第3話 温かみの代償
文字数 2,371文字
ジムが便箋に出会ってから三日ばかり過ぎた。
机の上に置き去りの便箋はかわらず窓枠から忍ぶ風に晒されていた。
その日のジムは非番だった。
夜勤明けで朝日の光に眩みながら家路についたジムはお気に入りのジャケットをソファに寝かせると急ぎ足でシャワールームに向かった。
一晩の汗が熱湯に溶けていく。
疲れも一緒に流れるようだ。
ジムはやけにさっぱりとした顔で鏡の自分を見つめた。
「さて、どうしようか」
ジムは一人暮らしで家族とは離れて暮らしている。
非番一日でどうにかできる距離ではなく、かと言って浸るような趣味もない。
ジムはこれと言った目的もなかったが、なんとなく外に出かけることにした。
ジムはお気に入りのジャケットにラフなシャツとジーンズ、長財布を後ろのポケットに差して街に出た。
平日の街はどこか忙しそうに思える。
外出する人が少なくなったとは言えビジネスマンはそうもいかないらしい。
「すべてがインターネットで完結できるのは客だけだよ」とボヤくビジネスマンの友人の言葉を思い出す。
ジムは廃れかけているブロックの歩道を眺めながら行き先も決めずに歩いた。
昇りきった太陽がビルに隠れて日陰だと思ったよりも涼しい。
ビルが建ち並び始めた十数年前から街の温度は徐々に上がっている。
ゆうべのラジオの誰かの言葉がふと思い出された。
ジムがアベニューに差し掛かったとき轟音を立ててトラックが荷を揺らしながら横切った。
「随分と乱暴な運転じゃないか」
ジムは仕事のことが頭から離れずつい胸元に手をやる。
無論そこに無線がある訳もなく「頭の中は仕事だけか」と気が休まない性格に嫌気が差してふっとため息を漏らした。
安全を確認してアベニューを渡ったジムは通りの向こうに洒落た白い服を着たサングラスの女を見つけた。
女はただアベニューの角で佇んでいた。
女もジムに気づいたようだったが視界に入れた次の瞬間には黙殺する。
ちょっと高めで合わない女だなと思ったがその立ち姿から溢れる高貴には興味を唆られた。
ジムは声を掛けようかと悩んだがすぐに考えることを放棄する。
うまく喋れないのに街角でナンパなんてできる訳もない。
それに彼女と自分は合いそうにない。
性格もおそらく生活も。
ジムは怖じ気付いたのか近づくこともなく女の横を素通りする。
横目でチラっと眺めると金装飾の時計とダイヤのイヤリングが目に入った。
「住む世界が違うようだ」ジムはそのまま日陰の路地裏に消えていった。
結局ジムはその日一日かけて家の近くをただ歩いただけだった。
店に立ち寄ることもなく長財布はあきれて言葉を失っている。
ジムがそれを机の上に放り投げるとその勢いで便箋が床に舞った。
ひらひらとゆっくりと落ちていく様に釘付けになったジムはそれを拾うと再びじっと読み込んだ。
「あの女との未来はどうだろう」
欲求が音になった。
声すら掛けられないのに未来などあるはずもない。
すぐに心の声が否定した。
そして、このままだと俺はどんな未来に投げ込まれるのだろうと不安になる。
このままじゃ結婚どころか…。
ジムは想像の連鎖に身悶え、よろめきながらデスクに座る。
そしておもむろにパソコンを立ち上げた。
カタカタとファンの音が響くと初期設定のままのデスクトップがジムを迎えた。
ジムはふぅとため息をついた後、封筒の中のマイクロカードをパソコンに差し込む。
赤い光がきらめいて画面が真っ黒になった。
ジムは狼狽えることもなく画面をじっと見つめる。
すると、黒帽に黒服の白髭の老人がぼんやりと浮かんできた。
よく見ると片方だけの眼鏡をかけていて執事のように見えた。
ジムは妙なソフトだなと思いながら老人をながめているとふいに声がして仰け反った。
「あなたは選ばれました。この新しい発明の住人として。あなたの未来がこれからもっと輝くように努めてまいります」
老人は淡々と機械のように話す。
ジムは彼をじっと見ながら事の成り行きを見守っていた。
「この後、ジム様の登録を行います。その登録後一週間以内にこの発明に接続できる道具をお送りいたします」
画面から老人は消え登録画面に切り替わった。
あらゆる個人情報の入力を要求している。
ジムはどうしようかと悩んだが失うものはないだろうとキーボードをひとつひとつ確認しながら情報を打ち込んでいく。
ひとつ入力すればまた長考と言った具合にゆっくりと進めていった。
気がつけば夕日もすっかりと落ちて外は闇に支配されていた。
一通り入力を終えると「ENTER」と書かれたボタンをクリックした。
「ジム様、ありがとうございます。これで登録は完了です。この後、一週間ほどであなた様の元に道具が届きます。お楽しみにお待ちくださいませ」
再び老人が現れ深々と頭を下げる。
そしてプツッという音とともにもとの初期設定のデスクトップに戻った。
マイクロカードの赤いランプが一瞬だけ光って消えた。
ジムは凝った首を動かしながらソファになだれるように倒れ込んだ。
「何が起こるのだろうか」
ジムは何もない日常で何も起こさない男だったがこのとき初めて自分から波紋を広げた。
視線の先には自分が歪んで映るテレビがある。
ジムはそれを眺めながらこの先起こるであろうことに思いを巡らせていた。
*****
都会に吹く風は冷たい。
それゆえに人は温かみを求める。
暗闇の中でほくそ笑んで老人は呟く。
未来は選択の結果だがそのほとんどは思い込みや衝動にすぎない、と。
(第4話に続く)
机の上に置き去りの便箋はかわらず窓枠から忍ぶ風に晒されていた。
その日のジムは非番だった。
夜勤明けで朝日の光に眩みながら家路についたジムはお気に入りのジャケットをソファに寝かせると急ぎ足でシャワールームに向かった。
一晩の汗が熱湯に溶けていく。
疲れも一緒に流れるようだ。
ジムはやけにさっぱりとした顔で鏡の自分を見つめた。
「さて、どうしようか」
ジムは一人暮らしで家族とは離れて暮らしている。
非番一日でどうにかできる距離ではなく、かと言って浸るような趣味もない。
ジムはこれと言った目的もなかったが、なんとなく外に出かけることにした。
ジムはお気に入りのジャケットにラフなシャツとジーンズ、長財布を後ろのポケットに差して街に出た。
平日の街はどこか忙しそうに思える。
外出する人が少なくなったとは言えビジネスマンはそうもいかないらしい。
「すべてがインターネットで完結できるのは客だけだよ」とボヤくビジネスマンの友人の言葉を思い出す。
ジムは廃れかけているブロックの歩道を眺めながら行き先も決めずに歩いた。
昇りきった太陽がビルに隠れて日陰だと思ったよりも涼しい。
ビルが建ち並び始めた十数年前から街の温度は徐々に上がっている。
ゆうべのラジオの誰かの言葉がふと思い出された。
ジムがアベニューに差し掛かったとき轟音を立ててトラックが荷を揺らしながら横切った。
「随分と乱暴な運転じゃないか」
ジムは仕事のことが頭から離れずつい胸元に手をやる。
無論そこに無線がある訳もなく「頭の中は仕事だけか」と気が休まない性格に嫌気が差してふっとため息を漏らした。
安全を確認してアベニューを渡ったジムは通りの向こうに洒落た白い服を着たサングラスの女を見つけた。
女はただアベニューの角で佇んでいた。
女もジムに気づいたようだったが視界に入れた次の瞬間には黙殺する。
ちょっと高めで合わない女だなと思ったがその立ち姿から溢れる高貴には興味を唆られた。
ジムは声を掛けようかと悩んだがすぐに考えることを放棄する。
うまく喋れないのに街角でナンパなんてできる訳もない。
それに彼女と自分は合いそうにない。
性格もおそらく生活も。
ジムは怖じ気付いたのか近づくこともなく女の横を素通りする。
横目でチラっと眺めると金装飾の時計とダイヤのイヤリングが目に入った。
「住む世界が違うようだ」ジムはそのまま日陰の路地裏に消えていった。
結局ジムはその日一日かけて家の近くをただ歩いただけだった。
店に立ち寄ることもなく長財布はあきれて言葉を失っている。
ジムがそれを机の上に放り投げるとその勢いで便箋が床に舞った。
ひらひらとゆっくりと落ちていく様に釘付けになったジムはそれを拾うと再びじっと読み込んだ。
「あの女との未来はどうだろう」
欲求が音になった。
声すら掛けられないのに未来などあるはずもない。
すぐに心の声が否定した。
そして、このままだと俺はどんな未来に投げ込まれるのだろうと不安になる。
このままじゃ結婚どころか…。
ジムは想像の連鎖に身悶え、よろめきながらデスクに座る。
そしておもむろにパソコンを立ち上げた。
カタカタとファンの音が響くと初期設定のままのデスクトップがジムを迎えた。
ジムはふぅとため息をついた後、封筒の中のマイクロカードをパソコンに差し込む。
赤い光がきらめいて画面が真っ黒になった。
ジムは狼狽えることもなく画面をじっと見つめる。
すると、黒帽に黒服の白髭の老人がぼんやりと浮かんできた。
よく見ると片方だけの眼鏡をかけていて執事のように見えた。
ジムは妙なソフトだなと思いながら老人をながめているとふいに声がして仰け反った。
「あなたは選ばれました。この新しい発明の住人として。あなたの未来がこれからもっと輝くように努めてまいります」
老人は淡々と機械のように話す。
ジムは彼をじっと見ながら事の成り行きを見守っていた。
「この後、ジム様の登録を行います。その登録後一週間以内にこの発明に接続できる道具をお送りいたします」
画面から老人は消え登録画面に切り替わった。
あらゆる個人情報の入力を要求している。
ジムはどうしようかと悩んだが失うものはないだろうとキーボードをひとつひとつ確認しながら情報を打ち込んでいく。
ひとつ入力すればまた長考と言った具合にゆっくりと進めていった。
気がつけば夕日もすっかりと落ちて外は闇に支配されていた。
一通り入力を終えると「ENTER」と書かれたボタンをクリックした。
「ジム様、ありがとうございます。これで登録は完了です。この後、一週間ほどであなた様の元に道具が届きます。お楽しみにお待ちくださいませ」
再び老人が現れ深々と頭を下げる。
そしてプツッという音とともにもとの初期設定のデスクトップに戻った。
マイクロカードの赤いランプが一瞬だけ光って消えた。
ジムは凝った首を動かしながらソファになだれるように倒れ込んだ。
「何が起こるのだろうか」
ジムは何もない日常で何も起こさない男だったがこのとき初めて自分から波紋を広げた。
視線の先には自分が歪んで映るテレビがある。
ジムはそれを眺めながらこの先起こるであろうことに思いを巡らせていた。
*****
都会に吹く風は冷たい。
それゆえに人は温かみを求める。
暗闇の中でほくそ笑んで老人は呟く。
未来は選択の結果だがそのほとんどは思い込みや衝動にすぎない、と。
(第4話に続く)