第一章 25

文字数 2,444文字

 翌朝、わたしは身支度をすると四時半より少し前に自宅を出た。
 手錠とバッジ、それから二丁の拳銃を身につけたのは習慣からだったが、同時にこれらを普段以上に心の拠り所にしてもいた。わたしはこのとき、事件現場に赴くときと同じような不安を感じていた。

 ニューオーウェルの身を切るような朝の寒さがわたしに襲いかかる。ここしばらく暖かい日が続いていたので、この気温差には気が滅入ってしまう。
 わたしは肩と首を縮こめると、立てたジャケットの襟に顔をうずめるようにして夜明け前の街を足早に歩いた。

 ジョンの家のエントランスでは、相変わらずステンドグラスの笠をかぶったランプが柔らかい光でわたしを出迎えてくれた。
 屋内も外と変わらず冷えきっていたが、少なくとも吹きすさぶ風から身を守ることができたわたしは人心地つくことができた。

 三階に続く階段に向かおうとしたわたしの目の前で、漆喰の壁にしつらえられた木製のドアが前触れもなく開く。

「リサか?」ドアから顔を覗かせたのはジョンだった。彼はわたしのほうを向いて鋭く言った。
「そう、わたしよジョン」

 わたしの声にジョンは緊張をとくと、身を隠していたドアから出てきた。その手にはあの<貴婦人>が握られ、反対の手には強化プラスティック製の長いケースを提げている。

「すまない、少し神経質になっていてね。だが念のため言っておこう、ここはわたしの家だ。来る前には電話か、せめてノックくらいはしてくれ。いまに誤ってきみのことを撃ってしまうかもしれん」
「そうね。でもここはエントランスじゃないの?」そう訊ねはしたものの、目は<貴婦人>から離せなかった。
「たしかにエントランスだが、共用じゃない。ここに住んでいるのはわたしひとりだし、建物全体がわたしの所有物でもあるんだ」
「来客は少ない?」
「ああ、せいぜいきみとマクブレインくらいだ。やつをきみと間違えて撃ち殺すかも。そうなったら喜ぶかい?」
「かもね」

 曖昧な返事をしつつ、わたしは笑みをこぼした。見ればジョンも懐に拳銃をしまいながら微笑している。
 悪趣味な冗談ではあったが、場の空気を和らげるにはちょうどよかった。

「やはり来たんだな」ジョンは言った。口元からは笑みが消え、代わりに落胆が浮かんでいた。
「ええ」わたしは答えた。「これがわたしの職務だもの」
「だがきみは、これからわたしたちがする仕事の内容を知らない。もう一度言うが、わたしはなにもきみに意地悪をしたくて教えないんじゃない」
「わかってる。内容を訊けば、もう引き返すことができないからでしょ?」
「そうだ。そしてこれが最後のチャンスになるだろう。進むか引き返すか、ここで決めてくれ」

 わたしは俯いて、もう一度自分の気持ちを確認した。

「やっぱり引き返さない。辞退したところで、どうせわたしに待ってる仕事なんて電話番くらいだもの。ううん、それならまだいいほうだわ。もしかしたら警察を辞めることになるかもしれない。けどわたしは警察官でいたいの」
「それが、どんな薄汚れたかたちであっても?」
「ええ。このバッジは誰にも渡したくない」

 ジョンはサングラスをはずすと、白く透きとおった瞳でわたしをじっと見つめた。
 光を失っているはずの目だというのに、わたしは彼の視線に見透かされているような気持ちになった。それどころか、彼の視線に貫かれているとさえ感じていた。
 だが、その目にいつまでも圧倒されてはいられない。たとえマクブレイン署長にジョンを自分と同等に扱うよう言われていようと、わたしは彼と対等な立場にいるべきだし、またそうしなくてはならない。
 相手が盲目であることは関係なしに、わたしはジョンの視線を正面から見つめ返した。

「ところできみはいまどんな格好をしている? 革のジャケットか? ずいぶん薄着じゃないか……それから下はジーンズにスニーカーか。路地裏であった夜と、最初にここに来たときはスラックスだったから、あのときのちぐはぐな格好よりかはましとは言えるが」
「ええ、正解よ」わたしはジョンの言葉に驚かされながら答えた。まさか、衣擦れの音からわたしの服装を推測したとでもいうのか。「でも、わたしの身なりをチェックするためにわざわざ呼び出したんだとしたら、ずいぶん意地悪な話ね」

 多少なりともポリシーを持っていた服装をこきおろされたわたしは少しむっとした。だがそんなわたしを意に介することもなく、ジョンは苦笑を浮かべただけだった。

「なによ?」
「いや、きみだけじゃない。流行だかなんだか知らないが、この街の多くの人は誰もがいい加減な格好をするものだからね。だがこの討論はあとだ。いま重要なのは、その服ではこれから行く場所にふさわしくない」
「だったらどうするの? ドレスでも調達する?」

 ジョンは首を横に振ると、わたしの目の前になにかを突き出した。
 思わず受け取ったそれは丈の長い灰色のダウンコートだった。フードつきで、ふちには白っぽい毛皮が縫いつけられている。

「着ておくといい。男物だが、動きにくくもならないだろう」
「それじゃあ……」
「ああ、わたしの負けだよ。こんなに強情だとはね」
「ジョン。わたしなんて言ったらいいか――」
「間違ってもお礼なんて言わないでくれ。恨み言もね。これからわたしたちがすることは、後悔しないとかたく誓った人でさえ、自分の決断を嘆きたくなるようなものなんだ」

 ジョンの言葉に、わたしは浮かべかけていた笑みを引っ込めた。彼の説得にはいい加減うんざりしていたものの、悲壮感さえ漂う横顔を見て言葉を失ってしまったのだ。だがわたしは決然とした意志で、受け取ったダウンコートに袖を通していた。

 投げ出しはしない。刑事として、わたしはこの職務をやり遂げてみせる。

「行こう。カウンターの上にバックパックが置いてある。それを持ってきてくれ」

 言いながらジョンは、エントランスの出口に向かって歩き出した。わたしはランプの横に置かれたバックパックを肩にかけると、彼を追いかけた。
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