第93話 霞の中で告げられる過酷

文字数 4,050文字

 復路のバスがビジネス街に着く頃、高層ビルの影は姿を消していた。
 足下に成りを潜めた影、弱々しい光が冬のビジネス街を一瞬だけ包んだ。
 もうすぐ正午、ランチに向かうサラリーマンやOLなどで道が溢れかえる頃だ。
 この時ばかりはこの場所の人口密度の凄まじさに驚きを隠せない。

 ジムが車窓から外を眺めていると数人のサラリーマンの群を見つけた。
 カラフルでスタイリッシュなスーツがちらほら見えたがほとんどは無難な黒。
 彼らの急ぎ足はこの街の中でも特異に映る。
 それでも経済を動かしている男たちの表情は自信に満ちている気がする。
 決して職業的な気後れがあるわけでもないが、自分とは違う能力で社会に貢献する姿を素直に尊敬していた。


 バスがビル群の停留所で停まった。
 運転手は普段着を物珍しそうに眺めていた。
 ジムは意に介することもなく、颯爽とビジネス街を駆けて行った。

 バスを降りて歩道を踏みしめる。
 ショッピングストリートの石畳とは違った無機質なアルファルト。
 足腰に不安があるとさぞかし辛かろう。
 日常に埋もれるとこんな違和感は些細なものだろうか。
 価値観の違う場所でジムは色々と考えてしまう。

 これから訪れる場所は全く違う人種の坩堝だ。
 しかも金融なんて無縁の職種だ。
 スタッカートとはどんな人物だろう。
 ジムは会長という肩書きよりも金融屋としての彼の側面に興味を持った。
 会ったのはたった一回、しかも会話すらしたことのない男。
 そんな男がエディナの為にどうしてここまでするのだろうか。
 疑問のつきない男にジムは妙な親近感を感じていた。

 名刺を頼りにスタッカートの会社を目指す。
 金融会社というものがどんな建物なのかも分からない。
 イメージとしては銀行だがそうなると立派なテナントを構えているのだろうか。
 こんなカジュアルな服での出入りは許されるのだろうか?
 でも客の服装は自由だろう。

 詮索を超えた余計な雑念に支配されている自分に気づいて思わず口元が緩む。
 考えても尽きないこと。
 そう、行けば分かることをあれこれと考えるのは悪い癖だ。
 なんとなくおかしくて笑いがこみ上げてきた。


 歩道を少し歩くと、最上階が霞んで見えたビル郡の一角に出た。
 向かいに見慣れた本署が佇んでいる。
 こんな近くにこんな大きな建物があったかな?
 興味のないものへ無頓着に気づく。

 ジムはその一つのビルの正面玄関の前で立ち止まった。
 名刺に刻まれたハイセンスな文字が玄関先で踊っている。
 湾曲したガラスドアはきれいに磨かれていて眩しい。
 まさかこのビル全部とか言わないだろうなと思って改めて名刺を見直すと、ビルの名前の横に23Fと書かれているのを見つけた。
 おそらくはフロアの番号だろう。
 このビルの23階に彼のオフィスがあるということだろうか。

 ジムは意を決して湾曲のドアの前に立つ。
 カーブを描くように開いた自動ドアを抜けてエントランスに入ると、ただっ広いロビーが目の前に展開した。
 ホテルのラウンジのような豪華な絨毯敷きのフロアのはるか向こうに案内カウンターと数台のエレベーターが見えた。
 入って左手はホテルのロビーのように高価そうなソファが並んでいる。
 高そうなスーツに身を纏ったビジネスマンが商談を展開している様子が見えた。

「これは場違いか? さすがに?」

 ジムは男たちの服装を見て気後れする。
 さすがにウインドブレーカーにラフなシャツは見当たらない。
 どうしようかと悩んでいると、ロビーの方から一人の男が歩いてきた。
 若い女性を連れた恰幅の良いスーツの男だった。
 見覚えがあるような、ジムは瞼を細めて見た。

「君がゴードン君だね」老紳士は穏やかに声をかけた。
 脳内に「あの時」の声紋が流れ、記憶を呼び覚ました。
 ジムは冷静に「はい。あなたがスタッカートさんですね?」と答えた。

「いかにも。よく来てくれた」スタッカートは挨拶とばかりに手を差し出す。
 この世界の常識なんだろうかとジムも手を差し出してがっちりと握手をした。
 ゴツくて骨太な手は暖かい。

「込み入った話はオフィスでしよう」

 スタッカートは先導するように歩き、ジムもそれについて行く。
 右手に連れていた若い女性が横に並んだので、「この格好でも大丈夫でしょうか?」と思わず聞いた。

「問題ありませんよ。ビジネスの話をしなければ」

 女性はニッコリと笑う。
 ファセットの眼鏡が良く似合う小柄な女性で、ネームプレートには「秘書」「ジュリア・ジュエル」と書かれていた。
 秘書を誂えてロビーにいたということは商談中か何かだったのだろうか。
 ジムはまた余計な詮索と妄想を始める。
 ブツブツと小言を言うような仕草を見てジュリアはクスクスと笑っていた。


 深い絨毯を進んだ先にエレベーターホールがあった。
 ジュリアがボタンを押して、スタッカートの前に出て先に乗り込む。
 彼女が乗り込むのを待った後、彼は悠々と入っていく。
 ジムはそそくさとそれに倣った。

 ジュリアが「23」のボタンを押すと音も立てずにエレベーターが上昇を開始した。
 暫しの沈黙の後、「どこから話せばよいのか……」不意にスタッカートが漏らした。

「私も……」

 ジムもどうしたものかと考えていたが「あの時、エディナに話しかけていた方ですよね」と念を押すように聞いた。

「あの時? ああ、ミュージアムホールだな。そうだ。よく覚えてくれていた」

「いえ、失礼ながら何となくで……。メモを預かったときは誰のことだかわかりませんでしたから」

「まあ君の職業柄、私を捜すことはどうってことないだろ?」

「部署は違うので簡単にと言うわけにはいきませんが……」

「まあいずれ会えると思っていたよ。あの娘のためにもね」

「エディナ?」

「そう、彼女は今とてもつらい状況にいるからね」スタッカートが悲しみに満ちた表情をする。

「失礼ながらお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「なんだね?」

「その……、彼女との関係は?」ジムはおそるおそる聞く。

「父親ではないぞ、安心しろ。無論、年の離れた兄でもない」とスタッカートはジムの背中をポンと叩いた。

「ついでに言うと、元彼とかでもないから安心しろ。そうだな、まあボーイフレンドと父親の間みたいなものだ」

 ジムには畳みかけられる言葉の意味がわからずにいた。

「会長、それはさすがに誤解を招きますよ」ジュリアが傍で聞いていて思わず口出す。

「はは、すまんジュリア。おっと謝るのはジムくんにか。いずれにせよ、ちょっと仲の良いおっさんだ」

「会長! 素直にヴァンガート様のご友人と言えばいいのに」

「おやおや、そう言う言い方もあるか。でもエディナとの関係を聞かれたからなぁ。ははは!」

 スタッカートは声を出して笑う。
 ジムは変わったじいさんだなと思って呆然とした。

「ヴァンガードさんってのはエディナの父親のことで?」

「そうだよ、彼はビジネスパートナーを越えた友人だ。そして君の知らないエディナを知っている男だ」

「会長!」ジュリアは意地の悪いスタッカートを小突いた。
 秘書が会長を小突く姿はどことなく不思議な光景に映った。

「まあ、あれだ。あいつとは古くからのつきあいでね。その頃からエディナのことは知っていた。あの子がハイスクールぐらいの頃だったかな」

 スタッカートがそう話し始めた頃、エレベーターが23階に到着した。

「続きはオフィスで話そう」

 スタッカートはジュリアの先導を追って廊下を歩いていく。
 深い絨毯はまだ続いたままでとても歩きにくい。
 廊下の両側にはガラスで区切られたようないくつものオフィスが並んでいる。
 そして廊下の先に大きなガラスのドアがあった。

 中に入るとガラスのパーテーションで区切られたお洒落なオフィスが広がっている。
 従業員はみな若く見えた。
 それぞれが軽く会釈をして仕事を続ける。
 スタッカートが「奥を借りるよ」と受付嬢に言うと「かしこまりました」と丁寧な返事が返ってきた。

 ジムは場違いすぎるところに来てしまったと後悔する。
 そしてそこにいたほぼ全員が自分を凝視していることに気づいてそれがむず痒かった。


 スタッカートはジムを応接室に招いた。
 ジュリアが内線をコールすると、ほどなく三人分の珈琲が到着する。
 ジムは導かれるように応接のソファに座った。
 スタッカートは上着を木製のコートハンガーに掛けジムの対面に座る。
 緊張感が高ぶる。
 それを察したのか、スタッカートは姿勢を崩して珈琲を口にした。

「ジム君、ビジネスじゃないんだから気軽にしてくれよ」

「あ、はい……、そうなんですが、ちょっと慣れないもので……」

「まあ、仕方ないか。ワシらには家みたいなものだがな。他人の家は誰でも緊張するさ」

 スタッカートはそう言うと再び珈琲を啜る。
 そしてコースターにカップを静かに置くと低い声で話し始めた。

「単刀直入に言う。ジム、エディナは今、ケガをしている。それも分署の火災に巻き込まれたケガだ」

 ジムの心に不安が過ぎる。
 言葉通りに捉えれば良いのだろうか。
 そうだとするとエディナの行動の意図がまったく読めない。
 彼が語る言葉に希望はあるのだろうか。
 ジムは拳を握りしめて、力強い目線で彼を見つめた。

*****

 滴が水面に落ちるときれいな波紋を描いていく。
 心に事実が落ちるとなぜか不可思議な動揺を描く。
 オフィスビルのロビーでくつろぎながら老人は呟く。
 澄み切った水面に落ちる滴ほど美しい波紋を描き出す、と。

(第94話につづく)
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