第84話 青春を駆け抜けた刃

文字数 3,347文字

 目覚めた翌日の午後、エディナは窓から空を眺めていた。
 随分と季節が進み、灰色だった空に青が戻ってきている。
 眼下の中庭では談笑とさえずりが羨ましい。

 エディナの傍に母。
「家にいてもすることがないから」と本音を隠してエディナに寄り添う。
 普段からこんなに長い時間一緒にいることもない。
 話が一通り尽きると、母はラウンジから雑誌を漁ってきてそれに夢中になっていた。
 
 そんな折、ふたりの元に看護師が訪れた。
 ジムからの手土産。
 母はそれを受け取ると、「あら、エディナ。ジムさんって方からよ」と声を掛けた。

「ジム?!」

 エディナは急に振り返るが激痛が走ってベッドによろけるように伏せた。

「ここまで来てくれたのね」

「そうみたいね。直筆のメモが入ってるわ」

「ちょうだい!」

 エディナはそれを奪って彼のメッセージを読んだ。

「よかったの? 面会謝絶なんて……」

「仕方ないじゃない。こんな姿で……」エディナは包帯にくるまれた頬を撫でる。

「でも、それは……」

「ジムには見せられない。こんな火傷で……」

 エディナは臥すように縮こまる。
 そして嗚咽混じりの声を絞った。

「この傷が治らないと会えない。ジムに嫌われてしまう……」

「そんなことは……」

「お母さんに何がわかるって言うのよ!」


 その日の午前、エディナは消毒時に火傷の痕を見せてもらった。
「本当にいいのかい?」と戸惑う医師の言葉をよそに無言で頷く。
 感覚的にどんな傷なのか想像できたがはっきりと自分の目で確認したかった。

 鏡に映った自分の顔は心を揺らす。
 左半分が爛れ、皮膚が焦げて溶けている。
 睫毛は抜け、眉もほとんどわからないほど。
 前髪の根本あたりにも火傷は広がっていた。

「治るの?」エディナはおそるおそる医師に訊いた。
 医師はごまかすこともなく正直に、「痕は残ります。どこまで回復するかはなんとも言えません」と答えた。

「そう……」エディナは希望的観測に満ちた答えではないことは想定していた。
 この傷を見て、きれいに治ると思う者はいないだろう。

「さわれないかしら……」

「今はまだ」

「わかったわ。やめておく……」

 エディナは震える指を押さえて胸元に当てた。
 鼓動が速くなってくるのがわかる。
 そして、過去の衝撃を思い返した。


 ハイスクール時代のこと。
 今から10年近く前のトラウマ。
 当時のエディナ家は成長途上の会社が軌道に乗りかけていた頃だった。
 裕福さの前兆があり、生活の困窮から脱した頃だった。
 エディナは私学への進学を許されて上級のハイスクールに通うことになる。

 ハイクラスの高貴な身分が群れる中で居心地は悪かった。
 クラスメイトの富豪の娘などとは裕福の度合いが違う。
 生まれながらの裕福、捻じ曲がった性格にエディナはことあるごとに反発していた。

 その中でも特に仲が悪かったのはレイラという女の子だった。
 彼女の家柄は財閥の系譜、証券会社を纏める古豪の金融コンツェルンだった。
 前世紀からの遺産を引き継いだ財閥は代を重ねても衰えを知らない。
 数々の金融ショックを跨ぎ、影響力が失われつつあると言っても未だに健在の旧家だった。

 プライドの高いレイラにとって新鋭の急成長だったエディナは目の敵だった。
 中途半端な裕福さを嘲笑し、取り巻きを従えるスクールライフを謳歌していた。

 エディナは彼女と関わるつもりはなかった。
 鼻持ちならない性格の女という認識はあれどもクラスで孤立することに抵抗はない。
 だがある日、事件が起こった。

 それは夏の日のことだった。
 サマーシーズンの最中、低所得者向けの金融商品の焦げ付きを発端として金融危機が世界を襲った。
 社会を知らないレイラは普段通りに振る舞っていた。
 だがその危機を発端にして家庭も会社も歯車が狂っていく。
 そんなレイラの没落を余所にエディナの会社は急成長のきっかけを掴んだ。
 まだ上場前だったESCはほとんど影響を受けずに大手の同業が散りゆく中、事業を拡大していった。

 間のなくレイラの環境は一変した。
 手のひらを返すかのように取り巻きは離散する。
 プライドが傷ついたレイラは事あるごとにエディナと衝突した。
 エディナにとってはレイラの没落は他人事で、嫉妬に満ちた彼女の攻撃にうんざりしていた。

 その後、エディナはみるみると裕福になっていき視線や評価が変わっていく。
 正確にはヴァンガード家やESCが評価を上げていくのだが、それを彼女の事のように周囲が過大評価していく。
 その環境に慣れた頃、エディナの箍がどこかで外れた。

 エディナはこれまで無視し続けてきたレイラに反撃を開始した。
 増長した魂が行動を鼓舞し、彼女の何かを弾けさせた。
 それに便乗するかのように自然と派生する集団的な無意識にエディナは快感を覚えた。
 私を止めるものはいない。
 私がすべて。
 眠る血はさらなる悲劇を生んだ。

 ある夏の午後、レイラの父親の会社が民事再生法を適用された。
 そのニュースはビジネス街を直撃する。
 そして噂が噂を呼んだ。
 レイラの父親が自殺したと。

 噂が広まり、逃げ場のない視線に晒される。
 レイラの中で何かが弾けた。
 こうなったのはエディナのせいだと思いこむ。
 その衝動に正義などない。
 ただ、鬱積した感情のはけ口を近くに求めただけの行為だった。

 レイラの翳した刃がエディナの頬を抉る。
 隠し持っていたナイフを両手に掴んで、不意打ちの一撃はエディナの左頬を掠めていった。
 痛みよりも先に紅が弾けた。
 笑顔の談笑が一瞬にして凍り付いた。

 レイラはその後、駆けつけた教師に取り押さえられた。
 抵抗することもなく凶器を地面に零した。

 教室に流れ込む回転灯。
 覚醒する意識の中で不意に起きた現実を受け入れられない。
 呆然とただ、頬を貫く痛みに耐えていた。


 医師は火傷痕を確認し、薬を塗ると再び包帯でエディナの顔を覆った。
 乾いた肌に脈打つような痛みが時折走っていく。
 溶けた皮膚が固まりつつあるのだろうか。
 地脈に似た歪みが頬を走っている。

「定期的に痛み止めを処方するね」

 足の怪我は順調に回復しているが歩けるようになるにはもう少し時間が掛かるとのことだった。
 エディナは退屈な日々がどこまで続くのだろうかと物思いに耽る。
 そして考える時間が増えるごとにジムへの想いが募っていく。
 悪い想像が先走って、とても楽観的な夢や未来など描けやしない。
 日々火傷の治療が進み、それが痣に変わっていく現実はとても受け入れがたいものだった。


 エディナは病室の窓からこぼれる風を眺めていた。
 カーテンが揺れて、静かに透明な影を弄んでいる。
 ジムの手紙をきっかけに意識は過去に飛んで、一瞬でエディナの脳裏を駆けめぐった。
 忘れられる訳もない。
 今、こうして同じ場所に火傷を負ったことに何かしら繋がりを感じていた。

 エディナがふと空を眺めるといつの間にか日差しは暖かさを取り戻しているように思えた。
 季節は移ろい、祝福の春が出迎えてくれるはずだったのに。
 そんな思いが過ぎる。
 今後自分はどうすればいいのだろう。
 
 せっかく自分に会いに来てくれたのに会う勇気がない。
 自分の今のこの姿を見てもそれでも愛は変わらない?
 ふたりはまだ愛の入り口に立ってさえもいないのに。

 あの日、ミュージアムホールで引き剥がされた絆はまだお互いを引きつけようと必死に手を伸ばそうとしている。
 でも自分の気持ちがそうだとして、彼の心が自分から離れていないという自信などどこにもない。
 夢の中で交わした愛はまだ現実では成就してはいないからだ。

*****

 鏡に写ったあなたは誰?
 同じ事をあなたも思う?
 悲しげな儚さを眺めながら老人は呟く。
 現実を構成するのは原因と結果の重なりに過ぎない、と。

(第85話につづく)
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