第98話 声を届けて

文字数 2,467文字

「はあい」

 アンナが甘く高い声でチャイムに答える。
 そして、インターホンのボタンを押して「どちらさま」と訊いた。

「ジム……、ジム・ゴードンと申します」

 ジムにはインターホンの声が誰かわからなかった。
 おそらくは母親だろう。
 それにしても声が若いような。
 雑念が紛れながら、答えを待つ時間を埋めていく。

「ちょっと待ってね」

 ノイズ混じりの声のあと、プツリと回線は切れた。


「どうする?」エディナはいきなりのことに口を大きく開けたままフリーズしていた。

「そ……、そんな、会えないわよ」絞り出す回答。

「あら、いくじなし。せっかく来てくれたのに」アンナは焚きつけるように言った。

「でも、こんな姿じゃ……」

「すっぴんはダメ?」

「そう言うことじゃなくて……」

 アンナはもどかしくなる。

「じゃあ私が代わりに出てくるね。このインターホンの前で待ってて」

 アンナはそう言うと、さっさと玄関口に走る。
 そして、ドアを開けて門のところまで走っていった。

 ジムは見覚えのある女性だなと思った。
 近づいてようやく顔をはっきりと認識できると、あのミュージアムホールで会った女性だとわかった。
 ジムは混乱する。
 なぜ彼女がここに?
 まさか。
 ジムの狼狽を余所に、門にたどり着いたアンナは息を整えてからジムを見上げた。

「おひさしぶりね、ジムさん。覚えてる?」

「あっ……、ええ、その……」

「私はアンナ。言っとくけど、エディナの母でも姉でもありませんからね」

 ジムの狼狽と妄想を察知したのかアンナは先手を打った。

「そうでしたか……」

 ジムは焦ってうまく話せない。
 いつものあがり症が顔を覗かせていた。
 かなりの近距離で、普段は見ないような部屋着のまま女性。
 アンナの格好はジムには刺激的すぎた。
 
「ジムさん、ごめんね」

 唐突に真剣な顔でアンナは言った。
 内容を察したのか、「そうですか。出直した方がいいでしょうか?」と訊く。

「そうね……。でもだいぶ落ち着いてきたから。それにあなたのことが嫌いで会いたいわけじゃないのよ。その……」

「火傷のせい?」

「ええ、あなたが気にしないと言っても、女ですもの。気にならない訳がない」

「そうですね」

 ふたりの間に沈黙が流れる。
 今日のところは引き下がった方が良さそうだ。
 
 ジムは残念そうな顔をして、「では出直します。エディナさんによろしく伝えてください。また来ます」と言った。
 そして持ってきたお茶菓子と春色をアンナに手渡した。

 アンナはジムがエディナの気持ちを優先してくれていることに気づく。
 折角ここまでたどり着いたのに……。
 口惜しくてたまらない。
 何とかして……。
 悪戯心とふたりを思う気持ちが交錯する。

「ジムさん!」

 アンナは突然思いついたように門の外に出てインターホンを押した。
 何をしようとしているのだろうか。
 しばらくしてスピーカーからノイズが響いてガサゴソと音がした。

「エディナさん! 声だけでも聞かせてあげて!」

 アンナはスピーカー越しに叫んだ。
 少しの沈黙のあと、「ジム、そこにいるの?」と声が返ってくる。
 エディナの声だ。
 ジムはスピーカーに縋るように「エディナ! 俺だ! ジムだ!」と叫んだ。

「うれしい……、ありがとう。でも……」

「エディナ! 無理はするな。俺はいつまでも待つ。君の傷が癒えて、心の整理がつくまで俺は待つから!」

「ジム……、ごめんね、ジム」

 掠れた声にノイズが混じって、その音はとても悲しく聞こえた。
 スピーカー越しにエディナが泣いているような気がした。
 アンナも同じように、エディナが苦しんでいるのを知って切なくなる。

「エディナ! ありがとう。ありがとう……」

 ジムはそう言ってその場に崩れるように泣いた。
 自分の為に分署まで来て、そして何の関係もないのに火災に巻き込まれて……。
 エディナの身を案じること以上に犯人が憎くて仕方ない。
 ジムは地面に何度か拳を打ち付ける。
 アンナは呆然として、そして我に返って「ジムさん、やめて……」と腕を掴んだ。

 アンナの声にジムはスピーカーを見上げる。
 そして、再び縋るように「エディナ……、エディナ……」と名前だけを連呼した。
 それに応えるようにスピーカーからも「ジム……、ジム……」とだけ声がする。
 アンナはふたりが心で会話をしているんだと感じていた。

 エディナは感極まってその場に泣き崩れた。
 インターホンのボタンから指が離れる。
 交信は途絶え、無情な音とともに声は消えた。
 ジムも同じようにうずくまるようにして涙を堪えていた。

「ジムさん、ありがとう。きっと、エディナもわかってくれるはず。もう少し彼女に時間をあげてください」

 ジムは無言で頷くと、ふらふらと立ち上がる。
 そしてクシャクシャになった顔でアンナに会釈をすると、そのまま来た道を帰って行った。

 アンナはその後姿をじっと見つめていた。
 寂しそうな背中。
 でも、エディナのことを愛している背中。
 羨ましいくらいに若い情熱。
 でも、彼はそんな想いを無理には押しつけない。
 きっと彼の心遣いはエディナに届いたはずだ。


 アンナはジムの背中が見えなくなってから涙を拭って家の中に戻った。
 そして、インターホンのところでうずくまって泣いているエディナをそっと抱きしめた。
 震える背中が愛おしい。
 こんなにも愛し合っているんだ。
 アンナはふたりの間にある絆を確信する。
 そして力の限りふたりの手助けをしようと誓った。

*****

 偶然と必然の間に因果関係は存在しない。
 そもそもそれらは同じものだからだ。
 木漏れ日にカップを翳し見て老人は呟く。
 運命は神ではなく、人が運ぶものだ、と。

(第99話へつづく)
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