第55話 交わされた約束に悪意はあるか?
文字数 3,488文字
意を決したエディナは深く息を吸い込んで周囲を見渡した。
言葉を紡ぐタイミングを唱えながら視線を移していく。
やがてその視線は大きな窓枠に囚われていた。
リビングから広い芝生と菜園が見える。
色彩豊かな蔓が壁面を這って伸び、窓枠にしがみついていた。
春になると蕾が一斉に産声を上げて蔦を彩るように咲き誇るのだろうか。
エディナは窓の外をふと眺めて心を落ち着かせる。
いつの頃だっただろうか。
小春日和の午後に蔦、彩りに心を奪われた昔を懐かしむ。
エディナはそんな昔話を思い出しながらアンナに寄り添い呼吸を合わせた。
時がゆっくりとふたりを包むように歩んでいく。
エディナは嘘の登録をしたことによって姿が変わってしまったこと、そんな姿でもジムが愛してくれたこと、そのせいでミュージアムホールですれ違いがあったことなどを話した。
「あの時、私をエディナと呼んだらどうしようかと思っていました。その時はまだ彼、私のことわかっていなかったから」
「そうだったか」
「それからね、ジムはどうしてかわからないけど私に気付いてくれたの」
エディナの震える声にふたりはテーブルの下でお互いの手を握りしめた。
「それであの後ふたりの時間を過ごそうと……」
「そしたら彼が来たんだね」スタッカートは優しく語りかける。
エディナはそっと「ええ……」と呟いた。
しばし沈黙が流れる。
それを破ったのはアンナだった。
「あの時の男って、何者?」
エディナは絞り出すように「ジョセフは……、父の運転手で……」と言って言葉を詰まらせる。
スタッカートは目を細めて彼女の言葉を待った。
「どうしたの?」アンナは動揺し小刻みに震えるエディナに手を伸ばす。
スタッカートは「これ以上は」と思い、ひとつ溜息をついて話し始めた。
「アンナ、よくお聞き。ここでの話は他言無用だ。それを守れるのなら話そう」
「なによ、それ」
アンナは初めて見せる真剣で怖い彼の表情に男の素性の得体の知れなさを体感する。
そして「わかったわよ」と半ば強引な返答を引き出した後、スタッカートは静かに言葉を選んでいく。
「彼……、ジョセフはね。とても危険な男なんだ。とは言っても世話になったこともあるし、今でもたまに会食もする仲だ。身内には危険のない男だよ。そして、彼は裏の世界に住む男なんだ」
「裏の世界? マフィアってこと?」
「まあ、わかりやすく言えばそうだが彼の行動は法規外と言えばいいかな。乱暴とかそういう訳ではない。むしろ法に長けていてそのギリギリを行く」
「そんな男がどうして運転手なんかしているの?」
「彼はね、もともとは私の友人の運転手だった。彼の紹介で私の運転手も務めてきた。表では警備会社を経営していてね。その代表なんだが面白いことに実務が好きなんだ。それで契約を交わすたびにその会社の社長と仲良くなろうとボディガードも兼ねて運転手もする」
「変わった人ね」
「そうさ、でも我々に危害を加えることも何かを策略することもない。彼は彼自身の考えの基に大企業とのパイプを作ろうとしている。そしてその行動の理由をしっかりと私たちに話してくれている」
アンナはジョセフのことが少しずつ分かりかけていたがそれと同時に怖さを感じている。
エディナを抱きしめた掌が汗で滲んできて知らずに強く握っていた。
エディナはそれに気づきながらも彼の話を遮らないように我慢していた。
私の代わりに話してくれているし、きっと私にも彼の知らないところを教えようとしてくれているんだ。
「彼はね、暴力的なことは嫌いなんだが手段としての暴力は肯定する男だ。わかりやすく言えば大儀の為に必要ならば暴力も厭わないってことかな。でも、企業をターゲットにして無茶を迫る薄汚い連中と言うのは一定数いてね。そんな彼らを相手するときには厭わざるを得ない場合がある。彼らは私たちに雇われて私たちを守る仕事をしている。もっとも彼らの力を悪用しようとする経営者は多数いたがそれには大きな代償を払わなければならない」
「代償?」
「そうだ。かけがえのない物を失う覚悟がないと、彼らの力を、裏の世界の力を私利私欲のために利用しようとは思ってはいけない。私もヴァンガードもそんなつもりはまったくないし、ほとんどの経営者はそうなんだが同じ考えばかりの人間だけじゃあないからね」
「そんな彼らは何を失ってきたの?」
「すべてさ」
「すべて?」
「そう、すべてだよ。弱みを握られるってのはそう言うことだからな。だから彼らを悪い目的で利用しようとしてはいけないんだ」
「あなたはどうして彼を雇ったの?」
「どこの業界でも出る杭は打たれるんだよ。目的だけで手段を選ばない人間は腐るほどいるからね。それで友人から紹介してもらった。噂では聞いていたけど彼自身は悪い人間ではないから」
「それがよく分からない。何だが怖いわ」
「大丈夫だよ。今、私と彼とは良好な関係だし彼の警備会社が守ってくれるおかげでトラブルもずいぶんと減った。それ相応の報酬は渡しているしそれ以上のことは一切求めてこない」
「でも、将来的にはわからないんでしょ?」
「はは……、心配性だな、アンナは。でもそれは大丈夫だよ。彼との契約を守る限りはね」
「契約?」
「そう、契約だよ。仁義には劣らないって言う男と男の約束だよ」
「そう……」
スタッカートの饒舌がアンナを安心させることはない。
スタッカートもそれを承知だった。
これは男と男の間に流れる異形の手形だからだ。
スタッカートは喋り疲れたのか自分でダイニングに行って乾いた喉を潤し始めた。
アンナは緊張が解けたようでいつの間にかエディナの腕は解放されている。
「エディナさんはどう思ってるの?」
「うん、ジョセフは怖いけど悪い人じゃないのは分かってる。随分と親切にしてもらってるしあの日も父の命令で来ただけですもの。だから彼は悪くない」
エディナの語気が強くなる。
「でも父は許せない。ジムに恥をかかせて。あんなに強引に……」
「まあ父親の面子もわかるがな。余計な詮索をするからな、君がいなければ」
いつの間にかスタッカートがダイニングから戻ってきていた。
彼の言葉を受けてエディナは感情的に言い放った。
「それは父の勝手よ。私には私の人生があるわ!」
「そりゃ、そうだがなあ……」バツの悪い顔をしながら「それにしても、なぜ……」と心に留めておいた言葉が音になった。
「それ、どういう意味? 何か知ってるの?」聞き逃さなかったアンナが詰め寄る。
「えっ?なんのことだい?」スタッカートは声に出たことを悔いた。
「あなた、何か隠してるでしょ?」
「なにも隠してないよ、アンナ」
「本当?」
「本当だよ、信じてくれよ」
「ならいいんだけど……。何かしっくりこないわね」アンナは渋々と引き下がる。
スタッカートは胸の撫で下ろしながらヴァンガードに確かめなければならないことがあると口を結んだ。
エディナは二人の痴話喧嘩に呆気に取られていたが突然笑い出した。
ふたりは顔を見合わせてエディナの方に振り向いた。
「羨ましいわ」
「えっ? 何が」抜けた声でアンナは訊いた。
「ふたりが」
「ああ、ごめんなさい」
「でも嬉しいわ。私とジムもひょっとしたらこんな風になれるかも知れないと思うと」
「それには高い障壁があるな」スタッカートが冷静に返す。
「わかってるわ。でも私の人生だもの。自分で決めるし、いざとなれば……」
「おっと、そこまでだ。それ以上はワシは聞けないし言わせられないよ」
「わかってるわよ。たとえよ、たとえ」
「いや、君は決めたら突き進むからな。そこは誰に似たのかな?」
「あなた、やめなさいよ」スタッカートの軽口をアンナが摘んで見せる。
エディナはおかしくなって、さらに大きな声を出して笑った。
アンナはスタッカートに覆い被さるように抱きついて見せる。
エディナは「やめてよ、人前で」とふたりを見て笑い続けた。
*****
幸せの正体は投影の角度によって姿を変える。
その表裏を支配するのは環境であり感情である。
雲の隙間から雫れる陽光を眺めて老人は呟く。
現実的な到達点を知る人は一時の感情に支配されない、と。
(第56話につづく)
言葉を紡ぐタイミングを唱えながら視線を移していく。
やがてその視線は大きな窓枠に囚われていた。
リビングから広い芝生と菜園が見える。
色彩豊かな蔓が壁面を這って伸び、窓枠にしがみついていた。
春になると蕾が一斉に産声を上げて蔦を彩るように咲き誇るのだろうか。
エディナは窓の外をふと眺めて心を落ち着かせる。
いつの頃だっただろうか。
小春日和の午後に蔦、彩りに心を奪われた昔を懐かしむ。
エディナはそんな昔話を思い出しながらアンナに寄り添い呼吸を合わせた。
時がゆっくりとふたりを包むように歩んでいく。
エディナは嘘の登録をしたことによって姿が変わってしまったこと、そんな姿でもジムが愛してくれたこと、そのせいでミュージアムホールですれ違いがあったことなどを話した。
「あの時、私をエディナと呼んだらどうしようかと思っていました。その時はまだ彼、私のことわかっていなかったから」
「そうだったか」
「それからね、ジムはどうしてかわからないけど私に気付いてくれたの」
エディナの震える声にふたりはテーブルの下でお互いの手を握りしめた。
「それであの後ふたりの時間を過ごそうと……」
「そしたら彼が来たんだね」スタッカートは優しく語りかける。
エディナはそっと「ええ……」と呟いた。
しばし沈黙が流れる。
それを破ったのはアンナだった。
「あの時の男って、何者?」
エディナは絞り出すように「ジョセフは……、父の運転手で……」と言って言葉を詰まらせる。
スタッカートは目を細めて彼女の言葉を待った。
「どうしたの?」アンナは動揺し小刻みに震えるエディナに手を伸ばす。
スタッカートは「これ以上は」と思い、ひとつ溜息をついて話し始めた。
「アンナ、よくお聞き。ここでの話は他言無用だ。それを守れるのなら話そう」
「なによ、それ」
アンナは初めて見せる真剣で怖い彼の表情に男の素性の得体の知れなさを体感する。
そして「わかったわよ」と半ば強引な返答を引き出した後、スタッカートは静かに言葉を選んでいく。
「彼……、ジョセフはね。とても危険な男なんだ。とは言っても世話になったこともあるし、今でもたまに会食もする仲だ。身内には危険のない男だよ。そして、彼は裏の世界に住む男なんだ」
「裏の世界? マフィアってこと?」
「まあ、わかりやすく言えばそうだが彼の行動は法規外と言えばいいかな。乱暴とかそういう訳ではない。むしろ法に長けていてそのギリギリを行く」
「そんな男がどうして運転手なんかしているの?」
「彼はね、もともとは私の友人の運転手だった。彼の紹介で私の運転手も務めてきた。表では警備会社を経営していてね。その代表なんだが面白いことに実務が好きなんだ。それで契約を交わすたびにその会社の社長と仲良くなろうとボディガードも兼ねて運転手もする」
「変わった人ね」
「そうさ、でも我々に危害を加えることも何かを策略することもない。彼は彼自身の考えの基に大企業とのパイプを作ろうとしている。そしてその行動の理由をしっかりと私たちに話してくれている」
アンナはジョセフのことが少しずつ分かりかけていたがそれと同時に怖さを感じている。
エディナを抱きしめた掌が汗で滲んできて知らずに強く握っていた。
エディナはそれに気づきながらも彼の話を遮らないように我慢していた。
私の代わりに話してくれているし、きっと私にも彼の知らないところを教えようとしてくれているんだ。
「彼はね、暴力的なことは嫌いなんだが手段としての暴力は肯定する男だ。わかりやすく言えば大儀の為に必要ならば暴力も厭わないってことかな。でも、企業をターゲットにして無茶を迫る薄汚い連中と言うのは一定数いてね。そんな彼らを相手するときには厭わざるを得ない場合がある。彼らは私たちに雇われて私たちを守る仕事をしている。もっとも彼らの力を悪用しようとする経営者は多数いたがそれには大きな代償を払わなければならない」
「代償?」
「そうだ。かけがえのない物を失う覚悟がないと、彼らの力を、裏の世界の力を私利私欲のために利用しようとは思ってはいけない。私もヴァンガードもそんなつもりはまったくないし、ほとんどの経営者はそうなんだが同じ考えばかりの人間だけじゃあないからね」
「そんな彼らは何を失ってきたの?」
「すべてさ」
「すべて?」
「そう、すべてだよ。弱みを握られるってのはそう言うことだからな。だから彼らを悪い目的で利用しようとしてはいけないんだ」
「あなたはどうして彼を雇ったの?」
「どこの業界でも出る杭は打たれるんだよ。目的だけで手段を選ばない人間は腐るほどいるからね。それで友人から紹介してもらった。噂では聞いていたけど彼自身は悪い人間ではないから」
「それがよく分からない。何だが怖いわ」
「大丈夫だよ。今、私と彼とは良好な関係だし彼の警備会社が守ってくれるおかげでトラブルもずいぶんと減った。それ相応の報酬は渡しているしそれ以上のことは一切求めてこない」
「でも、将来的にはわからないんでしょ?」
「はは……、心配性だな、アンナは。でもそれは大丈夫だよ。彼との契約を守る限りはね」
「契約?」
「そう、契約だよ。仁義には劣らないって言う男と男の約束だよ」
「そう……」
スタッカートの饒舌がアンナを安心させることはない。
スタッカートもそれを承知だった。
これは男と男の間に流れる異形の手形だからだ。
スタッカートは喋り疲れたのか自分でダイニングに行って乾いた喉を潤し始めた。
アンナは緊張が解けたようでいつの間にかエディナの腕は解放されている。
「エディナさんはどう思ってるの?」
「うん、ジョセフは怖いけど悪い人じゃないのは分かってる。随分と親切にしてもらってるしあの日も父の命令で来ただけですもの。だから彼は悪くない」
エディナの語気が強くなる。
「でも父は許せない。ジムに恥をかかせて。あんなに強引に……」
「まあ父親の面子もわかるがな。余計な詮索をするからな、君がいなければ」
いつの間にかスタッカートがダイニングから戻ってきていた。
彼の言葉を受けてエディナは感情的に言い放った。
「それは父の勝手よ。私には私の人生があるわ!」
「そりゃ、そうだがなあ……」バツの悪い顔をしながら「それにしても、なぜ……」と心に留めておいた言葉が音になった。
「それ、どういう意味? 何か知ってるの?」聞き逃さなかったアンナが詰め寄る。
「えっ?なんのことだい?」スタッカートは声に出たことを悔いた。
「あなた、何か隠してるでしょ?」
「なにも隠してないよ、アンナ」
「本当?」
「本当だよ、信じてくれよ」
「ならいいんだけど……。何かしっくりこないわね」アンナは渋々と引き下がる。
スタッカートは胸の撫で下ろしながらヴァンガードに確かめなければならないことがあると口を結んだ。
エディナは二人の痴話喧嘩に呆気に取られていたが突然笑い出した。
ふたりは顔を見合わせてエディナの方に振り向いた。
「羨ましいわ」
「えっ? 何が」抜けた声でアンナは訊いた。
「ふたりが」
「ああ、ごめんなさい」
「でも嬉しいわ。私とジムもひょっとしたらこんな風になれるかも知れないと思うと」
「それには高い障壁があるな」スタッカートが冷静に返す。
「わかってるわ。でも私の人生だもの。自分で決めるし、いざとなれば……」
「おっと、そこまでだ。それ以上はワシは聞けないし言わせられないよ」
「わかってるわよ。たとえよ、たとえ」
「いや、君は決めたら突き進むからな。そこは誰に似たのかな?」
「あなた、やめなさいよ」スタッカートの軽口をアンナが摘んで見せる。
エディナはおかしくなって、さらに大きな声を出して笑った。
アンナはスタッカートに覆い被さるように抱きついて見せる。
エディナは「やめてよ、人前で」とふたりを見て笑い続けた。
*****
幸せの正体は投影の角度によって姿を変える。
その表裏を支配するのは環境であり感情である。
雲の隙間から雫れる陽光を眺めて老人は呟く。
現実的な到達点を知る人は一時の感情に支配されない、と。
(第56話につづく)