第32話 老人はWebの中で静かに笑っていた

文字数 2,060文字

 ジムの日常は急激に変化を遂げた。
 無風の日常は今や過去、波風と無縁の人生は衝動がかき消してしまった。
 そしてその波紋は彼の思惑を越えて大きなうねりへと変化する。

「プライベートだから行くなとは言わないが……」署長の言葉が震える。
 眼光に宿る緊張感、それは私服の介入を示唆しているようだ。

 仕事が日常を侵していく。
 やむを得ないと言い聞かせても心の襞はざわつきを抑えきれない。
 公開処刑よりも気がかりなエディナに降りかかるかも知れない危険。
 最悪の事態が脳裏を掠めてしまう。
 何事も起こらないように。
 今はそれを祈るしかなかった。


 翌日、ジムは浅い眠りから目を覚ました。
 窓枠から零れてくる脆弱な光が埃を纏ってジムの顔に手を伸ばす。
 硬い体を解しながら起き上がって窓の外を眺めると雪が窓枠にしがみついていた。
 軽く叩いてみるとパウダースノーが外気温の中で果てていく。

 窓を開け新鮮を呼び戻す。
 冷気ともに果てた雪が転がり込んできた。
 居場所を見つけ、物陰で命を拗らせていく。
 やがてケトルの湯気が彼らを自然へと還していく。
 姿を変えた命はジムの頬に清涼を与えていた。


 ジムは濃いめのラテで覚醒を導いた。
 約束までの余白をどう埋めようか。
 今さら服選びに奔走してもボロしか出ない。
 
 そんなことよりもこの喪失感をどう拭えばいいのだろう。
 覚悟を決めたはずなのに。
 まるで現場に出向くようだ。

「現場?」ジムは自問しながら口元を緩ませる。
「そうだ、現場だよ」誰かの声で返答が再現される。
 ジムは苦笑しながら装備品のタブレットをジャケットの胸元に忍ばせた。

 署内の空気が香り出す。
 事件が起こるまで携帯義務すらなかったタブレット。
 仲間の愚痴も脳内再生されてしまう。
 有事の際の連絡用で捜査本部からの指示などが直接届く仕様。
 もっとも外勤底辺に重要な情報など降りてはこない。


 ジムは何となく気になってタブレットを開いた。
 メッセージアイコンが光っている。
 クリックしてメッセージボードが起動させると各捜査員宛の個別のメッセージが展開された。
 新着の「情報の一元化と共有について」の内容は「事件概要から各種情報へのリンクができるようになった」というものだった。
 新たに追加された情報は被害者の職歴に関する項目のようだ。

 ジムは興味深くその項目を熟読しリンクページに飛ぶ。
 そこには被害者の写真や学歴、職歴が整理され年表のようになっている。
 その中で再就職先の横に「NEW」と書かれた文字が点滅していた。

「アルウェン労務事務所?」ジムは怪訝な表情で注視する。
 そして前職欄の「ESCメディアカンパニー」に聞き覚えを見つけた。

「ああ、あの新しいCMの会社か」ザッピングの途中で見たきれいな女優が出演しているCMを思い出す。
 だが何の会社かすら知らなかった。

 ジムはESCメディアカンパニーの公式URLをクリックして表示させる。
 スタイリッシュな写真が立ち並び、動画サイトのCM映像が嵌め込まれていた。

 会社概要を覗き、ウェブデザインとインターネットのインフラ整備に特化した会社だと理解する。
 ページの右端に創業者理念なる文字が見えた。
 そこをクリックすると白髪で白髭の老人の写真があった。
 創業者、ミッシェル・ヴァンガード。
 現在は会長職に就いているようだ。
 優しそうな笑顔の奥に凄みを感じさせるが悪人には見えなかった。
 その下に現代表の写真もある。
 CEOのルーセント・ヴァンガード。
 息子だろうか?

「この会社を辞めて個人事務所に就職ってのも変わった話だな」

 ジムはそう呟いて飲み頃のラテを口にする。
 溶けきれなかった粉が舌を刺激して適度な覚醒を促す。
 まだ辞職理由まではたどり着いていないようで「一身上の都合」と言う当たり障りのない言葉が踊っていた。
  
 まったくもって繋がりを感じない。
 発明は希望で銃殺は絶望だ。
 自分も殺される可能性があったのだろうか?
 まさか出会えなかった人間は殺されるとか言わないだろうな。

 ジムはラテを飲み終えて空腹の声を聞く。
 おもむろに冷蔵庫を開けてみると卵と凍らせていたパンがあった。
 レンジで焦がしたパンにスクランブルエッグを乗せる。
 ソースの香ばしい香りが空腹をさらに刺激した。
 ジムはそれを一気に頬張って、詰まりそうになって慌てて牛乳で流し込んだ。
 慌ただしい朝食を終えた頃、クロックは午前10 時を告げようとしていた。
 ジムはソファに寝転がり再びタブレットを操作し始めた。

*****

 理不尽で難解な事象は多方面からの視点で解決される。
 ガラスが見えない鳥は何度も衝突を繰り返す。
 淡雪で彩られたとある街角で老人は微笑む。
 彼はいつ理不尽さの正体に気づくだろうか、と。

(第33話につづく)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み