第87話 過去が紡ぐ痣の意味
文字数 3,956文字
一週間ほど過ぎ、陽光が街を照らす。
そんな午後、エディナは退屈な時間を過ごしていた。
日に日に火傷痕は固まり、抗生剤の点滴も頻度が少なくなる。
その頃になると時間の束縛の方が苦痛になってきた。
左足は骨折しているが痛みはまし。
でも顔じゅう包帯の姿で歩き回ろうとは思えない。
病室管理に固執する病状からは回復していて鈍る体に心が悲鳴を上げていく。
「どうするの?」母がおもむろに訊いた。
「なにが?」
「ジムさんに連絡を入れないの?」
「会えないよ。こんなままじゃ」
「会えなくても、話すだけでもいいんじゃない?」
「でも……」
エディナはジムからもらったメモを握りしめてその筆跡を撫でる。
彼の暖かみを感じられる気がした。
母はそんな彼女を見て、気持ちの強さを感じる。
こんなにも物思いに耽るエディナは初めだ。
これまでに幾度となく男性を連れ歩いたことを知ってはいるが、こんなにも切なく本気の恋心を感じたことはない。
それゆえの迷いなのだろう。
ふたりを無理矢理会わせるのは逆効果になるかも知れない。
「話すだけ……」
エディナは繰り返すように電話番号を見つめて呟く。
手書きの数字がとても愛おしい。
そっと指で撫でて、思い立ったようにスマホを取り出して登録をする。
そして、手帳タイプのカバーの隙間にメモをそっとしまった。
頬に風がふれて、エディナはふと窓を眺めた。
そよ風が部屋を駆け抜けて、少しばかりの花の匂いをつれてきた。
久方の陽光が新芽に勘違いをさせたのだろうか。
「春が近いのね」不意にエディナが呟く。
母が外を見て「そう? まだ寒そうだけど」と言う。
「花の香りがするわ。窓からの風に漂っている」
「そう……」
母はエディナが時折自分にはわからない感覚の話をすることに驚いていた。
それも何の予兆もなく突然始めるので戸惑う。
「そう言えば昨日はやけに焦げ臭いにおいがしていたわ……。どこかで何かがあったのかしら……」
「昨日? ああ、どこかで事故があったみたいで下に誰か運ばれていたみたいよ。警察の人もたくさん来ていたし……」
「そうなの……。事故、イヤね……」
エディナはスマホでウェブ検索をした。
ニュースサイトに記事がないだろうか。
昨日まではそんな元気はなかったが今日のエディナはやはりどこか違う。
母は彼女の行動が少しずつ活動的になっているように感じていた。
「あったわ、ほら」エディナはスマホに記事を表示させて母に見せた。
「片目だとよく読めないから、最初のところだけでも読んでみて」
「ええ? ああ、わかったわ」
母はエディナからスマホを受け取ると事故の記事を読んでいく。
隣町の幹線道路でトレーラー3台による玉突き事故が発生しガソリンに引火して炎上したと書かれていた。
「誰も死んでいないのね」
その言葉にハッとして、母は記事の全文を読み込む。
すると、事故の整理に来ていた二名の警察官が殉職と書いてあった。
母の心に急に嫌な予感が走る。
まさかと思いながら読んでいくと知らない名前の警察官二名の写真が載っていた。
「よかった……」
母のその呟きに「えっ?どうしたの?」とエディナが訊いた。
上体を起こして、母からスマホを奪い取ろうと手を伸ばした。
「いえ……、警察官が事故の整理中に殉職って書いてあったから……」
「えっ? 誰なの! まさか……!」
「大丈夫よ、エディナ。ジムさんじゃないから……」エディナの狼狽に母も驚く。
あんまり刺激したくはなかったがこればかりは仕方ない。
エディナはスマホを奪い返すように手に取ると、記事を拡大させてそのふたりの写真を眺めた。
片目だけでぼやけていたが何となく姿が分かってきた。
見えていたのはレイの方だった。
「レイ・ヒューストン? 知らない名前だけど見たことがある」
「そうなの? 警察に友達っていた?」
「いや、そうじゃなくて。なぜだろう……」
エディナはレイに見覚えがあった。
それは遠い記憶の中で鮮明なものではなかった。
ジムを夢で見たときと同じ感覚だ。
たぶん、巡回をしているお巡りさんなんだろう。
エディナはそのままその隣の写真を凝視する。
「この人……」
エディナの脳裏に過去がフラッシュバックする。
顔が硬直して、顔色が失われていくのが分かった。
「どうしたの? エディナ」
「この人……、どこかで……」
エディナは拙い記憶を辿っていく。
どこで見たんだろうか。
同じように巡回のおまわりさん?
いや、違う。
制服を来ていた記憶じゃない。
確かスーツを着ていて、そう黒いスーツにネクタイ……。
かなり昔のことだわ。
エディナの記憶がどんどんと過去に戻って具体的な細部が浮かんでくる。
そして、ふとレイラの顔を思い出した。
エディナの顔を抉って立ち尽くす呆然自失で生気のない立ち姿だ。
「なんでレイラを思い出すのよ!」エディナが混乱している。
母は咄嗟に抱きしめて体の震えを止めに入った。
「エディナ! しっかりして! レイラのことは忘れなさい!」
その母の「レイラ」という言葉がさらに鋭利な刃物のように記憶に突き刺さった。
確執の記憶がどんどんとフィードバックしていく。
出会いから事件まで。
そして、モノクロームの映像が展開された。
そこには大人が何人かいた。
どこだろう?
ああ、学校の事務室かどこかだ。
そんな大人たちの傍らにレイラがいる。
そして彼女の手を握って私を直視している男の子がいた。
記憶が確かならばお兄さんだったはずだ。
若き頃のトムと記事の写真がオーバーラップする。
まっすぐに前を見据えた精悍な顔立ちとその奥に秘めた優しそうな瞳を思い出した。
エディナはおそるおそるトムの写真の下に書いてある名前を見る。
そこには「トム・マクヴィス」と書かれてあった。
「マクヴィス……。レイラ・マクヴィス……。やっぱりあの子のお兄さんなんだわ……。この人……」
エディナの呟きに母が愕然とする。
あの時のレイラの隣にいた男の子?
母の記憶が混乱してくる。
あの日、事件の壮絶さに取り乱しレイラの両親を罵倒し続けた過去を思い出した。
そして、崩れるように思い出したくもない過去を引きずり出されたことに涙した。
「どうして過去は私たちをまだ苦しめるの」母の呟きがエディナに響く。
母が混乱していくと何故かエディナが逆に冷静になっていった。
「もうレイラのことはいいのよ。お母さんが思っているほど私は子どもじゃないから」
エディナはそっと肩を寄せた。
母にとってのレイラは自分の子どもの顔に刃を刺し付けた許せない過去だった。
その事件の一因がエディナの行動があるにせよ、それは越えてはいけない一線だった。
塞ぐようにその過去を封印していたのに。
そして、事件後のことも思い出す。
ふたりにとって辛い日々だった。
レイラに受けた傷は有名な形成外科医の手によってほぼ分からなくなるくらいまでは治っていた。
それでもやはり完全に消えることはなかった。
エディナはマスクを着用してひたすらにその顔を隠した。
レイラは事件後に退学処分となり、空席がひとつ異彩を放っていた。
だが誰もが何事もなかったかのように過ごす。
エディナはクラスメイトのその変わり身に違和感を感じたが、誰もが思い出したくない事件だったのだろう。
そして次第に時間が過ぎていくと、周りの目はエディナに同情的だと気づく。
それでも傷を見せることは躊躇った。
無事に卒業を終えたとき、エディナは生涯唯一の頼みを父にした。
それを聞いたとき、父は断ることなく真剣な眼差しで受け止めてくれた。
母はその願いを聞いたとき、それがエディナの心の枷を解いてくれるならと思って反対しなかった。
その願いは顔の整形手術だった。
と言っても造形を変えるとかではない。
容姿に不満のないエディナだったが、ひとつの傷の為に将来は危ぶまれるかも知れない。
社会に出るその前に出来ることはしておきたかった。
父の知り合いの紹介で優秀な医師の元を訪れる。
そして手術を受けた。
それによって、エディナは過去との決別を果たした。
母は悩んだ末に決断したエディナの、あの日の眼差しを忘れてはいない。
真摯に前を向いて、こんなにこの子は強かったんだと思った。
そして、自分の方が過去に囚われ続けていたことを思い出した。
「そう……、あのときに……」
母は思い出そうとするが、感情的だった自分とレイラの顔しか記憶になかった。
憎み蔑んだ目でレイラを睨み、その隣に誰かがいたことなど気にも止めていなかった。
「どこまで行っても過去に囚われるのね……」エディナは寂しそうに言う。
母はその言葉を打ち消せる言葉を見つけられない。
「そんなことはない」とも軽々しくも言えなかった。
エディナはふと包帯越しに頬をさわった。
まだ少し痛みがある。
繕った皮膚が再び炎に焼かれた。
それに意味はあるのだろうか。
エディナの心にそんな疑問が過ぎった。
*****
生きた証は顔に刻まれる。
良きことも悪しきこともすべて。
病院の中庭で新芽を愛でながら老人は呟く。
潜在意識は偽りの自分を許してはくれないのだろうか、と。
(第88話につづく)
そんな午後、エディナは退屈な時間を過ごしていた。
日に日に火傷痕は固まり、抗生剤の点滴も頻度が少なくなる。
その頃になると時間の束縛の方が苦痛になってきた。
左足は骨折しているが痛みはまし。
でも顔じゅう包帯の姿で歩き回ろうとは思えない。
病室管理に固執する病状からは回復していて鈍る体に心が悲鳴を上げていく。
「どうするの?」母がおもむろに訊いた。
「なにが?」
「ジムさんに連絡を入れないの?」
「会えないよ。こんなままじゃ」
「会えなくても、話すだけでもいいんじゃない?」
「でも……」
エディナはジムからもらったメモを握りしめてその筆跡を撫でる。
彼の暖かみを感じられる気がした。
母はそんな彼女を見て、気持ちの強さを感じる。
こんなにも物思いに耽るエディナは初めだ。
これまでに幾度となく男性を連れ歩いたことを知ってはいるが、こんなにも切なく本気の恋心を感じたことはない。
それゆえの迷いなのだろう。
ふたりを無理矢理会わせるのは逆効果になるかも知れない。
「話すだけ……」
エディナは繰り返すように電話番号を見つめて呟く。
手書きの数字がとても愛おしい。
そっと指で撫でて、思い立ったようにスマホを取り出して登録をする。
そして、手帳タイプのカバーの隙間にメモをそっとしまった。
頬に風がふれて、エディナはふと窓を眺めた。
そよ風が部屋を駆け抜けて、少しばかりの花の匂いをつれてきた。
久方の陽光が新芽に勘違いをさせたのだろうか。
「春が近いのね」不意にエディナが呟く。
母が外を見て「そう? まだ寒そうだけど」と言う。
「花の香りがするわ。窓からの風に漂っている」
「そう……」
母はエディナが時折自分にはわからない感覚の話をすることに驚いていた。
それも何の予兆もなく突然始めるので戸惑う。
「そう言えば昨日はやけに焦げ臭いにおいがしていたわ……。どこかで何かがあったのかしら……」
「昨日? ああ、どこかで事故があったみたいで下に誰か運ばれていたみたいよ。警察の人もたくさん来ていたし……」
「そうなの……。事故、イヤね……」
エディナはスマホでウェブ検索をした。
ニュースサイトに記事がないだろうか。
昨日まではそんな元気はなかったが今日のエディナはやはりどこか違う。
母は彼女の行動が少しずつ活動的になっているように感じていた。
「あったわ、ほら」エディナはスマホに記事を表示させて母に見せた。
「片目だとよく読めないから、最初のところだけでも読んでみて」
「ええ? ああ、わかったわ」
母はエディナからスマホを受け取ると事故の記事を読んでいく。
隣町の幹線道路でトレーラー3台による玉突き事故が発生しガソリンに引火して炎上したと書かれていた。
「誰も死んでいないのね」
その言葉にハッとして、母は記事の全文を読み込む。
すると、事故の整理に来ていた二名の警察官が殉職と書いてあった。
母の心に急に嫌な予感が走る。
まさかと思いながら読んでいくと知らない名前の警察官二名の写真が載っていた。
「よかった……」
母のその呟きに「えっ?どうしたの?」とエディナが訊いた。
上体を起こして、母からスマホを奪い取ろうと手を伸ばした。
「いえ……、警察官が事故の整理中に殉職って書いてあったから……」
「えっ? 誰なの! まさか……!」
「大丈夫よ、エディナ。ジムさんじゃないから……」エディナの狼狽に母も驚く。
あんまり刺激したくはなかったがこればかりは仕方ない。
エディナはスマホを奪い返すように手に取ると、記事を拡大させてそのふたりの写真を眺めた。
片目だけでぼやけていたが何となく姿が分かってきた。
見えていたのはレイの方だった。
「レイ・ヒューストン? 知らない名前だけど見たことがある」
「そうなの? 警察に友達っていた?」
「いや、そうじゃなくて。なぜだろう……」
エディナはレイに見覚えがあった。
それは遠い記憶の中で鮮明なものではなかった。
ジムを夢で見たときと同じ感覚だ。
たぶん、巡回をしているお巡りさんなんだろう。
エディナはそのままその隣の写真を凝視する。
「この人……」
エディナの脳裏に過去がフラッシュバックする。
顔が硬直して、顔色が失われていくのが分かった。
「どうしたの? エディナ」
「この人……、どこかで……」
エディナは拙い記憶を辿っていく。
どこで見たんだろうか。
同じように巡回のおまわりさん?
いや、違う。
制服を来ていた記憶じゃない。
確かスーツを着ていて、そう黒いスーツにネクタイ……。
かなり昔のことだわ。
エディナの記憶がどんどんと過去に戻って具体的な細部が浮かんでくる。
そして、ふとレイラの顔を思い出した。
エディナの顔を抉って立ち尽くす呆然自失で生気のない立ち姿だ。
「なんでレイラを思い出すのよ!」エディナが混乱している。
母は咄嗟に抱きしめて体の震えを止めに入った。
「エディナ! しっかりして! レイラのことは忘れなさい!」
その母の「レイラ」という言葉がさらに鋭利な刃物のように記憶に突き刺さった。
確執の記憶がどんどんとフィードバックしていく。
出会いから事件まで。
そして、モノクロームの映像が展開された。
そこには大人が何人かいた。
どこだろう?
ああ、学校の事務室かどこかだ。
そんな大人たちの傍らにレイラがいる。
そして彼女の手を握って私を直視している男の子がいた。
記憶が確かならばお兄さんだったはずだ。
若き頃のトムと記事の写真がオーバーラップする。
まっすぐに前を見据えた精悍な顔立ちとその奥に秘めた優しそうな瞳を思い出した。
エディナはおそるおそるトムの写真の下に書いてある名前を見る。
そこには「トム・マクヴィス」と書かれてあった。
「マクヴィス……。レイラ・マクヴィス……。やっぱりあの子のお兄さんなんだわ……。この人……」
エディナの呟きに母が愕然とする。
あの時のレイラの隣にいた男の子?
母の記憶が混乱してくる。
あの日、事件の壮絶さに取り乱しレイラの両親を罵倒し続けた過去を思い出した。
そして、崩れるように思い出したくもない過去を引きずり出されたことに涙した。
「どうして過去は私たちをまだ苦しめるの」母の呟きがエディナに響く。
母が混乱していくと何故かエディナが逆に冷静になっていった。
「もうレイラのことはいいのよ。お母さんが思っているほど私は子どもじゃないから」
エディナはそっと肩を寄せた。
母にとってのレイラは自分の子どもの顔に刃を刺し付けた許せない過去だった。
その事件の一因がエディナの行動があるにせよ、それは越えてはいけない一線だった。
塞ぐようにその過去を封印していたのに。
そして、事件後のことも思い出す。
ふたりにとって辛い日々だった。
レイラに受けた傷は有名な形成外科医の手によってほぼ分からなくなるくらいまでは治っていた。
それでもやはり完全に消えることはなかった。
エディナはマスクを着用してひたすらにその顔を隠した。
レイラは事件後に退学処分となり、空席がひとつ異彩を放っていた。
だが誰もが何事もなかったかのように過ごす。
エディナはクラスメイトのその変わり身に違和感を感じたが、誰もが思い出したくない事件だったのだろう。
そして次第に時間が過ぎていくと、周りの目はエディナに同情的だと気づく。
それでも傷を見せることは躊躇った。
無事に卒業を終えたとき、エディナは生涯唯一の頼みを父にした。
それを聞いたとき、父は断ることなく真剣な眼差しで受け止めてくれた。
母はその願いを聞いたとき、それがエディナの心の枷を解いてくれるならと思って反対しなかった。
その願いは顔の整形手術だった。
と言っても造形を変えるとかではない。
容姿に不満のないエディナだったが、ひとつの傷の為に将来は危ぶまれるかも知れない。
社会に出るその前に出来ることはしておきたかった。
父の知り合いの紹介で優秀な医師の元を訪れる。
そして手術を受けた。
それによって、エディナは過去との決別を果たした。
母は悩んだ末に決断したエディナの、あの日の眼差しを忘れてはいない。
真摯に前を向いて、こんなにこの子は強かったんだと思った。
そして、自分の方が過去に囚われ続けていたことを思い出した。
「そう……、あのときに……」
母は思い出そうとするが、感情的だった自分とレイラの顔しか記憶になかった。
憎み蔑んだ目でレイラを睨み、その隣に誰かがいたことなど気にも止めていなかった。
「どこまで行っても過去に囚われるのね……」エディナは寂しそうに言う。
母はその言葉を打ち消せる言葉を見つけられない。
「そんなことはない」とも軽々しくも言えなかった。
エディナはふと包帯越しに頬をさわった。
まだ少し痛みがある。
繕った皮膚が再び炎に焼かれた。
それに意味はあるのだろうか。
エディナの心にそんな疑問が過ぎった。
*****
生きた証は顔に刻まれる。
良きことも悪しきこともすべて。
病院の中庭で新芽を愛でながら老人は呟く。
潜在意識は偽りの自分を許してはくれないのだろうか、と。
(第88話につづく)