第37話 あなたの熱に心がざわつく

文字数 1,605文字

 薄めのライトが高い天井でぼんやりと浮かんでいる。
 雑踏の点在はやがて意思を帯びて結びついていく。
 それぞれの男女の照れくさそうな笑顔。
 意気投合した人影はホールから徐々に消えていった。

 エディナはジムの腕を掴んだまま微動だにしない。
 ジムは仕方なく彼女の心が動き出すのを待った。

「ああ……ごめんなさい」エディナはそう言って手を離した。
 ジムはしわくちゃになった袖を正すことなく次の言葉を待つ。

「ちょっと疲れたみたいで……」エディナは何気ない言葉で成り行きをつくる。
 どこかで何かを言えるタイミングはないかしら。
 迷いが交錯して拠り所を闇雲に探す自分は無様に思えた。

「良い音楽でしたね。ホールでクラシックを堪能するのははじめてのことでした」

 ジムはその成り行きに身を任せ言葉を紡いだ。
 エディナを探したいが自分に縋った女性を置き去りにはできない。
 職業倫理を持ち出すまでもなく紳士たる人間でいたいと思った。

「そうね……。いつもより心に響いたわ」

「良く来られるのですか?」

「たまに、ですけど」エディナは会話のきっかけを掴めて安堵する。
 そして思い切って「今日はおひとりで来られたの?」と訊いた。

 私を探しにきているはずだ。
 エディナだけが信じる真実がここにあるはずだと思った。

「え? ああ……、ええ、まあ」ジムは答えに窮する。
 否定も肯定もできない微妙な立ち位置。
 真っ直ぐに自分を見つめるエディナの瞳に心音が吸い込まれていくように感じた。
 それと同時に少しの違和感がジムの心を襲ってくる。
 なぜだろう。

「私もひとりできたの」エディナは絞り出すように言葉を摘んだ。
 会話の糸口を慎重に探りながら不慣れでたどたどしい会話を続ける。

「そう……、でしたか」

 次第にまばらになっていくホールの人影が焦りを生んでいく。
 薄明かりに目が慣れてくるとふたりの距離がさらに縮まる感じがした。
 相手の顔がはっきりと見えて、視界の全てをお互いの顔が埋め尽くしていく。
 心臓の音が聞こえそうな距離だ、とジムは思った。

「時間が良ければ外で話しませんか?」エディナはきっかけを探りながら自分のペースを取り戻していく。
 ジムはどうしようかと悩みながらも少し話すくらいなら構わないだろうかと言い聞かせた。
 そして、徐々に違和感が大きくなるのを感じていた。

「ええ、よろこんで」ジムは手を差し出して笑顔で答える。
 
 その笑顔に嬉しさが込み上げ、エディナにいつもの笑顔が戻ってきた。
 ジムの手を取って席を立つ。
 肌のふれあい。
 エディナの熱がジムの腕を駆け抜けて甘い香りが伝わっていく。
 どこかで……。
 
 ふたりは薄暗いホールの中をゆっくりと歩いた。
 たどたどしいエスコートで光の先へと向かっていく。
 ふと周りを見渡すと清掃員がホールに入ってきて掃除を始めていた。

 光の扉が浮かび上がり、二人をじんわりと包み込んでくる。
 外に出ればこの心を支配している違和感の正体がわかるだろうか。
 でも、もしエディナがこの会場に来ていて外で待っていたら、と急に怖さも忍んでくる。
 咄嗟の自分がどんな反応を見せるのか分からない。
 
 迷いと焦りがジムの筋肉を硬直させ、添えていただけのてのひらに力が帯びてきた。
 エディナはその力強さに身を任せ後をついて行く。
 通路の暖が風に紛れてふたりの肌を撫でた。
 ホールの出口はすぐそこだ。
 その光の先に何が待つのだろう。
 ジムは畏れを抱きながら最後の段を駆け上った。

*****

 ざわめきの中で君の声が聴こえる。
 意識しなくても君の声だけが聴こえる。
 通路の柱の影で待ちかまえるように老人が囁く。
 光が照らす真実の声は彼の胸に届くだろうか、と。

(第38話につづく)
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