アンダーパスの幽霊
文字数 3,103文字
麻雀の罰ゲームに肝試しをしようといい出したのは、誰だったろうか?
あるいは人一倍ビビりで見栄っぱりの俺をイジろうと、みんなで示し合わせて企んだ悪ふざけなのかもしれない。
なんにせよ、俺たちは車を走らせて、深夜のアンダーパスまでやってきた。私鉄の線路を何本かまとめてくぐる、郊外と市街地を結ぶうすら長いアンダーパスだ。
「んじゃ、街のほうに抜けたらLINEよろー」
路肩に止めた車から、にやけた悪友たちがヤジを飛ばす。
「うっせ、わかってんよ!」
俺は精一杯の虚勢をはると、舌打ちしてアンダーパスに向き直った。
零時を回った片田舎の市道は、めったに車も通らない。静まり返った闇の中に、アンダーパスはぽっかりとオレンジ色の口を開けている。
「ったく、ガキじゃあるまいし」
捨てゼリフをしたところではじまらない。
俺は覚悟を決めて、そのトンネル灯に照らされた入口へと歩道を下ってゆく。
ペタリ、ペタリ、ペタリ……。
ひんやりとした地下道の中に、俺のサンダルの足音だけが反響する。
もし今背後から声をかけられたら、俺の心臓は即座に機能を停止するだろう。
このアンダーパスには、ある噂話があった。
それはまだ車道と歩道の分離工事がろくにされていなかった二年前、ここでひき逃げされて死んだ女の幽霊が出るという、怪談じみた嫌な噂話だった。
ひき逃げの犯人は、もちろんまだ捕まっていない。
それを知っている俺は、以来この地下道を一度も利用していなかった。
市街地と自分のアパートの行き来も、わざわざ遠回りして迂回路を使っている。
だから、このアンダーパスを通るのは今夜が初めてだ。
「それをあいつら、わかってるくせに……」
内心ではブルっているせいか、思わずまた悪態が口をつく。
事故のおかげで急ピッチに分離工事が進んだ地下道は、まだ新しく小ぎれいだが、どこか薄気味悪い淀んだ空気を漂わせている。
ペタリ、ペタリ、ペタリ。
俺は背中を濡らす嫌な汗に耐えながら、一歩一歩慎重に足を進める。
あと十メートル。あと五メートル……。
実際にはほんの一~二分のことだろうが、異様に時間が長く感じられた。
俺はふと車道の暗がりに目をうつし、片手が肘からねじ曲がり両足から骨を突き出した女の幽霊を幻視して、また嫌な汗でシャツの背中をじっとりと湿らせる。
大丈夫、幽霊なんて出やしない。
自分に言い聞かせるように頭をふり、もう一歩前に進む。
あと三メートル。あと一メートル……。
祈るように最後の一歩を踏み出したとき、俺はギクリとして身をこわばらせた。アンダーパスの出口に、うつむいた女が立っている。胸の前でなにかを握りしめ、ぶつぶつと口の中でつぶやきつづけている。
「ひっ……」
反射的に引きつった悲鳴が漏れていた。
その声に驚いたのか、女もビクッと顔を跳ね上げる。
つぎの瞬間、怯えきった表情の女と目が合った。心配ない、これは人間だ。やっぱり幽霊なんかいないじゃないか。そう確信して、俺は一気に脱力した。
「……なんだよ、脅かしやがって」
安心しきったせいか、ほとんど八つ当たりのひとりごとが零れた。
女は怯えた表情のまま固まっていたが、深夜の路上で見知らぬ男に絡まれたのだから無理もない。せめてものフォローと照れ隠しに、ぶっきら棒につけたしておく。
「こんな時間に、一人歩きは危ないっすよ」
女は無言でコクコクと頷くと、しどろもどろに反応した。
「すみません、私、家に帰るのに、ここを通らなくちゃいけなくて……普段はできるだけ遅くならないようにしてるんですけど、残業がある日は仕方なくて……それで、あの、幽霊よけにお守りを持って歩いてはいるんですけど……」
なにをいっているのかはよくわからなかったが、女はとりあえずアンダーパスの噂は知っているようだった。まあ、この辺りの住人なら当たり前か。
俺は女に興味をなくし、ポケットからスマホを取り出した。とにかく今は、無事に罰ゲームをやり遂げたことを悪友たちに知らせるのが先決だ。脅かした自覚はあるので、ついでに女にも一言声をかけておく。
「ああ、もういいっす。じゃあ、お気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
女はペコペコと頭を下げると、軽い足取りで地下道へと下りていった。
が、途中でふと気づいたように引き返してくると、俺の手を取ってなにかを握らせる。
「でも、おかげでもうここを通るのが怖くなくなりました。これも必要なくなったので差し上げます、気休めですけど。……あなたこそ、お気をつけて」
にこやかにいうと、女はふたたびスキップしそうな勢いでアンダーパスの暗がりへと消えてゆく。本当になにをいっているのか意味がわからない。
首を傾げながら手の中を確認すると、女に握らされたお守りがあった。
「……はぁ? なんですかこれ?」
なんだか馬鹿にされた気がして、無性に腹が立った。だが一言いってやろうと顔を上げると、すでに女の姿は地下道に消えていた。
「まぁ、別にいいんだけどさぁ」
俺は苛立ちまぎれにアプリを立ち上げると、悪友どもにメッセージを送る。
どのみち、これでくだらない罰ゲームはおしまいだ。あとは迎えの車を待って、このいまいましいアンダーパスから、さっさと立ち去ればいい。
けれどメールをうち終わったそのとき、ふっと女の最後の言葉が気になった。
……もう怖くなくなったって、いったいどういうことだ?
そもそもあの女は、幽霊が怖くて地下道を通れなかったと言っていたはずだ。このお守りにしたって、そのための幽霊よけだと。
じゃあ、あの女には幽霊が視えていたということか?
視えていたからお守りが必要で、そのお守りがいらなくなったということは、つまり幽霊はアンダーパスからいなくなったということか?
頭を整理しながら、手の中のお守りをもう一度見つめてみる。
だとしても、どうしてこれを俺に渡す必要があった? それならアンダーパスをはなれた幽霊は、今はどこに?
――それともあの霊感オンナ、ひょっとして俺の……。
そこまで勘ぐって、疑念を払うように俺は何度も首をふる。問題ない、そんなことはけっしてありえるはずがない。
あのとき確かに、目撃者はいなかった。
証拠だって、いっさい残してはいないはずだ。
否定してもわきあがってくるモヤモヤをうち消すように、俺はふたたび地下道の暗がりをふり返ってみる。
そこには変わらず、オレンジ色の闇が口を開けて待ちかまえていた。
あのころとは違ってずいぶん見通しがよくなったその人工の暗闇の中に、俺はもう一度だけ幽霊の――いや、あのとき跳ね飛ばした女の死体を幻視して、ゾッとして思わず首をすくめて身震いをした。
そしてあらためて、自分に言い聞かせるように念じる。
大丈夫、幽霊なんて絶対にいやしない。
その証拠に、ひき逃げの犯人である俺はいまだに捕まっていない。
頭のおかしい霊能オンナの戯言なんて、信じるだけ時間の無駄だ。さっきから感じる背中の気配も、きっと臆病な俺の心が生んだ錯覚に違いない。
けれど、シャツを濡らす嫌な汗はいっこうに止まろうとしなかった。まるで背後からなにかに抱きつかれているように、べったりと全身にへばりついて気持ちが悪い。そんな俺の耳元で、今度はささやくように女の声がした。
「あぁ……やっと」
――やっと、見つけた。
その日から、アンダーパスに女の幽霊は出なくなったという。
〈了〉
あるいは人一倍ビビりで見栄っぱりの俺をイジろうと、みんなで示し合わせて企んだ悪ふざけなのかもしれない。
なんにせよ、俺たちは車を走らせて、深夜のアンダーパスまでやってきた。私鉄の線路を何本かまとめてくぐる、郊外と市街地を結ぶうすら長いアンダーパスだ。
「んじゃ、街のほうに抜けたらLINEよろー」
路肩に止めた車から、にやけた悪友たちがヤジを飛ばす。
「うっせ、わかってんよ!」
俺は精一杯の虚勢をはると、舌打ちしてアンダーパスに向き直った。
零時を回った片田舎の市道は、めったに車も通らない。静まり返った闇の中に、アンダーパスはぽっかりとオレンジ色の口を開けている。
「ったく、ガキじゃあるまいし」
捨てゼリフをしたところではじまらない。
俺は覚悟を決めて、そのトンネル灯に照らされた入口へと歩道を下ってゆく。
ペタリ、ペタリ、ペタリ……。
ひんやりとした地下道の中に、俺のサンダルの足音だけが反響する。
もし今背後から声をかけられたら、俺の心臓は即座に機能を停止するだろう。
このアンダーパスには、ある噂話があった。
それはまだ車道と歩道の分離工事がろくにされていなかった二年前、ここでひき逃げされて死んだ女の幽霊が出るという、怪談じみた嫌な噂話だった。
ひき逃げの犯人は、もちろんまだ捕まっていない。
それを知っている俺は、以来この地下道を一度も利用していなかった。
市街地と自分のアパートの行き来も、わざわざ遠回りして迂回路を使っている。
だから、このアンダーパスを通るのは今夜が初めてだ。
「それをあいつら、わかってるくせに……」
内心ではブルっているせいか、思わずまた悪態が口をつく。
事故のおかげで急ピッチに分離工事が進んだ地下道は、まだ新しく小ぎれいだが、どこか薄気味悪い淀んだ空気を漂わせている。
ペタリ、ペタリ、ペタリ。
俺は背中を濡らす嫌な汗に耐えながら、一歩一歩慎重に足を進める。
あと十メートル。あと五メートル……。
実際にはほんの一~二分のことだろうが、異様に時間が長く感じられた。
俺はふと車道の暗がりに目をうつし、片手が肘からねじ曲がり両足から骨を突き出した女の幽霊を幻視して、また嫌な汗でシャツの背中をじっとりと湿らせる。
大丈夫、幽霊なんて出やしない。
自分に言い聞かせるように頭をふり、もう一歩前に進む。
あと三メートル。あと一メートル……。
祈るように最後の一歩を踏み出したとき、俺はギクリとして身をこわばらせた。アンダーパスの出口に、うつむいた女が立っている。胸の前でなにかを握りしめ、ぶつぶつと口の中でつぶやきつづけている。
「ひっ……」
反射的に引きつった悲鳴が漏れていた。
その声に驚いたのか、女もビクッと顔を跳ね上げる。
つぎの瞬間、怯えきった表情の女と目が合った。心配ない、これは人間だ。やっぱり幽霊なんかいないじゃないか。そう確信して、俺は一気に脱力した。
「……なんだよ、脅かしやがって」
安心しきったせいか、ほとんど八つ当たりのひとりごとが零れた。
女は怯えた表情のまま固まっていたが、深夜の路上で見知らぬ男に絡まれたのだから無理もない。せめてものフォローと照れ隠しに、ぶっきら棒につけたしておく。
「こんな時間に、一人歩きは危ないっすよ」
女は無言でコクコクと頷くと、しどろもどろに反応した。
「すみません、私、家に帰るのに、ここを通らなくちゃいけなくて……普段はできるだけ遅くならないようにしてるんですけど、残業がある日は仕方なくて……それで、あの、幽霊よけにお守りを持って歩いてはいるんですけど……」
なにをいっているのかはよくわからなかったが、女はとりあえずアンダーパスの噂は知っているようだった。まあ、この辺りの住人なら当たり前か。
俺は女に興味をなくし、ポケットからスマホを取り出した。とにかく今は、無事に罰ゲームをやり遂げたことを悪友たちに知らせるのが先決だ。脅かした自覚はあるので、ついでに女にも一言声をかけておく。
「ああ、もういいっす。じゃあ、お気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
女はペコペコと頭を下げると、軽い足取りで地下道へと下りていった。
が、途中でふと気づいたように引き返してくると、俺の手を取ってなにかを握らせる。
「でも、おかげでもうここを通るのが怖くなくなりました。これも必要なくなったので差し上げます、気休めですけど。……あなたこそ、お気をつけて」
にこやかにいうと、女はふたたびスキップしそうな勢いでアンダーパスの暗がりへと消えてゆく。本当になにをいっているのか意味がわからない。
首を傾げながら手の中を確認すると、女に握らされたお守りがあった。
「……はぁ? なんですかこれ?」
なんだか馬鹿にされた気がして、無性に腹が立った。だが一言いってやろうと顔を上げると、すでに女の姿は地下道に消えていた。
「まぁ、別にいいんだけどさぁ」
俺は苛立ちまぎれにアプリを立ち上げると、悪友どもにメッセージを送る。
どのみち、これでくだらない罰ゲームはおしまいだ。あとは迎えの車を待って、このいまいましいアンダーパスから、さっさと立ち去ればいい。
けれどメールをうち終わったそのとき、ふっと女の最後の言葉が気になった。
……もう怖くなくなったって、いったいどういうことだ?
そもそもあの女は、幽霊が怖くて地下道を通れなかったと言っていたはずだ。このお守りにしたって、そのための幽霊よけだと。
じゃあ、あの女には幽霊が視えていたということか?
視えていたからお守りが必要で、そのお守りがいらなくなったということは、つまり幽霊はアンダーパスからいなくなったということか?
頭を整理しながら、手の中のお守りをもう一度見つめてみる。
だとしても、どうしてこれを俺に渡す必要があった? それならアンダーパスをはなれた幽霊は、今はどこに?
――それともあの霊感オンナ、ひょっとして俺の……。
そこまで勘ぐって、疑念を払うように俺は何度も首をふる。問題ない、そんなことはけっしてありえるはずがない。
あのとき確かに、目撃者はいなかった。
証拠だって、いっさい残してはいないはずだ。
否定してもわきあがってくるモヤモヤをうち消すように、俺はふたたび地下道の暗がりをふり返ってみる。
そこには変わらず、オレンジ色の闇が口を開けて待ちかまえていた。
あのころとは違ってずいぶん見通しがよくなったその人工の暗闇の中に、俺はもう一度だけ幽霊の――いや、あのとき跳ね飛ばした女の死体を幻視して、ゾッとして思わず首をすくめて身震いをした。
そしてあらためて、自分に言い聞かせるように念じる。
大丈夫、幽霊なんて絶対にいやしない。
その証拠に、ひき逃げの犯人である俺はいまだに捕まっていない。
頭のおかしい霊能オンナの戯言なんて、信じるだけ時間の無駄だ。さっきから感じる背中の気配も、きっと臆病な俺の心が生んだ錯覚に違いない。
けれど、シャツを濡らす嫌な汗はいっこうに止まろうとしなかった。まるで背後からなにかに抱きつかれているように、べったりと全身にへばりついて気持ちが悪い。そんな俺の耳元で、今度はささやくように女の声がした。
「あぁ……やっと」
――やっと、見つけた。
その日から、アンダーパスに女の幽霊は出なくなったという。
〈了〉