。死については門外漢さ。殺し屋が死んでは商売あがったりだ」
「やめてよ」
「いまはきみとの取り決めで、殺しを控えてはいるがね」
「ジョン。やめて」

 わたしがきっぱりとそう繰り返すと、ジョンは口を閉ざした。
 もっとも、その表情はまだ議論をふっかける機会を狙っているようだった。きっと彼も気がたっているのだろう。誰だって、自分のことを真剣に語れば気分が昂ぶるものだ。

「ところで、警察はなにを売ってくれる?」

 早速皮肉ってきたジョンを、わたしは睨みつけた。彼がわたしの視線に気づかないはずはなかったが、こういうときにかぎって盲目であることを強調してくる。

「警察はなにも売らないわ」
「売っているさ。平和と安全、それから治安維持のサービスをね。実績は親会社である政府が評価して、その売り上げとして予算を調整する。だが大元のスポンサーは市民たちだ」
「あなただって、その税金で生計をたててるじゃない。出処はわたしたちと同じでしょ」
「そのとおり。だから殺し屋も警察も、結局は同じサービス業だと言ってもはばかられることはない」
「そんなことないわ。あなたがしていることは犯罪だもの。人の命でお金を稼ぐなんて」
「警察から許可を得た仕事だ。それを刑事であるきみが否定するのか?」
「それは……」
「わたしもピーノの組織にいた頃は、よく警察とやりあったものだ。捜査の手をかわし、かきまわし、必要に応じて賄賂を渡したりもした。わたしは多くの人間を手にかけてきたが、警察官にだけは手を出すのを躊躇した。なぜだと思う? 厄介だからさ。彼らは警官殺しとなると、途端に目の色を変えて犯人を追ってくるんだ。まるで同族を殺された原住民のように、もっといえば身体の肉をえぐられた巨大な生物のように怒り狂う。きみにも心当たりはあるんじゃないか?」

 わからない、とは言いきれなかった。それどころかつい先月、わたしはジョンの言う感覚と同じものを味わったばかりだ。
 エリック・マートンの死。たとえ彼と親しい間柄ではなかったとしても、わたしの心はいまでも犯人逮捕に燃えている。
 正直なところ、一般市民が殺害されたときのそれとは一線を画すとは言えなくもない。警官殺しとは、警察組織に属するわたしの誇りが傷つけられるのと同義なのだ。

 わたしの無言を肯定と受け取ってか、ジョンは頷いた。

「そう、警官殺しはリスクが高い。それどころか恐ろしくさえある。彼らは仲間を殺された恨みを正義という糖衣でくるんでぶつけてくるんだ。だが、我々がおとなしくさえしていれば……つまり彼らの前では尻尾を振り、仰向けになって腹を見せてさえいれば、警察も手を出してこない。むしろ有益ですらある」
「有益ですって。警察が犯罪者に対して?」

 ジョンは頷いた。もはやそこに警察の子飼いである殺し屋の姿はなかった。
 いま目の前にいるのは、ピーノ一味というこの街最大の犯罪組織のひとつに身を置くスーツを着た兵隊そのものだった。
 昔日の出来事を語ったことが彼をそうさせたのか、その熱にあてられたわたしは、ジョン・リップを職務上のパートナーである殺し屋ではなく、いっぱしのマフィアであるかのように錯覚してしまった。

「自然界ではよくある互恵関係というものさ。軽犯罪を見逃す代わりに賄賂を受け取る警官。身内の刑期を短くするため、担当刑事と寝る加害者の妻。マフィアと結託して莫大な金を得る汚職まみれのお偉方。それぞれの利害が一致さえすれば、たとえ敵同士でもお互いのシステムに組み込むことはできるんだ。わたしたちこそ、その好例じゃないか」

 わたしはジョンの話を聞きながら、自然界には蟻に育てられる蝶の幼虫がいることを思い出していた。
 それを知ったのは、たしかBBC制作のドキュメンタリー番組だったと思う。幼虫は特殊なフェロモンを放出することで蟻たちに安全な巣まで運ばれ、外敵から身を守ってもらえる。
 蟻はその報酬として幼虫から分泌される栄養価の高い蜜にありつける。本来なら餌となるはずの蝶の幼虫が、捕食者である蟻を利用するのだ。

 ジョンの言う警察と犯罪者の互恵関係。はたして、そのどちらが蝶であり、蟻なのか。

「すこし横道にそれたわね。話題を戻しましょう」
「いいだろう」

 わたしは大きく息を吸い、気持ちを落ち着けた。話題を戻すと言っても、ジョンの過去に戻るつもりはなかった。いま念頭にあるのは、わたしたちふたりのことだった。
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