第16話 あなたの音を探している

文字数 1,350文字

 白の世界の呪縛から徐々に解放されたエディナはベッドに横たわっていた。
 額をさわっても痛みも銃痕もない。
 それでも音はまやかしではなかった。
 どこかで本物の銃弾が放たれたのだろう。

 終末の記憶に支配された体が音に反応しただけだ。
 そう言い聞かせるようにゆっくりと体を起こした。

 乾いた音はかなり近くの出来事。
 銃声の認識、その音に向かってサイレンが近づいているようにも思える。

 自意識の回復に現実的なサイレンの音響効果。
 ドップラーの嘆きが街のあちこちで衝突を繰り返している。

 エディナは部屋の窓を開けて外界を一望する。
 同区画のビルの壁に赤い回転灯のゆらめきが見えた。
 距離は百メートルほどだろうか。

 エディナは肌寒さを感じてカーディガンを羽織った。
 眼下の風景はすっかり冬を感じさせる木枯らし色。
 落葉が空気の乾きに弄ばれている。
 空を見上げると薄暗い雲が太陽の光を遮っていた。
 薄い光が放射線状に伸びていてわずかな光が高層の窓を照らしている。
 か弱い陰影は時間感覚を奪い、公園のラッパ吹きに哀愁を贈っている。
 ゆらめく赤の回転灯だけがモノクロームの世界でただ異質だった。

「出かけてみようかしら」

 好奇心が怠惰をくすぐる。
 だがやはり身の危険を否定できない。
 犯人がまだどこかに潜伏しているかも知れない。
 銃声とサイレン、まだわずか数十分しか経っていない。
 まさかジムもあそこにいるんだろうか。

 会いたい。
 純朴な衝動が湧いては現実的な恐怖心とぶつかり合う。
 夢の中の出会いなのにね。
 砂時計は落ちる砂を探し続け、わずかな振動を待望していた。

 エディナは鏡台の前に座り自分の顔を眺めた。
 緩んだ口元のルージュが褪せている。
 乱れ髪が時折暖房とファンの風に揺れて頬を擽っている。
 回転灯の揺らめきが鏡に侵食して不快だ。
 立ち上がって薄いカーテンを閉めるとベッド脇のランプだけがゆらゆらと室内を照らしていた。

 エディナは古めかしい厚めの本をベッド脇のブックスタンドから取り出す。
 古典の純愛小説。
 数世紀も前に書かれた絶版は教養の果てにたどり着いた精神的なオアシスだ。
 付箋を紐解いてページをめくる。
 紙の香りが風に流れてインクの匂いが五感を刺激していく。

 純愛は彼女が追い求める理想だった。
 明かりに映える言葉の羅列にそっと身を寄せる。
 そして男の言葉を指で撫でた。
 その指先が文字にふれるたびに口元に妖艶な笑みが浮かんでくる。
 現実を忘れさせる夢。
 いつしか男の台詞がジムの声で再生されていく。
 無意識のうちに彼女の脳はジムの音を覚えていた。

 いつの間にか回転灯が消えていた。
 エディナはその変化に気づかずに耽ったまま。
 やがて灰色の空も表情を変えていく。
 もてあそばれた落ち葉は見る影もなく細かく千切れ、帰るところを探して転がり続けていた。

*****

 心を撫でる旋律は甘く、優美に肌を撫でる羽毛のごとく。
 心を包む幻影は裏切りを知らぬまやかしのごとく。
 路地裏の静寂の中、血痕を眺めて老人は呟く。
 僅かな赤き滴には意志を感じる、と。

(第17話につづく)
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