第78話 覚醒の夜に現実が突き刺さる

文字数 5,908文字

 白くて遠い天井がぼんやりと見える。
 片方の視界はせまく、うっすらと光が滲んでいる。
 肌を擦る白い布のようなものが隅のほうでゆらゆらと揺れている。

 エディナが目を覚ましたのは火災翌日の午後だった。
 静かな部屋だがどこからともなく話し声や笑い声が滲んでいる。
 エディナはぼんやりとした意識の中でかすかな音と光に反応していた。

 白いレースのゆらめきが壁に広がっている。
 海に浮かぶ海月のようなゆらめきは時折吹く風が弄んだ爪痕だ。
 その壁の一角の、日向から隠れたところにジョセフが座っていた。
 足を組み、腕組みをしたまま目を閉じて眠っている。

 エディナは視界の片隅の誰かがいると思ってゆっくりと首を動かして焦点を合わせようとする。
 次第に姿形がはっきりとしてきて、それがジョセフだと認識できた。
 エディナはジョセフが眠っていることに気づくと静かに再び天井を眺めた。

 どうしてこんなところにいるんだろう。
 それに体が自由に動かない。
 手足の感覚もほとんど感じない。
 これは夢の中?

 意識が次第に目覚めてくる。
 情報を処理しようとして視線をあらゆるところに動かしていく。
 窓がある部屋、全体的に白い無機質な部屋だ。
 
 エディナは周りを認識した後、今度は自分がどうなっているのかを確認する。
 手足を動かしてみるが思うようには動かない。
 どうやらベッドに寝ているようだ。
 白くて暖かい薄い毛布が上に乗っかっている。
 顔に何か巻かれている?
 白いタオルだろうか。
 いや包帯のような気がする。
 同じ感触が左足にも両腕にもある。
 頬をかすかに撫でる柔らかい感触だがその下の感覚は戻っていない。

 エディナは次第に記憶を辿りながら、自分が何かの事故か病気で病院に運ばれたのでは、と想像する。
 それでも身体じゅうを見て確認できるほど自由には動けなかったし断片的な記憶は真実を伝えてはくれない。

 その時、ガラッと右側から音がした。
 木枠の擦れた音がして足音が聞こえる。
 誰かが入ってきたようだ。
 うっすらと白い服を着ているのがわかった。

「エディナさん、どう?」

 のぞき込むようにいきなり視界に入ってきた。
 女性だ。
 誰かわからないけれどしっかりと自分の顔を見ている。
 そして左半分の白い包帯をさわっている。
 頭を持ち上げられて包帯が解かれる。
 そして何かを頬に塗ったあと、また頭を持ち上げられて新しい包帯が巻かれた。

「誰? 看護師さん?」か細い声が漏れた。
 掠れた声が自分にも聞こえる。

「あら! エディナさん!」看護師は声を上げて喜ぶ。
 その声にジョセフが目覚めて傍に駆け寄った。

「エディナ! わかるか?」

 エディナには二人の大人が顔の横で何かを叫んでいるように見えた。
 嬉しそうに見えるが理由はわからない。

「ジョセフ?」

「そうだ! よかった!」

 ジョセフがまるで家族のように喜んでいるのが不思議だった。
 看護師はPHSを取り出して誰かと話している。
 間もなく医師が駆けつけてきた。

「エディナさん、ちょっといいですか?」

 白髭の医師はペンライトのようなものを目に近づけて何かを見ている。
 その後、布団を託し上げて胸やら腹やらに何かを這わせている。
 こそばゆい。
 エディナの体が捩れるように動いた。
 そして、顔の包帯を取って何かを確かめた後、左手と左足の包帯も取って何かを確認している。
 エディナはされるがままに医師の診察を受けた。

「悪化はしていないようです。このまま様子を見ましょう」医師はジョセフに告げる。
 ジョセフが珍しく人に頭を下げていた。

「エディナさん、大丈夫ですよ」

 医師はそう言い残すと看護師とともに部屋を出ていった。
 何が起きたのかまだはっきりとは理解できていない。
 何となく想像で補完するしかなかった。

「どうなってるの?」エディナは傍らのジョセフに訊いた。
 ジョセフは言葉に詰まりながらも「分署で火災が起きて、それに巻き込まれた」とだけ告げた。

「そこでケガをしたのね」

 エディナは次第に想像の世界に入っていく。
 ジョセフはそれを眺めながら神に祈るように腕を組んだ。
 どうか悪い方に想像を膨らませないでくれ。
 そう願っても現実を知るとそうも行くまい。
 どうやって現実を知らせるべきか。
 いずれ痛み止めの効果も切れて嫌でも現実を知ることになる。
 その前に告げるべきか。
 ジョセフはタイミングを窺うしかなかった。

 エディナは気だるさの中、再び眠りにつく。
 ジョセフはホッと胸を撫で下ろしながらも、ただ徒に先延ばしになっただけだと言い聞かせる。
 次に目覚めるときには……。
 ジョセフはその時を待つことが苦痛でならなかった。

 夜になると月明かりだけが部屋を照らした。
 少しだけ開いた窓から乾いた冷たい空気が部屋に紛れ込んでいた。
 ジョセフはスタンドの僅かな明かりだけで文庫本を読んでいた。
 エディナは傍らでスースーと静かな寝息を立てている。
 ジョセフは時折、エディナの体動に気を奪われる。
 その度に事実を伝える強迫観念に苛まれる。
 ジョセフにとって現実世界で怖いものは何もないはずだった。
 それなのに、なぜ。
 ジョセフの自問は果てしなく続いた。

 すきま風の温度が変わった深夜。
 ジョセフは腕組みをして椅子に座ったまま眠りについていた。
 ふうっと風がなびき、暖かい風が部屋をまさぐる。
 そしてエディナは何事もなかったかのようにはっきりとした意識を取り戻した。
 静かに上体を起こし、自分の意志で体を動かした。
 左足にかすかな痛みが走り、それがさらに覚醒を促した。

「どこ?」

 エディナは辺りを見回す。
 月明かりと消し忘れたスタンドの光だけで周りははっきりと見えない。
 うっすらと暗さに慣れた頃、部屋の隅にジョセフが寝ているのを見つけた。

「ジョセ……」

 エディナは呼びかけようとしてやめた。
 眠っているのに気づいたからだ。
 そして、彼だけがこの部屋にいる奇妙さにも気づく。
 エディナは痛みのない右足を毛布から出して地面をまさぐる。
 つま先が冷たい床にふれ、のけぞるように離す。
 そしてまた、まさぐるように地面に足をつけた。
 体をズラして毛布から出すと病衣がはだけて太股が露わになる。
 エディナはそっと病衣を重ねて戻すと、胸元を締め直してそのまま右足だけで立ち上がろうとした。

「痛い……」かすかな声がこぼれる。
 体重が乗った右足が悲鳴を上げる。
 ずっと寝ていたせいか体じゅうに激痛が走った。
 左足は何かをで固定されているようで足首も動かせやしない。
 体重を預けるのも怖い。
 エディナは右足だけで移動を試みるが一歩も進めなかった。
 ベッドに腰を落としてため息をつく。
 そして、その壁まで行けないだろうかと1メートルほど先の白い壁を見つめた。
 腰を浮かせて、震わせながら手を伸ばすと何だか届きそうな気がしてくる。
 指先を伸ばして届きそうだと思ったとき、左足が地面にふれて激痛が走った。
 エディナは痛みに耐えられずにその場に崩れるように倒れ込む。
 ジョセフはその物音に気づいて覚醒する。
 すぐさまベッドを見るがエディナの姿がなかった。

「エディナ!」そう叫んで周りを見回して壁際でうずくまっているエディナを見つけた。
 駆け寄ってみると座り込んでいるだけだとわかってホッと一息ついた。

「無茶をするな」

 ジョセフはエディナを抱えてベッドに戻す。
 エディナは申し訳なさそうな顔で毛布を口元に引き上げた。

「目覚めたか?」エディナは無言で頷く。

「そうか……、よかった」ジョセフの優しい言葉にエディナは戸惑う。
 そして、どうして彼だけがいるのかと再び思い巡らせた。

「あなただけ?」

「ああ……。でも心配するな。ヴァンガード様も奥様もここに来られた」

「でも今はいないのね」

「そんな風に言うな。ふたりがずっと付き添えないことはわかるだろう?」

「わかっているわよ。でも……」

「気持ちはわかる。でも、ここに運ばれてからずっと眠っていたからな」

「どのくらい?」

「そうだな、1日以上眠っていたよ」

「そんなに……」

「ああ、途中何度か起きたかと思ったらまた眠りについた。それを繰り返していた」

「そう……。どおりで体じゅうが痛いのね」
 エディナは隠していた顔を出して、「何が起きたのか覚えていないの」と不安そうに言った。

「何も?」

「ええ……」

「そうか……。でも、どこから話したらいいのか……」

「じゃあ、悪い話を先にして」

「わかった」ジョセフはそう言うとエディナの左手を握った。
 ジョセフの切ない表情に怖れを抱いていく。

「エディナ……、エディナ様」ジョセフは唾を飲み込んだ後、「エディナ様は警察署の、分署の火災に巻き込まれました」と告げた。

「警察署? 何でそんなところに?」

「それは存じ上げませんが、アンナ様という女性、そう……、スタッカート氏のご友人でしょうか、その方と分署の方に出向かれたそうです。その時に分署で火災が起こって……」

「アンナさん? ああ!」エディナは断片的な記憶を辿る。
 みるみると顔色が青ざめてくる。

「ジムは! ジムは!」突然取り乱したようにエディナは叫んだ。
 体を起こしてジョセフの服を掴む。

「エディナ様、エディナ様! 落ち着いて!」

 ジョセフは宥めるようにエディナの両肩を掴む。
 激しい呼吸を弾ませるエディナ。

「ジム様も無事です。安心してください。それとアンナ様もご無事です。ただ……」

「どうしたの?」

「悪い話を先にしてくれとのことでしたので……」

「そうね、忘れていたわ。なに?」

「その……、今は痛み止めが効いているのでしょうが……」

 エディナにはジョセフの意図が分からなかった。
 それでも痛み止めと聞いて自分の体のことだろうかと全身の神経を尖らせる。
 そして、顔の半分が包帯でくるまれていることを思い出す。

「私……、顔……」恐る恐る包帯の上に手を伸ばす。

「いけません、エディナ様!」ジョセフは咄嗟に腕を掴んだ。

「嫌! 私! まさか!」

 ジョセフは取り乱すエディナを抱きしめて、「お顔に火傷をなさっています。さわらないでください」と呟いた。
 その言葉と共にエディナが力なく崩れていく。
 ジョセフはそれを支えて、そしてそっとベッドに寝かせた。

「鏡は?」

「いけません」

「見せて!」

「今はまだダメです」

「でも……」

「治るまでは見ない方がいい」

「あなたは見たの?」

「いえ、私もヴァンガード様も奥様も、誰もはっきりとは見てません。医者から話を聞いただけです」

「ひどいの?」

「話を聞く限りでは……。でも、心配は……」

「前みたいに作り直せばとでも言いたいの?」

 エディナは包帯の上からそっと頬、目の回り、額などをさわっていく。
 かなり広い範囲で微かな痛みを感じた。
 エディナの突き放したような言葉にジョセフは言葉を失っていた。

「ごめんなさい、ジョセフ」エディナの言葉が急に優しくなった。
 そして自分の過去の話を始めた。

「私が学生だった頃……、同級生と諍いがあって……。そしてある日、その子が……。手にハサミか何かを持っていきなり顔を刺されたの。頬を掠めて、いっぱい血が出て……」

「そんなことが……」

「私がしてきたことへの罰だったのよ。そのときはわからなかったけど。私にとって、それは正義だったはずなのに……」

「……」

「でも、傷は思ったよりも深くて、残ってしまった。ここにまっすぐにね……」エディナは包帯の上から傷跡をなぞった。

「それからその傷のせいで色々と言われるようになった。こう言うときは人って陰湿ね。これまで友達だと思っていた子たちも陰で色々と言っていた。態度ってすぐにコロコロ変わるのね。私は怖くて、中学を卒業するまでは静かにしていた。その後、やっぱり顔の傷は目立ってどこに行っても何か言われてしまう。それを見かねた父が形成手術を受けた方がいいだろうって言い出してね。それでかなりのお金を使って頬を直したの」

 ジョセフは無言でじっとエディナを見つめていた。

「それで何かが変わると思ったんだけど、こんどは整形したなどと陰口を言われるようになった。でも傷がなくなって精神的にゆとりができたのかそれほど気にはならなくなった。でも抑えきれずに陰口を叩く奴等に随分と酷い仕打ちもした……」

 エディナはハイスクールを卒業すると過去からの呪縛から逃げるように都会のアカデミーに進学する。
 それでも本性は変わらないのだろうか。
 気に入らないことがあるとすぐに爆発する性格は治らなかった。
 その頃から父の会社の業績は上がり裕福になって、さらに拍車が掛かるようになっていた。
 父も母も仕事に没頭しエディナを置き去りにする。
 自由気ままなエディナはやりたい放題だった。

「見かけは隠せても傷は残っている。こんな寒い日は時々痛むのよ」

「そうでしたか……。でも、お医者様がきっと何とかしてくれますよ。今の医学は進歩していますし……」

「そうね……。でも、私は一生業から逃れられないのかもね……」

 エディナはそう言うと何かを思い出したかのように深い悲しみに満ちた表情をする。
 それはこれまでにジョセフが見たことのない表情だった。

「業……」ジョセフは思わず呟いた。
 エディナの過去にさらに深みがあるように思えてならない。
 でも、それを訊くわけにもいかない。

 ジョセフは深いため息を漏らす。
 エディナは天を仰ぎ見るようにゆっくりと倒れて静かに目を閉じた。
 瞼からひとすじの涙がこぼれて頬を伝っていく。
 ジョセフはそれ見つめながら、心の中で「業」という言葉を繰り返すのだった。

*****

 命の価値を比べることなどできない。
 そんな綺麗事を現実は嘲笑う。
 人気のないロビーで老人は静かに呟く。
 命の価値を笑うものは命の価値に揺さぶられ続ける、と。

(第79話につづく)
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