第88話 覚醒の悪戯に惑う乙女

文字数 2,270文字

 夕方になり、冷たい風が窓枠をしならせる。
 そのすきま風がうたた寝をしていたエディナの頬を襲った。
 冷感が浅い眠りを覚醒へと導いていく。
 そして、ふっと瞬間的にエディナは目を覚ました。
 気だるさはなく、はっきりとした覚醒だった。

 起き上がって部屋を見回すと母はもういなかった。
 いつの間にか帰ったのね、と思いながら、ここ数日仕事を休んでここにいたことを思い出す。
 父は一度だけか。
 ジョセフは最初の頃に一緒にいてくれたけどその後は見ない。
「みんな忙しいもんね」と寂しそうに呟く。

 ひとりになると無性に誰かに会いたくなる。
 いつだって一人でも平気だったのに……。


 エディナはハイスクール卒業後に就職も進学もしなかった。
 どちらも必要とは思えず、また集団の中で生活することに嫌気を差していた。
 その頃には父の会社の業績も凄まじく、金銭的に困ることはなかった。
 母の家事への比重は会社の業績が上がるにつれて減っていく。
 自分のことは自分でするしかなかったがそれは苦ではなかった。
 自由な時間が増え、束縛から解き放たれた。
 それはかけがえのないものだった。

 家はメイドが要るほど広くもないし、家事で困ることはほとんどない。
 朝食や夕食はほとんど母が用意する。
 たまに手伝うこともあったが父は母の味でないと不満らしい。
 遅くに帰ってくる父の家庭の醍醐味は母の手料理だった。
 会社の手伝いをしていた母だったが父の命令で残業を一切させなかったようだ。
 それでも残業を抱えるほどの無能だった訳でもなく、母は家事と仕事を器用に両立させていた。

 昼食は自由。
 面倒なときはカフェに行ってランチを食べて過ごす。
 ずっと家にいても気分が滅入る。
 その当時はまだ2階立ての小さな家で大人3人には手狭だった。

 エディナが卒業して5年ほど経った頃、父は広めの旧家を買い取って改築した。
 住宅街から離れた高台の庭付きの家。
 古風な姿の旧家でエディナはとても気に入っていた。
 広い家だったのでメイドが必要だと父は思っていたが、母は今まで通りに家事をこなすとやる気になっていた。

 この頃になると母は家事に没頭する時間を増やしていく。
 家にいることも多くなったが業務に支障が出ることはない。
 一線から身を引いて後任に託し、アドバイザーとしてたまに出勤する立場となっていた。
 それも父の配慮だったのだろう。


「ひとりでいることがあんなに楽で好きだったのに」

 不安ばかりが先走る病室でエディナは小さく膝を抱えた。
 寒さが少しマシになって体の中心が暖かくなってくる。

「どうしよう……」

 エディナは毛布を被って、そこでスマホの画面をタップをした。
 画面が白く光って辺りをを照らす。

 アドレス帳を開いてジムの連絡先がきちんと入っていることを確認する。
 この画面を見ているだけで勇気をもらえるような気がしていた。
 押してみたい……。
 エディナは通話のボタンに指を伸ばす。
 震える指先がどんどん近づいてくる。
 でも、何を話せばいいのだろう。
 そんな迷いに節電の暗転、急に真っ暗になってしまった。

「ふぅ……」
 エディナはため息をついてもう一度画面をタップする。
 同じ画面が出てきてちょっと安心した。
 そしてまた同じようにボタンに指を伸ばした。

 ガラガラ……。
 不意に扉が開く音がした。

「ヴァンガードさん?」回診のナースの声だ。
 エディナはその音に驚いてスマホの画面をタップしてしまった。
 画面の横から数字が流れてきて、何が起こったのかすぐには理解できなかった。

 ピ・ピ・ピ……。

 かすかに音がする。
 耳を当ててみるとそれは発信の合図だった。
 エディナは慌ててキャンセルボタンをタップする。
 すると、画面は切り替わって元のアドレスの画面に戻った。

「ヴァンガードさん?」声が近づいてくる。
 エディナは毛布の中から飛び出して「なんでもないです!」と声を張り上げた。

「えっ?」

 ナースはエディナの言葉の意味が分からずに呆然としていたが、後ろ手に何かを隠したのを見て笑顔になった。

「彼氏とお話でもしてたのかな? ダメですよ、病室で電話使ったら」

 ナースはそう言うとエディナが変わりないことを確認して部屋を出ていく。

「あ、看護師さん……」

「どうかしました?」

「ごめんなさい。窓を閉めてもらえたら……。母が開けっ放しにしちゃって……」

「あら、気づかなかったわ」

 ナースはそう言うと窓を閉めて出て行く。
 エディナは顔をあわせづらそうにして俯いたまま彼女が去るのを待っていた。
 足音が遠ざかって、ドアが閉まる音がする。
 緊張が一気にとけて、そのままベッドに倒れ込んだ。
 そして見上げるようにスマホを翳して「どうしよう、履歴が残ったかも……」と呟いた。

 画面はまだジムのアドレスのページのまま。
 また何かの拍子に間違えて押してしまいそうだ。
 エディナは画面を閉じるとスマホを枕元に置いて天井を眺めた。
 白いスクリーンにジムの面影が映っているように思えて何だか照れくさくなった。

*****

 写真の笑顔が痛いくらいに優しい。
 その瞬間の想いが紛れているからだろうか。
 白い廊下を眺めながら老人は呟く。
 過去から放たれた想いは絶えず現在の自分を貫いていく、と。

(第89話につづく)
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