第63話 鬼が哭く、気まぐれの涯て

文字数 2,033文字

 ヴァンガードがほろ酔い気分でステップを踏み、崩れるようにソファに身を委ねた。
 スタッカートは彼の様子を見て、あの夜が二人にとっての障害ではないことを理解する。
 遣り方が少々強引ではあったがおそらくはそれも計算づくなのだろう。

 スタッカートは肩の荷が降りたのか、注がれたワインをグイッと飲み干す。
 不意に飲んだ高級が一気に彼の体を駆け巡る。
 空いたグラスに今度はジョセフが芳醇を注ぎいれた。


 酒宴が落ち着いた頃、スタッカートはステップを刻み始める。
 そして「約束だぞ」とだけ言い残して、そのままドアの方へと進んでいく。

「わかってるよ」ヴァンガードもグラスを掲げて真っ赤な顔を火照らせていた。

 ジョセフはグラスをテーブルに置いてスタッカーを支える。
 差し出した手を軽く撥ねながらふらふらと陽気なステップを踏み続けるスタッカート。
 ジョセフはため息をついて、一歩退いて彼の後を追った。

「あれからエディナとは?」スタッカートが唐突にジョセフに訊いた。

「私の話ですか?」

「おまえしかおるまい」

「ヴァンガード様の命がなければ私が勝手に動くわけにはまいりません」

「そうか……。誤解を解いてやりたいがな」

「それには及びません。私の感情など……」

「本心かね?」

「それはどう言う意味でしょう?」

「いや、何でもない。ふと過ぎっただけさ」

 スタッカートはふらふらとそのまま部屋を出てエレベーターに乗り込む。
 体を壁に預けてジョセフをまっすぐに見た。

「おまえから見てあの男はどうだ?」ジョセフはエレベーターの前で立ち止まる。
 そして、スタッカートを真っ直ぐに見つめて「合格ですよ」とだけ答えた。

「そうか、なら安心だ。おまえが肝心だからなぁ」

 スタッカートのその言葉を残してドアは閉まった。
 ジョセフはエレベーターが地上階で止まったのを確認するとオフィスへと戻っていった。

「なんか言っていたか?」

「ええ、少し」

「そうか。おまえはどうだ?」

「何の話です?」

「ジムだよ。直接会ったんだろう?」

「ああ、彼のことですか。いいと思いますよ」

「あのお転婆も女になりそうか?」

「さて、そこまではお答えしかねます」

「そうか、まあ、おまえがいいんなら大丈夫だろう。それにしても親父のアイデアもたまげたもんだ」

「お父上ですか」

「ああ、はじめは何を言い出したのかと。気楽な隠居の趣味とばかり思っていたがなかなかの優れものだな」

「あのお方もご満悦の様子で。ずっと間近で見て楽しんでおられましたから」

「そうか……。ところで例の男は……」

「ああ、彼ですか。ちょっと厄介なことになりそうだと報告がありました」

「そうか、彼の件は君に任せるが……」

「承知しておりますよ。一陣の風は匂いすらも残しませんから」

「ふふ……、相変わらず怖いのお」

「滅相もございません」

 ふたりきりの談笑が響いた。
 しばらくして、笑い声を掻き消すようにジョセフの携帯電話が鳴った。
 「失礼」と呟いたあと耳元の雑音に集中する。
 会話を知るよしもないヴァンガードだったが顔つきの変化は見逃さなかった。

「どうした?」

「エディナ様が……」ジョセフはそう言うと血相を変えて駆け足で部屋を出た。
 エレベーター脇の警備に一言声を掛け、そのままエレベーターに乗り込んで地上階に降りる。

 ジョセフが下に降りるとスタッカートはまだ受付にいた。
 受付嬢にちょっかいを出しているようで困り果てた懇願がジョセフを見つめる。

 そこに割り入ったジョセフは血相を変えて「スタッカート様! エディナ様が!」と叫んだ。

「どうした?」

「とにかく一緒に!」ジョセフは受付から彼を引き剥がす。

 スタッカートは事態を飲み込めないまま車のキーをジョセフに投げた。
 ジョセフはそれを受け取ると、ロビーの警備に目配せをしてキーを託した。

 スタッカートはふらつきながらジョセフを追う。
 間もなく、スポーツカーの排気音がロビーに響いた。

「早く!」ジョセフはスタッカートの腕を掴んで乱暴に車に乗せると、脇目も振らずに車を発進させた。
 その車を追うように数台の黒塗りが車道に轍を刻みながら走り去っていく。

 排気音のシンフォニー。
 その彼方でヴァンガードは浅い眠りについていた。
 モゴモゴと何かを呟きながら、無人の執務室のソファに体を預けている。

 音が去ったロビーに戦慄が走った。
 ジョセフの形相。
 それは彼らが初めて見たジョセフの知らない一面だった。

*****

 動き出す衝動、その速度は人知を超える。
 止め処ない衝動、その散開は真空をも打破する。
 走り去る緊迫を眺めながら老人は呟く。
 思惑と思惑の衝突ほど結果を楽しませるものはない、と。

(第64話につづく)
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