第35話 聖夜の邂逅
文字数 3,487文字
ミュージアムホールの活気は周辺の空気を暖めていく。
郊外にあっても隣接都市からの聴衆の利用も多い人気のホール。
人気アーティストのプログラムは即日完売で質も高いと口コミも上々だ。
200台以上停められる大きな駐車場は埋め尽くされ平日の倍ほどのタクシーが乗り付ける。
ミュージアムホールは中に入ると大小三つのホールがある。
小ホールの収容は200人前後、大ホールは500人程度の聴衆を魅了できる。
この夜のメインは地元企業主催のクリスマスコンサートだった。
ジムたちが招待されたプログラムは東側の小ホール。
反対側の小ホールでは大学の吹奏楽部の発表会が催されている。
いずれもクリスマスにちなんだプログラムでポスターの色彩に統一感があった。
先にミュージアムホールに着いたのはジムだった。
日はすっかり暗くなってホールを囲む巨大な電飾の光が眩い。
ジムはそれを見上げながら喧噪と興奮混じりの空気を割いていく。
雪が空から舞い降り、細かくてしなやかな雪は厚手のジャンパーにふれては沁みるように消えていった。
手持ちぶたさを紛らわすようにジムはホール外壁のプログラムポスターを端から眺めていく。
今日以降に行われるプログラムが時系列で並んでいて一際目立つところに今夜のメインコンサートのポスターがあった。
豪華なオーケストラを背景にアリアを歌うソプラノが大きく手を広げている。
その横にチケットと同じ写真のポスターがあった。
ジムは思い出したように便箋を取り出して見比べた。
ジムは少しの間ポスターを眺めて時間を潰していたが寒さに耐えきれなくなってホールの中に入る。
ミュージアムホールは正面玄関に入ると大きなチケット売場と三方向に入場口があった。
真ん中の入場口がメインホール、左右が小ホールでチケットチェッカーが奥に見える。
ジムは案内図を見ながらエントランスでホール全体の状況を把握する。
周りを見渡すと着飾った多くのカップルや家族連れなどで賑わいそれぞれがその時を待っていた。
ジムはサブホールのチケットチェッカー付近で待つことにした。
人混みに紛れていても妙にそわそわと落ち着かない。
普段以上に女性を気にかけてしまう。
エディナはどこにいるんだろうか。
夢の中の彼女を思い出しながら照らし合わせしまう。
それでも挙動不審に思われないように紳士的に振る舞う姿は思う以上に滑稽だろう。
気がつけば一帯の男女が色めき立った視線を送りあっていた。
中には相手を見つけている男女もいるようだ。
ジムがよそよそしくサブホール前で待っていた頃、エディナを乗せたタクシーが玄関口にたどり着いた。
長旅に疲れたような顔、メインプログラムの影響で道は大混雑、動かぬタクシーにやきもきしながら気持ちだけは逸りっぱなしだった。
じりじりと動き続ける車窓を眺めながら「歩いたほうが早いんじゃないかしら」と嫌味が迸る。
それでも雪解けの道は危険だし汚れている。
折角のドレスが台無しになるのは避けたかった。
エディナは車中で便箋を眺めながら逸る心を押さえつける。
そして時折、ふと車窓を眺めては変わらぬ景色に溜息をつく。
ホールの玄関口が見えた頃、時刻は18時40分を回っていた。
「化粧直しの時間ぐらいは……」
エディナは支払いを済まして玄関ホールに駆け足で入ると、人だかりをすり抜けて化粧室に向かった。
紅を新たに引き直し角度を変えて自分の顔を見つめる。
全身を鏡でチェックすると足早に化粧室を後にした。
バッグから便箋を取り出して辺りをキョロキョロ見渡す。
入り口はどこかしら。
よく見ると周りにも同じような便箋を持った男女がたくさんいた。
その多さに最初は驚いたがいつの間にか男性の顔だけを追っている。
ジムはどこかしら。
その一心でまさぐるように景色を撫でた。
男女の群がチケットチェッカーへと流れ始め、エディナはその波に身を任せる。
その頃ジムはすでにホールの中にいた。
コピーのチケットで入れたことに驚きながらそう言う仕様なのだろうと納得する。
同じような便箋がどんどんチケットチェッカーを潜り抜けていく。
正規チケットの半券と交換され「再入場の際に提示してください」と案内係の声が乱反射する。
モノクロのコピーに命が宿り、少しだけ現実的な感覚が襲ってくる。
いよいよだ、とジムは口元を引き締めた。
ホールに入るとすでに半分くらいの席が埋まっていた。
半券を頼りに席を探すとちょうど真ん中あたりの通路寄りだった。
ステージからは10メートルぐらいだろうか。
鑑賞にとっては悪くない席だった。
席に座ると両側はまだ空席のまま、周りを見回すと男女が交互に座っている。
ひょっとしたら左右どちらかにエディナが座るのだろうか。
それを意識すると背筋に妙な緊張感が走る。
いつもより姿勢良く座ったせいか普段使わない筋肉が悲鳴を上げている。
開演10分前になると照明が少しまばらになる。
ほとんどの席が埋まり往来が落ち着いてきたが隣は両方とも不在のまま。
すると左側に髪の長いウェーヴのかかった金髪の女性が静かに座った。
口元を覗かせるが暗くてはっきりとはわからない。
女性はジムが見ていることを察知したのか軽く会釈をする。
そしてその後、女性は反対側の男性と話し始めた。
開演5分前になるとホールの照明が落ちてスポットライトが煌めく。
その光が観客席を包み込む。
右側はまだ不在のままで焦燥感が動悸を連れてくる。
やがてホールの往来は消え観客はステージに視線を集中させる。
ステージ上では司会者らしき男がマイクスタンドのチェックを始め舞台袖のスタッフの右往左往が見えた。
開演間近。
それぞれの思惑の中緊張感が漲る。
その時、不在の右側にドレスを着た金髪の女性がそっと座った。
「失礼」
一言だけ声が響き、香水の甘い香りが漂った。
ウェーブのかかった髪が溶けてジムの右手を擦る。
エディナ?
ジムはおそるおそる横を見た。
そこには綺麗な顔立ちの高貴な美女が座っていた。
どこかで見たようなと記憶を辿ると、街角のショーウインドウを思い出す。
エディナではなかった。
ジムは落胆のまま足下の暗闇を見る。
そして自問しながら「隣に座るとは限らないじゃないか」と自分を慰めた。
開演時間になりステージの幕が開いた。
司会者が舞台袖から現れて拍手が沸き起こる。
ジムは顔を上げてステージを眺めた。
少し残念で歪な笑顔をしているのが自分でもわかった。
そんな中、右隣の女性はそわそわと辺りを見回し始める。
あの人はどこ?
その焦りの眼差しがスポットライトで照らされた観客の顔を撫でていく。
女性は遠くを見渡した後、ふと隣の男性を眺めた。
遠くを見つめる横顔。
女性の顔がほころぶ。
「ジム……」呟きは喝采と拍手に消えた。
ジムの記憶にない女性、彼女こそがエディナだった。
時が止まればと思いながらエディナはジムの横顔を眺める。
すると視線に気づいたのかジムはゆっくりと右側を向いた。
美女が微笑んでいる。
ジムにはそれが不思議でならなかった。
刹那、視線が交わり時を重ねる。
ステージの照明が瞬き旋律が会場を覆い始めた。
ふたりはお互いの顔をはっきりと認識する。
ジムは随分と綺麗な女性が真剣に自分を見つめていると思い焦る。
エディナはようやく会えた現実が嬉しくて言葉を失っていた。
エディナがそっと手を伸ばそうとすると、ジムは軽く会釈をして顔を背けてステージの方を見た。
「気づいていない? そんな?」
心の声が漏れて聞こえそうだ。
ふたりを包むはずの音楽が彼らを分断してしまう。
ジムの横顔を眺めながらエディナは重大なことを思い出す。
夢の中の自分の姿が本当の姿とはかけ離れてしまっていたことを。
エディナは呆然とジムの横顔を眺め続けた。
心がどこかへ行ってしまう。
エディナの頬にひとすじの涙がこぼれ落ちた。
*****
涙には色があると言う。
記憶の欠片が溶けている色だ。
ホールの来賓席からふたりを見つめて老人は微笑む。
業はふたりを試し始めた。結末は神のみぞ知る、と。
(第36話につづく)
郊外にあっても隣接都市からの聴衆の利用も多い人気のホール。
人気アーティストのプログラムは即日完売で質も高いと口コミも上々だ。
200台以上停められる大きな駐車場は埋め尽くされ平日の倍ほどのタクシーが乗り付ける。
ミュージアムホールは中に入ると大小三つのホールがある。
小ホールの収容は200人前後、大ホールは500人程度の聴衆を魅了できる。
この夜のメインは地元企業主催のクリスマスコンサートだった。
ジムたちが招待されたプログラムは東側の小ホール。
反対側の小ホールでは大学の吹奏楽部の発表会が催されている。
いずれもクリスマスにちなんだプログラムでポスターの色彩に統一感があった。
先にミュージアムホールに着いたのはジムだった。
日はすっかり暗くなってホールを囲む巨大な電飾の光が眩い。
ジムはそれを見上げながら喧噪と興奮混じりの空気を割いていく。
雪が空から舞い降り、細かくてしなやかな雪は厚手のジャンパーにふれては沁みるように消えていった。
手持ちぶたさを紛らわすようにジムはホール外壁のプログラムポスターを端から眺めていく。
今日以降に行われるプログラムが時系列で並んでいて一際目立つところに今夜のメインコンサートのポスターがあった。
豪華なオーケストラを背景にアリアを歌うソプラノが大きく手を広げている。
その横にチケットと同じ写真のポスターがあった。
ジムは思い出したように便箋を取り出して見比べた。
ジムは少しの間ポスターを眺めて時間を潰していたが寒さに耐えきれなくなってホールの中に入る。
ミュージアムホールは正面玄関に入ると大きなチケット売場と三方向に入場口があった。
真ん中の入場口がメインホール、左右が小ホールでチケットチェッカーが奥に見える。
ジムは案内図を見ながらエントランスでホール全体の状況を把握する。
周りを見渡すと着飾った多くのカップルや家族連れなどで賑わいそれぞれがその時を待っていた。
ジムはサブホールのチケットチェッカー付近で待つことにした。
人混みに紛れていても妙にそわそわと落ち着かない。
普段以上に女性を気にかけてしまう。
エディナはどこにいるんだろうか。
夢の中の彼女を思い出しながら照らし合わせしまう。
それでも挙動不審に思われないように紳士的に振る舞う姿は思う以上に滑稽だろう。
気がつけば一帯の男女が色めき立った視線を送りあっていた。
中には相手を見つけている男女もいるようだ。
ジムがよそよそしくサブホール前で待っていた頃、エディナを乗せたタクシーが玄関口にたどり着いた。
長旅に疲れたような顔、メインプログラムの影響で道は大混雑、動かぬタクシーにやきもきしながら気持ちだけは逸りっぱなしだった。
じりじりと動き続ける車窓を眺めながら「歩いたほうが早いんじゃないかしら」と嫌味が迸る。
それでも雪解けの道は危険だし汚れている。
折角のドレスが台無しになるのは避けたかった。
エディナは車中で便箋を眺めながら逸る心を押さえつける。
そして時折、ふと車窓を眺めては変わらぬ景色に溜息をつく。
ホールの玄関口が見えた頃、時刻は18時40分を回っていた。
「化粧直しの時間ぐらいは……」
エディナは支払いを済まして玄関ホールに駆け足で入ると、人だかりをすり抜けて化粧室に向かった。
紅を新たに引き直し角度を変えて自分の顔を見つめる。
全身を鏡でチェックすると足早に化粧室を後にした。
バッグから便箋を取り出して辺りをキョロキョロ見渡す。
入り口はどこかしら。
よく見ると周りにも同じような便箋を持った男女がたくさんいた。
その多さに最初は驚いたがいつの間にか男性の顔だけを追っている。
ジムはどこかしら。
その一心でまさぐるように景色を撫でた。
男女の群がチケットチェッカーへと流れ始め、エディナはその波に身を任せる。
その頃ジムはすでにホールの中にいた。
コピーのチケットで入れたことに驚きながらそう言う仕様なのだろうと納得する。
同じような便箋がどんどんチケットチェッカーを潜り抜けていく。
正規チケットの半券と交換され「再入場の際に提示してください」と案内係の声が乱反射する。
モノクロのコピーに命が宿り、少しだけ現実的な感覚が襲ってくる。
いよいよだ、とジムは口元を引き締めた。
ホールに入るとすでに半分くらいの席が埋まっていた。
半券を頼りに席を探すとちょうど真ん中あたりの通路寄りだった。
ステージからは10メートルぐらいだろうか。
鑑賞にとっては悪くない席だった。
席に座ると両側はまだ空席のまま、周りを見回すと男女が交互に座っている。
ひょっとしたら左右どちらかにエディナが座るのだろうか。
それを意識すると背筋に妙な緊張感が走る。
いつもより姿勢良く座ったせいか普段使わない筋肉が悲鳴を上げている。
開演10分前になると照明が少しまばらになる。
ほとんどの席が埋まり往来が落ち着いてきたが隣は両方とも不在のまま。
すると左側に髪の長いウェーヴのかかった金髪の女性が静かに座った。
口元を覗かせるが暗くてはっきりとはわからない。
女性はジムが見ていることを察知したのか軽く会釈をする。
そしてその後、女性は反対側の男性と話し始めた。
開演5分前になるとホールの照明が落ちてスポットライトが煌めく。
その光が観客席を包み込む。
右側はまだ不在のままで焦燥感が動悸を連れてくる。
やがてホールの往来は消え観客はステージに視線を集中させる。
ステージ上では司会者らしき男がマイクスタンドのチェックを始め舞台袖のスタッフの右往左往が見えた。
開演間近。
それぞれの思惑の中緊張感が漲る。
その時、不在の右側にドレスを着た金髪の女性がそっと座った。
「失礼」
一言だけ声が響き、香水の甘い香りが漂った。
ウェーブのかかった髪が溶けてジムの右手を擦る。
エディナ?
ジムはおそるおそる横を見た。
そこには綺麗な顔立ちの高貴な美女が座っていた。
どこかで見たようなと記憶を辿ると、街角のショーウインドウを思い出す。
エディナではなかった。
ジムは落胆のまま足下の暗闇を見る。
そして自問しながら「隣に座るとは限らないじゃないか」と自分を慰めた。
開演時間になりステージの幕が開いた。
司会者が舞台袖から現れて拍手が沸き起こる。
ジムは顔を上げてステージを眺めた。
少し残念で歪な笑顔をしているのが自分でもわかった。
そんな中、右隣の女性はそわそわと辺りを見回し始める。
あの人はどこ?
その焦りの眼差しがスポットライトで照らされた観客の顔を撫でていく。
女性は遠くを見渡した後、ふと隣の男性を眺めた。
遠くを見つめる横顔。
女性の顔がほころぶ。
「ジム……」呟きは喝采と拍手に消えた。
ジムの記憶にない女性、彼女こそがエディナだった。
時が止まればと思いながらエディナはジムの横顔を眺める。
すると視線に気づいたのかジムはゆっくりと右側を向いた。
美女が微笑んでいる。
ジムにはそれが不思議でならなかった。
刹那、視線が交わり時を重ねる。
ステージの照明が瞬き旋律が会場を覆い始めた。
ふたりはお互いの顔をはっきりと認識する。
ジムは随分と綺麗な女性が真剣に自分を見つめていると思い焦る。
エディナはようやく会えた現実が嬉しくて言葉を失っていた。
エディナがそっと手を伸ばそうとすると、ジムは軽く会釈をして顔を背けてステージの方を見た。
「気づいていない? そんな?」
心の声が漏れて聞こえそうだ。
ふたりを包むはずの音楽が彼らを分断してしまう。
ジムの横顔を眺めながらエディナは重大なことを思い出す。
夢の中の自分の姿が本当の姿とはかけ離れてしまっていたことを。
エディナは呆然とジムの横顔を眺め続けた。
心がどこかへ行ってしまう。
エディナの頬にひとすじの涙がこぼれ落ちた。
*****
涙には色があると言う。
記憶の欠片が溶けている色だ。
ホールの来賓席からふたりを見つめて老人は微笑む。
業はふたりを試し始めた。結末は神のみぞ知る、と。
(第36話につづく)