第102話 神様の悪戯にこの心を捧げよう
文字数 4,497文字
ジムが刑事課に配属になって一週間になった。
時折、エディナの元に訪れては近況をインターホン越しに聞く。
日に日にエディナの声が明るくなるようで嬉しかったが、まだ会う勇気はないようだ。
玄関先でアンナにプレゼントと手紙を手渡す。
そんな日が続いていた。
ある日、仕事が遅くなって帰宅が深夜になった。
だいぶ春っぽい季節になってきたが深夜になるとまだ寒い。
こんなに遅くなるとは思わずに軽装だった自分の判断を呪う。
悴みそうな手のひらを擦り合わせながら螺旋階段を昇ると、いつものように広告やらダイレクトメールが節操もなく郵便受けに詰め込まれていた。
ジムは呆れながらそれをひとまとめにして部屋に入った。
それらをテーブルの上に広げると滑って多くの広告が床に落ちていく。
ジムはそれを無視してキッチンに向かい、お湯を出して手を温めた。
冷水が温水に変わって凍りそうだった手にじんわりと沁みてくる。
血流が復活するような感覚が腕から肩へと上がってきて一息ついた気分になった。
ジムは武者震いを封じ込めるように身を悶えさせながら散乱した広告を拾い始める。
そして、その中に見覚えのある封筒を見つけた。
差出人のない豪華そうな封筒。
口元が緩む。
面白いじゃないか。
「どんな続きを?」
ジムはワクワクしながら封を解くと、そこには一枚の便箋とマイクロカード、ヘッドセットが入っていた。
「また何かを見せてくれるのか?」
ジムは小言を呟きながらマイクロカードをパソコンに差す。
そして、おもむろにヘッドセットを装着した。
相変わらずノイズだけが微かに響いていた。
ジムはパソコンの起動の間に便箋を読んだ。
書いてあることはただの説明書きで、新たに送られてきた目的のようなものは書かれていない。
ただ便箋の片隅に「夢の続きをあなたに」と書かれてあった。
パソコンの起動が終わる。
すると通常の画面がパッと黒い画面に変わる。
ノイズが消えてまた無音の世界が広がった。
そしてまた執事のような老人がいきなり現れて深くお辞儀をした。
「ようこそ、ジム様。この発明は未来をあなたの元に届けます。発明の住人であるあなたに輝かしい未来が訪れますよう。幸運を祈ります」
ジムは老人の淡々とした口調を無言で見守り、この先の展開を待った。
かすかに音楽が聞こえてくる。
ジムは椅子の背もたれをしならせ腕を組んで待った。
それでも何かが起こる気配はなかった。
「寝ないとダメなんだろうか? 夢だし……」
そう思ってソファに横になって目を閉じてみる。
だが真っ暗な空間がただ広がっているだけで夢の世界に入りそうにもなかった。
微かに心地よい音楽が静かに鳴っている。
ジムはしばらくつきあうことを決め、そしてエディナのことを想った。
彼女は今どうしてるんだろう。
ひょっとしたら同じようにこれが届いているんだろうか。
いや、誰かの悪戯だったりして……。
どうでもいいことを考えていると、いつの間にか眠りに誘われていた。
脱力した腕組みは解けて、片方の腕が床になだれていた。
ジムが気づいたとき、そこはもう夢の中だった。
場所はどこだろう。
周りを見回して、そこが川横の歩道であることがわかった。
相変わらず現実世界との区別がつかない。
「ここはひょっとして」
その川は夕日が反射して、光の粒が視界を覆う幻想的な場所だった。
川に沿って石畳の歩道が延びていて、アンティーク調の長いベンチがあった。
だが、辺りを見回しても誰もいない。
無人の川辺でジムは仕方なく、ベンチに座ることにした。
乱反射する夕日を眺めながらエディナを想う。
そしてこの場所がエディナに告白をしたところだと思い出す。
台詞を思い出して、思わず吹き出してしまう。
よくもあんな言葉が自分から出たもんだと思い返すだけでも恥ずかしい。
ジムは回顧にまみれたまま、ゆったりと流れる時間を楽しんでいた。
ジムが景色を楽しむ遙か上流にひとりの女性が佇んでいた。
エディナだった。
放心したような表情で心が空間を受け入れるのを待っていた。
ジムが夢の世界に現れるずっと前、エディナの元に同じように封筒が届いていた。
アンナが郵便物から例の封筒を見つけ、慌ててエディナの元に走って来る。
「どんな内容?」
興味深く見守るアンナの勢いに負けて、エディナは封を解く。
中身はマイクロカードとヘッドセットだった。
「続きがあるってことかしら?」
「さあ……」
エディナは戸惑いながらも、「もし夢の中で会えるのなら、どう?」というアンナの言葉が背中を押した。
「わかった。ジムが眠る頃、試してみるわ」
エディナはそう言うと、その封筒をぎゅっと胸に抱く。
マイクロカードのランプが不意に一度だけ点滅した。
アンナはエディナと夕食を済ませた後、「私のところにも来てるかも」と言って帰って行った。
それから連絡はないが、明日また聞けばいいかとエディナは寝る準備をする。
そしてマイクロカードを最近買ったタブレットに差した。
まさか同じパソコンじゃないとダメとかないよねと思いながらじっと画面を見つめた。
マイクロカードは認証を待つようにランプを何度も点滅させていた。
エディナはヘッドセットを装着して灯りを消した。
すると通常画面がパッと切り替わって、黒い画面になり部屋が暗闇に包まれた。
目が慣れた頃、いつの間にかあの執事のような老人が立っていた。
エディナが彼を認識すると、それを待っていたかのように老人は深々とお辞儀をした。
「ようこそ、エディナ様。この発明は未来をあなたの元に届けます。発明の住人であるあなたに輝かしい未来が訪れますよう。幸運を祈ります」
老人はそう言い残して消える。
そして画面が徐々に白くなったと思うと、エディナはいつの間にか夢の中にいた。
どこだろう、ここは。
エディナが石畳の歩道に気づくと、途端に視界が晴れやかになってきた。
そして、そこが川横の歩道であることがわかった。
「どこかで見たような……」
記憶を辿ると、ジムと抱き合ってキスをした場所だと思い出す。
周りに誰かいないかと見回すが人の気配がしない。
不安だ。
エラーの続きじゃないだろうかと。
だが、あの時の不安感とは少し違う感じもした。
エディナは手すりに近づいて行って川面を見る。
緩やかな流れの中に自分の影が揺れている。
陽光が水面にきらめいていた。
そしてふと思い出す。
前の夢の中の自分は現実の世界とは似ても似つかなかった醜悪な姿だったことを。
そして、もし今の姿だとしても顔に火傷の痕が酷く残ったままだと。
エディナは自分の姿を確認しようと川に近づく。
しゃがみこんで川面を見ると、そこには火傷痕のない本当の自分の姿があった。
エディナはほっとして川面を撫でる。
すると映った顔が崩れるように弾けて、そしてまた元に戻った。
「こんな風に、簡単に戻ってくれたらいいのに……」
エディナはそう呟いて立ち上がり、何気なく川下に向かって歩き出した。
この先でジムに会えるのだろうか。
それとも残酷な現実を予期させる夢なんだろうか。
様々な妄想と臆測が心を支配していく。
どうしても楽観的な考えにたどり着くことができずにいた。
水鳥が鳴いている。
その声はとても悲しくて切ない響き。
エディナは感傷的なその響きが悪い想像を膨らませるだけの演出に思えて仕方なかった。
石畳のひとつひとつが過去を思い出させるように凹凸を見せている。
不安定な足場に躓きながらよろけ、その場所に立ち止まっては空を見上げてみる。
空にも石畳にも罪はない。
ただ立ち止まらせるための何かが心の中に存在しているのだろう。
「私は今、どうして立ち止まっている?」
エディナは自問する。
今のふたりを隔てているものの正体は何だろうかと。
その答えは怖くて目を背けているものだろうか。
それとも引き剥がそうとする運命の力なのだろうか。
「そうね……。きっと、これまでの私の人生がそうさせているのね。幸せになる資格が私にはないのかも……」
エディナがそう呟いたとき、水鳥が一斉に空に舞い上がった。
空を裂くように縦横無尽の羽ばたきが鳴り響いた。
エディナは彼らをぼおっと眺める。
彼らはどこに向かうのだろう。
そして川面を眺めていく。
この川はどこに流れていくんだろう。
「海に決まってる」
ジムのあの時の声が頭の中で何度も響き渡った。
そして見上げてふと前を見ると、少し先に誰かが座っているベンチが見えた。
エディナの鼓動が速くなる。
一歩一歩に震えが重なって、足場の悪さが彼女を阻もうとする。
だけど関係なかった。
エディナは空を飛ぶように走った。
石畳を蹴って、一秒でも速く……、と手を伸ばした。
「ジム!」
エディナの声が空を駆け抜けていく。
ベンチに座っていた誰かがゆっくりと立ち上がり、こっちを向いているような気がした。
「ジム! 私よ!」
エディナは振り絞るような声で再び叫んだ。
その声に呼応するように、「エディナ!」と声が返ってくる。
エディナは息を切らせて立ち止まる。
数メートル前にジムがいる。
エディナはそっと顔を上げて、彼をしっかりと見つめた。
そこには真っ直ぐに自分を見つめているジムがいた。
「ジムなのね……。私……、私……」
ジムは涙を堪えて立ち尽くすエディナの元にそっと近寄った。
そして、両手を広げてそっと抱きしめた。
「よかった。エディナ、もう一度君に会えて……」
声にならない嗚咽。
頬を涙が伝う。
肌を弾くように駆け抜けていき、それはジムの腕へと流れていった。
ジムは無言のまま、ずっとエディナを抱きしめていた。
ふたりはしばらく抱き合って、そして心が落ち着いたあとベンチに肩を寄せて座った。
そして、会えなかった日々を取り戻すように人目もはばからずに顔を寄せ合い、確かめるように頬や腕をまさぐりあう。
産毛もよだつような感覚が全身を包んで快感と恍惚の中に身を委ねた。
水鳥が水面を跳ねている。
番が嘴を寄せ合っている。
ふたりは会えなかった時間を取り戻すかのように抱き合う。
時間よ止まってほしい。
そして現実の世界でも同じように愛を確かめたいと思い合っていた。
*****
番が寄り添い、時間を止める。
番が羽ばたき、未来が動き出す。
ふたりの抱擁を見守りながら老人は呟く。
彼らの試練はまだまだ続く。これは序章にしかすぎない、と。
(第103話へつづく)
時折、エディナの元に訪れては近況をインターホン越しに聞く。
日に日にエディナの声が明るくなるようで嬉しかったが、まだ会う勇気はないようだ。
玄関先でアンナにプレゼントと手紙を手渡す。
そんな日が続いていた。
ある日、仕事が遅くなって帰宅が深夜になった。
だいぶ春っぽい季節になってきたが深夜になるとまだ寒い。
こんなに遅くなるとは思わずに軽装だった自分の判断を呪う。
悴みそうな手のひらを擦り合わせながら螺旋階段を昇ると、いつものように広告やらダイレクトメールが節操もなく郵便受けに詰め込まれていた。
ジムは呆れながらそれをひとまとめにして部屋に入った。
それらをテーブルの上に広げると滑って多くの広告が床に落ちていく。
ジムはそれを無視してキッチンに向かい、お湯を出して手を温めた。
冷水が温水に変わって凍りそうだった手にじんわりと沁みてくる。
血流が復活するような感覚が腕から肩へと上がってきて一息ついた気分になった。
ジムは武者震いを封じ込めるように身を悶えさせながら散乱した広告を拾い始める。
そして、その中に見覚えのある封筒を見つけた。
差出人のない豪華そうな封筒。
口元が緩む。
面白いじゃないか。
「どんな続きを?」
ジムはワクワクしながら封を解くと、そこには一枚の便箋とマイクロカード、ヘッドセットが入っていた。
「また何かを見せてくれるのか?」
ジムは小言を呟きながらマイクロカードをパソコンに差す。
そして、おもむろにヘッドセットを装着した。
相変わらずノイズだけが微かに響いていた。
ジムはパソコンの起動の間に便箋を読んだ。
書いてあることはただの説明書きで、新たに送られてきた目的のようなものは書かれていない。
ただ便箋の片隅に「夢の続きをあなたに」と書かれてあった。
パソコンの起動が終わる。
すると通常の画面がパッと黒い画面に変わる。
ノイズが消えてまた無音の世界が広がった。
そしてまた執事のような老人がいきなり現れて深くお辞儀をした。
「ようこそ、ジム様。この発明は未来をあなたの元に届けます。発明の住人であるあなたに輝かしい未来が訪れますよう。幸運を祈ります」
ジムは老人の淡々とした口調を無言で見守り、この先の展開を待った。
かすかに音楽が聞こえてくる。
ジムは椅子の背もたれをしならせ腕を組んで待った。
それでも何かが起こる気配はなかった。
「寝ないとダメなんだろうか? 夢だし……」
そう思ってソファに横になって目を閉じてみる。
だが真っ暗な空間がただ広がっているだけで夢の世界に入りそうにもなかった。
微かに心地よい音楽が静かに鳴っている。
ジムはしばらくつきあうことを決め、そしてエディナのことを想った。
彼女は今どうしてるんだろう。
ひょっとしたら同じようにこれが届いているんだろうか。
いや、誰かの悪戯だったりして……。
どうでもいいことを考えていると、いつの間にか眠りに誘われていた。
脱力した腕組みは解けて、片方の腕が床になだれていた。
ジムが気づいたとき、そこはもう夢の中だった。
場所はどこだろう。
周りを見回して、そこが川横の歩道であることがわかった。
相変わらず現実世界との区別がつかない。
「ここはひょっとして」
その川は夕日が反射して、光の粒が視界を覆う幻想的な場所だった。
川に沿って石畳の歩道が延びていて、アンティーク調の長いベンチがあった。
だが、辺りを見回しても誰もいない。
無人の川辺でジムは仕方なく、ベンチに座ることにした。
乱反射する夕日を眺めながらエディナを想う。
そしてこの場所がエディナに告白をしたところだと思い出す。
台詞を思い出して、思わず吹き出してしまう。
よくもあんな言葉が自分から出たもんだと思い返すだけでも恥ずかしい。
ジムは回顧にまみれたまま、ゆったりと流れる時間を楽しんでいた。
ジムが景色を楽しむ遙か上流にひとりの女性が佇んでいた。
エディナだった。
放心したような表情で心が空間を受け入れるのを待っていた。
ジムが夢の世界に現れるずっと前、エディナの元に同じように封筒が届いていた。
アンナが郵便物から例の封筒を見つけ、慌ててエディナの元に走って来る。
「どんな内容?」
興味深く見守るアンナの勢いに負けて、エディナは封を解く。
中身はマイクロカードとヘッドセットだった。
「続きがあるってことかしら?」
「さあ……」
エディナは戸惑いながらも、「もし夢の中で会えるのなら、どう?」というアンナの言葉が背中を押した。
「わかった。ジムが眠る頃、試してみるわ」
エディナはそう言うと、その封筒をぎゅっと胸に抱く。
マイクロカードのランプが不意に一度だけ点滅した。
アンナはエディナと夕食を済ませた後、「私のところにも来てるかも」と言って帰って行った。
それから連絡はないが、明日また聞けばいいかとエディナは寝る準備をする。
そしてマイクロカードを最近買ったタブレットに差した。
まさか同じパソコンじゃないとダメとかないよねと思いながらじっと画面を見つめた。
マイクロカードは認証を待つようにランプを何度も点滅させていた。
エディナはヘッドセットを装着して灯りを消した。
すると通常画面がパッと切り替わって、黒い画面になり部屋が暗闇に包まれた。
目が慣れた頃、いつの間にかあの執事のような老人が立っていた。
エディナが彼を認識すると、それを待っていたかのように老人は深々とお辞儀をした。
「ようこそ、エディナ様。この発明は未来をあなたの元に届けます。発明の住人であるあなたに輝かしい未来が訪れますよう。幸運を祈ります」
老人はそう言い残して消える。
そして画面が徐々に白くなったと思うと、エディナはいつの間にか夢の中にいた。
どこだろう、ここは。
エディナが石畳の歩道に気づくと、途端に視界が晴れやかになってきた。
そして、そこが川横の歩道であることがわかった。
「どこかで見たような……」
記憶を辿ると、ジムと抱き合ってキスをした場所だと思い出す。
周りに誰かいないかと見回すが人の気配がしない。
不安だ。
エラーの続きじゃないだろうかと。
だが、あの時の不安感とは少し違う感じもした。
エディナは手すりに近づいて行って川面を見る。
緩やかな流れの中に自分の影が揺れている。
陽光が水面にきらめいていた。
そしてふと思い出す。
前の夢の中の自分は現実の世界とは似ても似つかなかった醜悪な姿だったことを。
そして、もし今の姿だとしても顔に火傷の痕が酷く残ったままだと。
エディナは自分の姿を確認しようと川に近づく。
しゃがみこんで川面を見ると、そこには火傷痕のない本当の自分の姿があった。
エディナはほっとして川面を撫でる。
すると映った顔が崩れるように弾けて、そしてまた元に戻った。
「こんな風に、簡単に戻ってくれたらいいのに……」
エディナはそう呟いて立ち上がり、何気なく川下に向かって歩き出した。
この先でジムに会えるのだろうか。
それとも残酷な現実を予期させる夢なんだろうか。
様々な妄想と臆測が心を支配していく。
どうしても楽観的な考えにたどり着くことができずにいた。
水鳥が鳴いている。
その声はとても悲しくて切ない響き。
エディナは感傷的なその響きが悪い想像を膨らませるだけの演出に思えて仕方なかった。
石畳のひとつひとつが過去を思い出させるように凹凸を見せている。
不安定な足場に躓きながらよろけ、その場所に立ち止まっては空を見上げてみる。
空にも石畳にも罪はない。
ただ立ち止まらせるための何かが心の中に存在しているのだろう。
「私は今、どうして立ち止まっている?」
エディナは自問する。
今のふたりを隔てているものの正体は何だろうかと。
その答えは怖くて目を背けているものだろうか。
それとも引き剥がそうとする運命の力なのだろうか。
「そうね……。きっと、これまでの私の人生がそうさせているのね。幸せになる資格が私にはないのかも……」
エディナがそう呟いたとき、水鳥が一斉に空に舞い上がった。
空を裂くように縦横無尽の羽ばたきが鳴り響いた。
エディナは彼らをぼおっと眺める。
彼らはどこに向かうのだろう。
そして川面を眺めていく。
この川はどこに流れていくんだろう。
「海に決まってる」
ジムのあの時の声が頭の中で何度も響き渡った。
そして見上げてふと前を見ると、少し先に誰かが座っているベンチが見えた。
エディナの鼓動が速くなる。
一歩一歩に震えが重なって、足場の悪さが彼女を阻もうとする。
だけど関係なかった。
エディナは空を飛ぶように走った。
石畳を蹴って、一秒でも速く……、と手を伸ばした。
「ジム!」
エディナの声が空を駆け抜けていく。
ベンチに座っていた誰かがゆっくりと立ち上がり、こっちを向いているような気がした。
「ジム! 私よ!」
エディナは振り絞るような声で再び叫んだ。
その声に呼応するように、「エディナ!」と声が返ってくる。
エディナは息を切らせて立ち止まる。
数メートル前にジムがいる。
エディナはそっと顔を上げて、彼をしっかりと見つめた。
そこには真っ直ぐに自分を見つめているジムがいた。
「ジムなのね……。私……、私……」
ジムは涙を堪えて立ち尽くすエディナの元にそっと近寄った。
そして、両手を広げてそっと抱きしめた。
「よかった。エディナ、もう一度君に会えて……」
声にならない嗚咽。
頬を涙が伝う。
肌を弾くように駆け抜けていき、それはジムの腕へと流れていった。
ジムは無言のまま、ずっとエディナを抱きしめていた。
ふたりはしばらく抱き合って、そして心が落ち着いたあとベンチに肩を寄せて座った。
そして、会えなかった日々を取り戻すように人目もはばからずに顔を寄せ合い、確かめるように頬や腕をまさぐりあう。
産毛もよだつような感覚が全身を包んで快感と恍惚の中に身を委ねた。
水鳥が水面を跳ねている。
番が嘴を寄せ合っている。
ふたりは会えなかった時間を取り戻すかのように抱き合う。
時間よ止まってほしい。
そして現実の世界でも同じように愛を確かめたいと思い合っていた。
*****
番が寄り添い、時間を止める。
番が羽ばたき、未来が動き出す。
ふたりの抱擁を見守りながら老人は呟く。
彼らの試練はまだまだ続く。これは序章にしかすぎない、と。
(第103話へつづく)