第12話 醒めない夢の片隅で

文字数 2,504文字

 エディナの視界にいつもと違う天井が浮かんで来る。
 陰影の際立つクロス地の無機質、なぜか涙が溢れてきた。
 剥がれかけのファンデーションに弾かれながら首筋に滲んでいく涙。
 拭うことなくじっと天井を見続ける。
 
 そしてふと思い出したように隣を見る。
 シワだらけの毛布とローブ、主人を待つ低めの枕だけが佇んでいる。
 エディナは再び天井を見上げて思考を置き去りにした。

 無音の部屋に注ぐ朝日。

「ジムはどこへ……」エディナの呟きだけが塵に塗れて漂っていく。

 気怠い体は夕べの激情の余韻に浸っている。
 温もりがまだ自分の中に存在しているかのようだ。
 悶えるように寝返ると薄手の毛布がはだけて露わになった。
 そっと胸を撫でると氷のような冷感が襲い我に返る。
 エディナはベッドの脇に脱ぎ捨てられた服をかき集めて袖を通し、そしてふらふらと立ち上がって家の中をうろついた。

 デスクのある寝室とリビングにキッチン。
 人の気配はまるでない。

 うろ覚えの記憶を辿りながらここは彼の部屋だったことを思い出す。
 もう仕事に出かけたのかしら。
 そんなことを考えながらキッチンに行くとそこは小綺麗に片づけられシンクには滴ひとつない。
 ジムがこの部屋を出てどれぐらい時間が経ったかもわからないほどだ。
 寝室のデスクは多少乱雑に思えるがそれ以外はきれいに整理されていた。

「きまじめな人なのかも……」

 エディナはジムの人柄を詮索する。
 夕べの会話や仕草を思い出しながら時折妙な笑顔を浮かべる。
 キッチンのケトルを拝借してコーヒーを入れると「これがジムのカップね」と嬉しそうにそっと口づけをした。
 コーヒーが喉元を焦がしながら身体を覚醒させて意識を正常に戻していく。

「さて、どうしよう」

 エディナはこのまま帰るかジムの帰りを待つか悩んだ。
 彼が仕事に出たと疑うこともない。

 決断できないままエディナはおもむろにジムのデスクに座った。
 目の前には難しそうな本がズラッと並んでいてまったく興味のない文字の羅列ばかり。
 タイトルの意味すらわからない専門的なものもあった。
 その傍らに小さめのデスクトップパソコンが沈黙を守っている。

 エディナは両腕に顔を乗せたままじっと本を眺める。
 意識を消して惚けていると不意に電子音がして焦った。
 音を辿ってみるとそれはデスクトップパソコンが起動音のようだった。

「えっ? なにもさわってないわよ」

 エディナはうろたえながらもモニターをじっと見つめる。
 カタカタ……とファンの鈍い音がしてOSが動き始めた。
 随分と古い型のパソコン、ロゴマークの点滅をエディナがじっと眺めていた。

 しばらくするとパソコンが立ち上がる。
 別に何の変哲もない画面。
 それでも執拗にハードディスクの音が響く。
 エディナはまだ何かあるのかしらと思いながら椅子を寄せて見入っていた。

 すると画面が急に真っ黒になった。
 エディナはのけぞるように身構えた後あの老人が出てくると確信する。
 そして画面の中央にいつもの老人が現れ深々とお辞儀をした。

「エディナ様、おはようございます。とは言ってもあなた様はまだ夢の中」

 エディナはその言葉でまだジムとの時間が続いていることを確信する。
 そしてなぜ彼がジムのパソコンから自分に話しかけるのかを訝しがる。 

「エディナ様にお伝えしたいことがあります」

 エディナはその言葉にさらに身構え、腕を胸前で交差させて乗り出すように画面に近づいた。

「本来なら目覚めとともに夢は終わるはずでした。でもあなたは目覚めてもまだこの世界におられる。何らかのデータの破損かシステムエラーが考えられ現在調査中であります」

「どういうこと?」

「端的に申し上げますと、ジム様はもうお帰りになられていますがエディナ様はまだこちらの世界に残っておられます」

 淡々と告げられる老人の言葉は冷たく感じられた。
 嘘の登録だから?
 でもまさかこんな事態になるほどの影響があるとは思えない。
 エディナの心当たりを老人は見透かしているのだろうか。

「これからどうなるの?」

「今、調査中でお答えすることができません」

「それじゃあ納得できないわ! 私は帰れるの?」

「今はお答えしかねます」

 老人は深くお辞儀をしたまま動かなくなった。
 よく見ると画面内の老人はただのCGでしかない。
 エディナは少し取り乱したあと、現実世界でどうなっているのかが心配になった。

「む……、向こうではどうなっているの?」

「おそらくはまだ眠り続けていると推測されます」

「推測されますって、なんて無責任な!」

「申し訳ございません。でも、命に関わるようなことはございませんのでご安心を」

 老人はそう言い残すと画面から消え、暗黒は元の画面に回帰した。

 全身の力が抜けて崩れるように椅子にしがみつく。
 魂の抜けたような顔は表情を失って次第に血色も消えていく。
 混乱する頭の中に意味もなく色んな景色や家族、知人の顔が流れていく。
 いくつもの現実世界の日常が現れては消えていった。


 どれぐらい経っただろうか。
 エディナはふと老人の言葉を反芻する。
 もうここにジムはいない。
 待っていても帰ってくるはずもない。

 エディナは口元を結んで身支度を整えコートを羽織った。
 無造作に転がったヒールを履いて無施錠のドアを開けて外に出る。
 突然の光に目が眩んで怯んだ。

 だがもうここにいる意味はない。
 外に出れば。
 無意味なほどに根拠のない場当たり的な確信がエディナをつき動かしていく。
 エディナは本能の赴くままに螺旋階段を降りていった。

*****

 枯れ葉の音が聞こえるのは自然に耳を傾けるから。
 雪の音が聞こえるのは慈しんで耳を澄ますから。
 消えた画面の奥底で老人の声だけが響く。
 衝動が放つ嘘、揺れる魂。欲望の扉が今開かれた、と。

(第13話につづく)
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