第二章 20

文字数 1,969文字

 保管室のカウンターの向こうに立っていたのはアル・パウエルだった。
 正直、このときほどあのにきび面の若い警官を恋しく思ったことはないし、ブラウスのボタンをいつもよりひとつ余計に開けたことを後悔したこともない。

 こうしてみると、警察署というのはどこもふたつに分かれている。
 ホールでは市民と公務員、留置所では逮捕する側とされる側、そしてここでは望む者と与える者。だがいくら必要であっても、与える者が規則に厳しければ、望む者に残された手段はかぎられてくる。
〝求めよ、さらば与えられん〟などという理屈は、アル・パウエルが当直に立つ保管室では通用しない。

 アル・パウエルは四十代後半の妻帯者だった。
 丸太で作った二本足を雪だるまに差したような体型で、丸い太鼓腹は厚手のジャケットを着ていてもでっぷりとしているのがわかるほど突き出している。
 顔の輪郭も丸いが、ふくらんだ顎にたるみは無く、厚ぼったい唇のまわりには、どこか茶目っ気を感じさせる口ひげがたくわえられている。ぎょろりと剥いた目にも愛嬌があり、それらの外見に反することなく、彼は柔和な性格をしていた。

 だが、このときのわたしはアルを難敵とみなしていた。彼はけして厳格な性格ではない。むしろ気さくで、他人に対して寛容さを持ち、情に篤く友好的でさえある。それでいてときどき抜けているところに愛嬌があったりと、誰からも慕われる魅力を持っており、事実わたしは、彼を嫌っている人間に会ったことがなかった。
 もちろん、わたしもアルのことが好きだったし、あの鑑識官の班長と同じような善意に裏打ちされた人柄を尊敬もしていた。

 だが、アルは少々真面目過ぎるきらいがあった。
 出世とは無縁だったが、その仕事ぶりは勤勉の一語に尽きる。
 警察官としての能力が特段秀でているわけではないが、わたしは彼が遅刻や無断欠勤をするのはおろか、制服のズボンからシャツの裾をはみ出させているところさえ見たことがない(しかも、お化けカボチャのように大きな腹をしているのにもかかわらず、サイズぎりぎりのシャツで見事にそれを包み込んでいる。これは驚くべきことだ)。
 その結果、アルは年に一度、十九分署主催で行われる式典において、皆勤賞と模範的警察官推薦賞受賞の栄誉に十年連続で輝いている。

 このアル・パウエルに……近所に住む老人のごみ出しを手伝い、週末のボランティアにはほぼ毎回参加し、二十年近く連れ添った妻には毎年結婚記念日にバラの花束を贈る、善き夫であり善き隣人であり、そしてなにより善き警察官であるアル・パウエルに、わたしはこれから不正を働こうとしているのだ。

〝どうしたリサ? なに、証拠品を持ち出したいだって? いいとも。どれでも持っていくといい。事件の担当刑事じゃない? 構わんよ。そんなものあとからどうとでも言い繕える〟

 わたしはアル・パウエルにこう言わせようというのだ。彼は嘘でもそう言ってくれるだろうか。
 まさか! 彼は嘘でもそんなこと言わない。

「やあ、リサ。調子はどうだ?」

 判断に迷いながらカウンターまできたわたしに、アルはその人懐っこい笑顔を惜しげもなく向けた。

「ええ、まあまあね。そっちはどう?」

 言いながらわたしはカウンターに両腕を乗せ、反対側を覗きこんだ。書類束や筆記用具が使いやすいようにきちんと並べられているなかで、弁当がらのそばに数個分のトゥインキーの包み紙がちらばっている。わたしがそれを見つけると、アルは手近にあったクリップボードでそれらをそっと覆い隠してしまった。

「マーサから甘い物は控えるように言われてるんだが、こればっかりはなかなかやめられん」
「わかるわ。わたしも食べるのは好きよ」
「そう言ってくれると嬉しいがね、おれとあんたじゃまるで立場がちがう。おれは妻帯者でかみさんの腹ん中にははじめての子供もいる。あんたは独身でおまけにスリム。おれはごらんのとおり太っちょさ。高血圧なり心臓発作なりで倒れでもしたら目もあてられない。だがやめられないのさ」

 アルはそう言ってばつのわるそうな笑みを浮かべた。まるでいたずらを見咎められた子供が親に許しを請うような表情だ。

「だったら少しは我慢したら? 奥さんもお菓子を食べること自体を禁止してるわけじゃないんでしょ?」
「それは、まあ……」

 わたしが片方の眉を持ち上げて促すと、アルはまるっこい肩をすくめて首をかしげてみせた。それから抽斗を開けて、中からトゥインキーをひとつつまみあげる。

「おひとつどうぞ。食べるのが好きなら、きっとこいつの魅力もわかってくれるはずだ」

 わたしは黙ってそれを受け取った。アルはそれを自分が愛するお菓子への理解ととって、胸を撫でおろしているようだ。だが本当に後ろ暗い取引を持ちかけるのはこれから、それもわたしのほうからだった。
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