第48話 雪は希望も悲しみも覆い隠して行く

文字数 1,379文字

 ジムはまっすぐ自宅に戻らず、考え事をしながら街道を歩いていた。
 イルミネーションが寂しげな横顔を照らしては消える。
 瞳に映るはずの賑やかな喧噪もただのノイズだ。
 レンガ造りの歩道、その軒先に赤と緑が乱舞する非日常。
 世界じゅうの祈りと願いを乗せた風はまるでジムだけを避けるように吹いていた。
 本当なら希望が灯る夜だったはずなのに。

 ジムの心はエディナとの切ない別れよりもジョセフのことに囚われていた。
 あの威圧感と鋭い眼光。
 どこかで見たことのあるようなカタギではないその眼差し。
 他人を見下すような獲物を見据えるような座った目は普通じゃない。
 そしてこれまで軽犯罪で捕らえた小悪党どもとも違う何かを感じさせる。
 分署が扱うような事件にそぐわない陰湿な雰囲気と鋭利な感覚。
 そして奴は何故か自分の名前を知っていた。
 それがとても気味が悪く底知れぬ恐怖感をジムに与えていた。

 これまでジムは優位性の中に生きてきた。
 職業警察官としての特権意識とでも言おうか。
 通常よりも情報強者として市民や犯罪者と相対して来た。
 その立場が見事に逆転している。
 見知らぬ男に全てを握られているような感覚。
 それにしてもどこかで……。
 このデジャヴに似た記憶の欠片はいつのものなのだろうか。

 急に強い風が吹き、淡雪が肌を殴打した。
 氷の飛礫に気づいて空を見上げると、無言のビル群が立ち並んでいた。
 ミュージアムホールから随分と歩いて来たようだ。
 昼間の無機質も異様だったが、夜中のビジネス街はさらに異質だ。
 非常灯の明かりぐらいしか存在感はなく、漆黒を映すガラスは底の見えない不気味さを漂わせている。

 ジムはしばらくの間ビル群を眺めていたが構わずにそのまま歩き出した。
 もうバスの往来もないし喧騒からも遠ざかった。
 ゆっくりと考え事をするのにはちょうど良いだろう。

 コートの襟を立てて風に向かうように歩みを進める。
 信号の点滅が雪を赤く染め上げ、溶け始めの歩道に再び新雪が居座ろうとしていた。
 悲しげなジムの足跡すらも消し去って行く。
 そこに存在した何かは瞬間に生きた者だけの特権なのだろうか。


 ジムが自宅に着いたのは日が変わろうとする真夜中。
 螺旋階段を踏みしめるとうっすらと積もった雪に革靴が囚われそうになる。
 その不安定さは絶望へ引きずり込もうとする意志が宿っている。
 もがけばまとわりつき、そして這い上がる力を奪うような感覚。
 ジムは一歩一歩革靴をのめり込ませて確かめるように昇った。

 玄関に着くとステンレスのドアノブはすっかり冷気を帯び一瞬で指を凍らせた。
 構わずに捻って部屋に入っても団欒の暖かさなどは存在しない。
 窓枠のしなりとテーブルに置いた鍵の音だけが響いている。
 ジムの目にうっすらと滴が浮かんできた。
 人恋しい。
 去りゆくときのエディナの切ない横顔がふと過ぎる。
 失って初めて彼女への想いの強さを感じる。
 ジムは自分の体を抱きしめて、上着のままソファに転がり込んだ。

*****

 募るのは距離のせい。
 それも心の距離のせい。
 雪に埋もれゆく雑踏の中で老人は呟く。
 昇華すべき愛は打ちのめされ続けるものだ、と。

(第49話につづく)

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