第二章 48

文字数 1,366文字

「おまちどうさま」

 言いながらわたしはカウンターに壜を置いた。ガラス同士がぶつかり涼やかな音をたてるなか、壜に詰められた茶色い液体がゆらゆらと揺れた。

「ありがとう」
 礼を言うジョンに栓を抜いた壜を手渡しながら、「それにしても意外ね。ビールと同じでこれも嫌いだとばかり思ってたわ」
「正直、はじめは砂糖水のできそこないだと洟もひっかけなかったよ」言いながらジョンは壜の中身のコーラを大きくあおった。「だがこれがなかなかね。特にここでライフルをいじくりまわしながら飲むと格別だ」

 ジョンと同じようにコーラを飲みながら、わたしは曖昧に頷いた。ライフル、と聞いてハニーボールのことが脳裏をよぎったからだ。
 わたしはなにも言わず、言葉を押し戻すようにコーラを飲み続けた。どれだけお互いを理解しあっても、やはりこの点は相容れないようだ。

 だが、いまはそれでよかった。わたしは刑事で、ジョンは殺し屋なのだ。このいびつなコンビの距離感は、当面はこのままでいい。

「わたしが生まれたのは――」ジョンはふたたび切り出した。指先は壜の滑らかな表面を慈しむように撫でていた。「このコーラの一本もお目にかかれないようなヨーロッパの片田舎だった。いや、お目にかかれなかったわけではなかったのかも。

 とにかくわたしが故郷にいたのは、ほんの二、三歳のときまでだった。つまり、あまり記憶がないんだ。
 子供時代の記憶というのは、いわば大海原に浮かぶ太古の小島みたいなものだ。長年風雨にさらされて浸食された島は、いびつな輪郭をするものさ。
 きみの思い出の中の顔の無い警察官……たしかベンといったな……それと同じように、わたしにとって顔の無い記憶の住人は両親だった。彼らに優しくされていた思い出は持っていても、思い返すと決まってふたりの顔は穴が空いたようにぽっかりとした黒い空白になっているんだ。

 画家の夢にしたってそうだ。
 本当に画家を目指していたかどうかなんてわからない。ただ絵を描くのが好きで、よくクレヨンと画用紙を手に家の庭先に座りこんでいた記憶があるだけだ。
 絵を描いていた思い出は、記憶の島の中心部にあると言えるかな。多くの人が無人島と聞いて想像したとき、おあつらえむきに椰子の木が生い茂っているような場所さ。そこだけは時間とともに記憶が風化するのを免れているんだ。
 とにかく、幼いわたしは絵を描くのが好きだった。だが本当に画家を志していたかどうかは、自分で言うのもなんだが疑わしい。なにせやっとつかまり立ちから卒業できたような子供だったからね。純粋に楽しくて、画用紙に描きなぐっていただけなんだろう。

 画家の夢というのは、ずっと絵を描いていたいという気持ちがふくらんだ結果にすぎない。こちらは無人島に人工の埠頭をこしらえるようなもので、実際は思い込みから作り出された嘘の記憶かもしれない。

 ところで、絵を描く、という記憶の椰子の木の隣には、別の木がもう一本生えている。こちらの木が持つ記憶はまぎれもない事実だし、わたしのその後の人生を大きく左右する出来事にまつわるものだ」

 ジョンはそう言って一本目のコーラを飲み干した。

「その日がいつだったのかはわからない。だから幼い頃、と言っておこう……
 幼い頃、わたしはマフィアにさらわれ、優しかった両親はやつらに殺された」
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