第42話 あなたを覚えている

文字数 1,701文字

 気づけば人はまばら、ふたりだけが通路に取り残されている。
 せわしないスタッフの群は静寂に消え、エントランスの興奮も収束していく。
 ふたりだけの世界。
 気配を消した傍観だけがふたりを捉えていた。

 ふたりを凝視する眼光は期待を胸に抱えてはいない。
 鋭利な刃物は観劇を愉しむ余裕とは無縁だった。

「私ね……、私」言葉に詰まる、か細いエディナの声。

 ジムは次の言葉を詮索する。
 都合のよい妄想と出来過ぎたシナリオ。
 違和感が現実に取って代わる瞬間が訪れるのだろうか。

 エディナが次の言葉を発しようとジムを見上げたとき、不意に無情の声がふたりを包んだ。

「お客様……」エディナは言葉を飲み込んで声の方を睨みつける。

「申し訳ございません。当館はもうすぐ……」

「わかっているわ! そんなこと!」エディナはスタッフの言葉を遮って声を荒立てた。
 ジムは驚きのあまりに浅い息を飲み込む。
 エディナはすっと立ち上がり、深い絨毯を気にもせずにエントランスへと歩いていった。
 不安定なヒール、エディナはよろけるように左右に揺れていく。
 ジムは追いかけて彼女の腕を掴んだ。

「危ないよ」

 腕から伝わる優しさ、まぶたに涙が滲んでくる。
 荒ぶった感情の裏返しだろうか。
 冷酷な宣告と慈悲に満ちた優しさ。
 感情の波動が彼女の心を弄んでいく。     
 エディナはジムの腕にすがるつき体を預けた。

 私服の緊張が張り詰めていく。
 視線がふたりを追尾し、柱の影の談笑が上擦ってくる。
 インカムの光が激しくなり、私服はそれを隠そうと意識を散らす。
 すると化粧室から大勢の女性がエントランスにたむろしてきた。
 メインフロアの残存だろうか。
 方々に奇声を張り上げて我が道をゆく。
 それらはふたりの存在を無視して渦に巻き込んでしまった。

 絡まる腕を押し除ける巨漢。
 ともに離れまいと必死にしがみつく。
 人混みがなし崩しに乱れたあと、ふたりは押し出されるようにエントランスの脇に流されていた。
 着衣が乱れ、整えたはずの髪がエディナの頬に絡みつく。
 ふたりはなだれ込むようにソファに座りこんだ。
 そして互いに見つめあい、乱れた服と髪型を笑いあった。

「きみがエディナなんだね」ジムは高まった鼓動のまま、勢いで言葉を投げかける。

 真摯に、そしてまっすぐにエディナを見つめた。
 エディナは無言で頷く。
 そして、大粒の涙を浮かべた。
 彼女が怖がっていたもの、不器用で鈍いジムにも何となく伝わってくる。

「私、嘘の登録をしたのよ……。だから……」震える声でエディナは呟いた。

「もういいよ。もう、いい……」ジムはグッとエディナを抱きしめる。

 その腕の温もりに堪えていた涙が頬を伝った。
 そして、まさぐるようにジムの抱擁に甘えた。

 ジムはヴァンガードという名前を覚えていた。
 どこかで聞いた名前。
 それにエディナの言葉使いや香水の香りにも覚えがあった。
 違和感は最初は小さいものだったがひとつひとつが重なるごとに深みは増していく。
 その深みは違和感となって、やがて確信へと変わった。
 少しずつ重なっていくふたりの女性の仕草。
 容姿の違いはいつの間にか脳内で融合されていた。

 運命を受け入れたふたり。
 エスコートのまま眼光の海を渡っていく。 
 ジャスティンはその光景を目の当たりにして声を失った。
 奇妙な組み合わせに募る猜疑心。
 そして何ひとつ掴めなかった自分の不甲斐なさを呪う。

 コトリーもまた観劇を傍観するだけの自分に舌打ちをする。
 ジャスティンの放心を眺めながら、闇にのめり込んだ下腿の浸食に喘いでいた。
 不確かな未来。
 混沌は坩堝の中に思考を追いやっていく。
 茫然とただ、ふたりの背中を見つめるしかなかった。

*****

 ひとつの事象には起点がある。
 感情か計算か、はたまた神の仕業だろうか。
 海のゆらぎを眺めて老人は呟く。
 航海はこれから。行く先は風に聞くがよい、と。

(第43話につづく)
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