第103話 約束

文字数 1,930文字

 ふたりの抱擁は夜を止めた。
 どこまでも続く灼けた空がふたりを包み込んでいる。
 水鳥はふたりを気にすることもなく、自由な羽ばたきで空を駆け巡っていく。
 こぼれ落ちた涙は乾き、お互いの温もりだけが肌を刺激していた。

 水面になじむ波紋。
 緩い流れに広がるそれは闇が近づく空へと消えていく。

「エディナ……、約束しておくれ」ジムは耳元で囁いた。

「なに?」
 エディナはジムの次の言葉を知りながら聞き返した。

「現実世界でも君に会いたい。そして、抱きしめたい」

「でも……」

「君がどんなに傷ついていても、俺は君を守るから」

「ほんとうに?」

「君は俺に会うために……、だから……」

「ううん、違うわ。この傷は私の過去が生み出したもの……。あなたのせいなんかじゃない」

「でも……、俺は悔しくて、悔しくて……」

「いいのよ、ジム。いいの……」

 再びふたりの瞼に涙がこみ上げてくる。
 ジムはエディナを強く抱きしめ、彼女も強くジムの腕を掴んだ。

「ジム、約束するわ」

「ありがとう、エディナ」

 その約束を聞きつけた水鳥がどこからともなく水面に帰ってきた。
 着水の波紋が大きく円を描いていく。
 番の水鳥は嘴を交差させて、まるで二羽がキスをしているようにも見えた。


 暖かい風が吹き抜ける。
 ふたりの体を温めるように。

 その暖かさにふたりの意識が少しずつ薄らいでいく。
 夢の中に誘われるような、そんな気持ちの良さがふたりを包んでいく。
 景色が溶けるように形を崩して、色が混じり合う。
 そして白い世界の中で抱擁するふたりだけが残った。


 翌朝、ジムはソファから崩れるように目を覚ましていた。
 変な体勢で眠っていたせいか体じゅうが痛い。
 何かに掴まれたような感覚が腕に残っていた。
 意識が少しずつはっきりとしていく中でエディナと会ったことを思い出す。
 気がつけばヘッドセットは首に巻き付いて離れ、モニターは省エネモードに沈黙していた。

 起き上がって体じゅうの筋肉をほぐすジム。
 関節が鳴って、筋肉に一斉に血液が流れ込んで立ちくらみがした。
 ふらついてソファにしがみつく。
 床に這い蹲るような不格好、だがジムの口元は緩んでいく。
 脳裏にエディナとの約束が過ぎったからだ。

 
 ふと外を見るとまだ闇が棲みついていた。
 早朝の五時、デジタル時計のアラームもまだ深い眠りの中にいる。
 仕事帰りにエディナの家に寄ろうか。
 早退ができれば嬉しいと思いながら、恋人に会う理由で許可が下りるはずもない。
 親が病気ということにするか?
 不純な創作が巡り、自意識との葛藤に苛まれる。
 それでも焦ることはない。
 彼女にも時間は必要だと言い聞かせて自暴を沈めた。


 その頃、エディナはベッドの上で静かに目を覚ましていた。
 天井を見据えていると、次第に視野がはっきりとしてくる。
 乾いた涙で目尻が固まっていて痛い。
 眠りながら泣いていたのかしらとネグリジェの裾で目元を拭くと、ぽろぽろと涙の欠片が剥がれ落ちた。
 妙に大きなものが剥がれたような感覚。
 裾を確かめると薄い瘡蓋のようなものが剥がれていた。
 エディナは急いで鏡台に座ると、おそるおそるガーゼを剥がした。

 術後以来、久しぶりに自分の顔を正視したエディナ。
 怖さで背けてきたものの正体と対峙する。

 よく見ると左頬の目尻から耳元にかけて変色している。
 そこから口元あたりまで広がっていた。
 赤く爛れたようなところと皮膚が固まって茶褐色になっている部分の外に、薄く透明な皮が乾燥してしがみついていた。
 これが今後どのような形で残るのだろう。
 改めて直視して、この姿を本当に愛してくれるのだろうか不安にもなる。
 でもジムは私を裏切らない。
 彼を信じるしかないと口元を結んだ。

 鏡に写り込んだ時計は午前六時を差していた。
 うっすらと空の明かりが部屋に漏れてくる。
 カーテンのレースが床に映ってゆらゆらと泳いでいた。

「今日はアンナさんが来る日ね」

 エディナは少し早いかなと思いながら、「今日、ジムが来るかも。私会うわ」とメールを送った。
 ほどなく「じゃあ、パーティーの準備をしなくちゃ」と返ってきた。
 随分と早起きね。
 少し軽くなった心は春色の空の下で踊り始めようとしていた。

*****

 心は居場所を求めている。
 永遠にいられる場所など存在しないのに。
 朝霞の陽光を眺めながら老人は呟く。
 心は澱みを嫌い、流れを好む。それを知れば、迷いはしない、と。

(第104話につづく)
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