イツイツ、デヤル

文字数 3,604文字

 拡散して曖昧になる意識の底で、なつかしいわらべ歌を聞いた。
 かぁごめ、かごめ。暗く、語尾を引きずるような、女の子の歌声。そのうつろな韻律にさそわれて重いまぶたをあげると、荷物棚のおくで〝それ〟と目があった。当時まだ新米教師だった羽鳥耕平(はとり こうへい)は、思わず悲鳴をあげた。
「め、目玉が……でかい目玉が、こっち見てる!」
 雑に押しこまれた、鞄と鞄の隙間。
 本来あるはずのない仄暗い空間で、羽鳥を品定めするように、こぶし大の眼球はぐるりと裏返った。直後に全身の肌がピリピリと帯電し、混乱しきった頭には、形にならない奇妙なイメージがつぎつぎと流れこんできた。
 一面の群青にまだらな赤をちらし、放射状にピンクをさしたもの。
 あるいは、パッチワークように継ぎ接いだ楕円をかさね、そこに黄土色や深緑の手形をみっしりと詰めたもの。
 断末魔の怨念を抽象画にでもしたような、得体のしれない膨大な数の映像。脳が勝手に認識してしまうそれらは、まばたきほどの間隔でめまぐるしく切り替わり、わけもなく羽鳥の両目から涙をあふれさせた。
 なぜ荷物棚をのぞいたのか、それはもう覚えていない。
 ただ、この絶叫が引き金となり、バスのなかがパニックになったのは間違いない。ある男子生徒は首をすくめ、挙動不審に周囲を見まわし、ある女子生徒は泣きわめき、車内に幽霊がいると狂ったようにうったえた。
「どこだよ、意味わかんねぇよ!」
「だから言ったのに、旅館から変なのがついてきてるって!」
 くちぐちに叫び、見えないなにかにおびえる子供たちの姿を、羽鳥は不思議な浮遊感につつまれたまま、ぼんやりと見おろしていた。
 着任まもなくの初夏。やけに陽ざしが強くなりはじめた、五月も末の話である。
 バスは大型の貸し切りバスで、ちょうど高速のトンネルにさしかかるところだった。羽鳥のつとめる中学は、二年次のこのタイミングでの校外授業が毎年の通例で、その二日目の移動中に起こった出来事だった。
「いいから、みんな落ちつきなさい!」
 ヒステリックに叫んでいた先輩教師の声も、しだいに嗚咽まじりの呻きに変わっていったのをよく覚えている。あとは規則的にフラッシュする、白と黒の点滅……これは、トンネル灯に照らされた車内の光景だ。まるで安っぽいヒーローショーの演出のように、記憶の深いところに焼きついている。
 そして、その合間をぬってうごめく無数の影。
 そう、あれは〝人影〟ではなく、〝人の形をした影〟だった。
 這いずる軟体生物のような膨張と収縮をくり返し、ヒィヒィと過呼吸でのたうつ生徒らの間を徘徊してまわった影法師たち。
 事件から十年以上たった今でも、羽鳥はたびたびこの時のことを夢に見る。影の出現と同時にただよってきた、なにかが焼けこげたにおい。パチン、パチン、パチン、と枯れ枝がはぜるような、小さな破裂音。だがしかし、
「――それが、なんだってんだッ」
 発作的に張りあげた自分の声で、驚いて跳ね起きる。
 これは夢のつづきか? それとも現実か? さめきらない頭で闇に目を凝らすと、そこは真夜中の教室だった。月明かりで斜めに切り取られ、半分だけ浮かびあがった黒板。墓標のように整然とならぶ、無機質な机の群れ。その最後列のひとつに、羽鳥はつっぷしていた。なぜかはわからないが、寝入る前後の記憶はすっぽりと抜け落ちている。すると暗がりのどこかから、そっと誰かが尋ねてきた。
「まだ、思い出せないの?」
「……思い出すって、なにを」
 うっかり答えてしまってから、ギクリとして身をすくめた。慌てて辺りを見まわしてみても、もちろん人影などありはしない。はずみで床をずったイスの足が、ふたたび静寂を取りもどした空間にギギッと不快な音をひびかせる。
 ワイシャツの背中が、冷や汗でグッショリと濡れていた。羽鳥はゆっくり息をのみ、横目でおそるおそる教壇をうかがう。
 黒板の上の丸時計がしめす時刻は、午前三時四十二分。
 ――朝でもあり、夜でもある狭間の刻。
 そもそも、こんな時間まで生徒が残っているはずがない。……では、さっきの女の子の声は一体? 必死に恐怖をこらえながら、そう考えた瞬間だった。今度は辺りかまわずそこら中から、笑い声の入りまじったざわめきが頭のなかにふってくる。
「あー、ダメだなぁ」
「教えてくれたのは、先生でしょ?」
「ほら、あの時バスのなかで……」
「学校の……ナナフシギ……」
 とぎれとぎれに聞き取れる、ノイズだらけの生徒たちの囁き。
 ヒッ、と羽鳥のくちから声が漏れた。
「待ってくれ、だからお前たちはなにを……」
 わけもわからず弁明し、視線を宙に走らせる。けれど、そんな羽鳥の姿をあざ笑うように、不気味な声は催促をくり返す。
「ねぇ、早く思い出してよ」
「じゃないと、僕らはこの教室から――」
 ついに恐怖に堪えきれなくなり、羽鳥は机を押しのけて駈け出した。震える足はもつれて空をきり、転げそうになりながら教卓にすがりつく。なんだ、これは? 俺が一体、なにをしたってんだ? 泣きそうになりながら教室をふり返ると、今まで無人だった机の列に、生徒たちの形をした影が座っていた。
「……時間だよ、先生?」
 不安定に伸縮する影たちの呼びかけに、羽鳥はひきつけを起こして白目を剥く。
 と、形にならないイメージが早送りで脳内によみがえり、記憶に立ちこめた霧が、そこでようやく晴れていった。
 ――ああ、そうか。そうだったのか。
 あの日、羽鳥はバスのなかで、子供たちにある怪談話を披露した。それはこの中学につたわる七不思議のひとつで、校外授業中の事故で死んだ教師と生徒が、夜な夜なかごめかごめに興じている……という、怪談としてはありきたりのものだった。
「ただし、この話を聞いてしまった人は――」
 思いきり溜めを作ってから大声でおどかす、オチまでお約束の作り話。だが、生徒たちにせがまれて即興で仕上げたこの話は、前日の宿舎で起こった、ちょっとした幽霊騒ぎをもとにしていた。ちょうどさしかかった、古い高速のトンネルというシチュエーションも手伝って、車内は異様な盛りあがりをみせた。
「じゃあ、じゃあ、ゆうべの歌声って」
「そう、もしかすると……」
 芝居がかった羽鳥の声に、生徒たちはキャアッと楽しげな悲鳴で答えた。
 大学を出たばかりの新任教師が、少しでも早く職場になじむための通過儀礼。そんな風にとらえたのか、クラスの担任であり、羽鳥の先輩にあたる中年の女教師も、やれやれと微苦笑を浮かべて、このやりとりを見守ってくれていた。
 授業の一環とはいえ、バス旅行という非日常な空間を彩るレクリエーション。
 このまま無事に校外授業が終了すれば、そんな楽しい思い出が、羽鳥にも生徒たちにも残るはずだった。が、つぎの瞬間、
「うおっ、危ねぇッ!」
 唐突なバスの運転手の叫び声で、出まかせの嘘は痛ましい真実となる。最初におそってきたのは、いきなり横に放り出される感覚とタイヤが軋む甲高い音だった。はげしい衝撃のあとに、ガラスや金属の砕け散る音がつづく。
 怪談話の時とは打って変わり、車内にはおぞましい悲鳴がひびいた。
 トンネル灯のうす明りの下、前方で白と赤の軽ワゴンがスリップした。それを避けようとしたバスも横すべりし、コンクリートの壁に後部から突き刺さったのだ。投げ出されて暗転する不確かな視界のなか、羽鳥は血塗れでもがく生徒たちの姿を見た。
「痛い、先生……」
「手が、あたしの手が……助けて」
 やがて聞こえてくる、パチパチという引火の音。
 轟音とともに燃えさかる炎のなか、焼かれ、ちぢれ、生徒たちは真っ黒な消し炭になってゆく。その魂は〝人の形をした影〟となり、教室という名の鳥かごにとらわれ、今夜も解放の時を待っていた。そして、羽鳥もまた。
「……イツイツ、デヤル」
 耳もとで囁かれた声をきっかけに、フラフラと立ちあがる。
 教室の真ん中まで歩いて気がつくと、羽鳥の姿も影になっていた。そのまわりを輪になった影の生徒たちが、手を取りあって囲んでいる。
 かぁごめ、かごめ。暗く、語尾を引きずる少女の歌声。
 そのなつかしいわらべ歌を聞くうち、じょじょに羽鳥の意識はうすれていった。ほかの影たちとまじりあい、暗い魂の海に溶けてゆく。自己の認識が拡散して、すべての思考が希薄になっていった。そして時をこえ、空間をこえ、いつかのバスのなかへ。……自分は一体、誰なんだろう? そんな疑問とともに、荷物棚のおくでゆっくり目を開けると、そこにはあの日の羽鳥の後頭部があった。かつて羽鳥だった影は、そのうしろ姿に呼びかける。もう一度、ひとつになってくり返すために。
 ――うしろの正面、だぁれ?

〈了〉
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