文字数 636文字

 暗がりで、牛が泣いていた。
 茶色くて毛足の長い、年老いた母牛のようだった。
 母牛は泣きながら、「私の息子は、おまえに殺されたのだ」と言う。
「あんなに可愛かったのに、おまえたちに殺された」
 と泣くから、
「殺したのは俺じゃないよ、屠殺場の人たちだよ」と言ってやると、
「おまえが食うために殺されたのに、人のせいにするのか」
 と言って、母牛は真っ黒く空いた両目の穴からドロドロと臭い涙をながす。だから、
「殺したのじゃなくて食ったのなら、俺は悪くないじゃないか。牛だって、草を食って生きているだろう」と言ってやると、
「そうだ、食われたのなら仕方がない」
 と母牛は言う。
「悲しいけれど、悔しいけれど、それは仕方がない」と言って泣く。
「けれどおまえは、不味いと言って私の息子を食わなかった」
 食われなかった息子は、掃き溜めに打ち捨てられてゴミとして処分された。
「だからおまえは、息子を食ったのじゃなくて殺したのだ」と言って、母牛はドロドロと泣いた。俺は腹が立ったので、
「それは不味くした料理人のせいだろう」
 と言うと、
「おまえはなんでも人のせいにするのだな」と言って、母牛はドロドロの目で俺を笑った。「おまえはひどく傲慢で残酷な人間なのだな」と冷めた声で笑った。
「たかが牛の分際で、おまえはなんて生意気なやつだ」気分を害して立ち去る俺のうしろで、オイオイと泣く母牛の声がする。
 一体いつまで、母牛は暗がりで泣きつづければいいのだろう。

〈了〉
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