第57話 流れゆく灰色に取り残された街

文字数 3,802文字

 深夜に降り続いた雪が積もり、じんわりと靴底から冷気を体に染み込ませる。
 滑りそうな螺旋階段、石畳の路地にジムはいた。

 喧噪に沸く表通りに出ると、群衆の息と生活の熱が雪を空へと環している。
 ジムは襟元を立てたコートを靡かせながらいつもの道を行く。
 昨夜の傷は癒えようもない。
 だがそれで放棄できるほど職務は甘くない。

 人混みが風を遮る。
 だが心に吹き荒ぶ風を防ぐ手だてはない。
 ジムはいまだ昨夜の呪縛から逃れられずにいた。


 署は相変わらず慌ただしさの中に弛緩まじりの緊張感が漂っていた。
 昨夜のことを知る者がいないとは言え、ジムの心に邪念が走る。
 進まぬ捜査に心を奪われている同僚にとっては些末な寓話。
 恥を受け入れたと言っても穏やかに過ごせるほど大人でもない。

 
「このままでは年を越すな」誰かのぼやきが季節を連れてくる。
 行く年に心からの笑顔を連れて行けない。
 そんな悔しさと無力感が署員の心を締め付けている。
 事件からおよそ一ヶ月。
 それぞれの心は現実のルーティンへと誘われつつあった。

 住民からの情報もすっかりと途絶え、あれほど出入りの激しかった私服も今は寄り付きさえしない。
 ジャスティンに提供する情報が署に降りてくることはなく特別捜査班の中で留まっているようだった。


 ジムもすっかりと緊急体制の任を解かれ日常の業務に埋没する。
 徒歩で街の治安を眺めながら、時折住民と何気ない話をする。
 日が重なるにつれて事件のこともほとんど聞かれなくなったし聞くこともない。
 このまま風化して、誰もが忘れてしまう?
 ジムは時折そんな感情に支配された。

 この事件以外に何も起こっていない現実が住民を安心させている。
 銃声を忘れさせるための時間が豊富だったのは間違いない。


 ジムは灰色の空を眺めながら過ぎていく時間の速さを雲の動きに見立てていた。
 雲はゆっくりに動いているように見えても実際は凄まじいスピードで流れゆく。
 立ち止まったままのビルが自分に思えて仕方ない。


 その日の午後、ジムは同僚のトムと街頭巡回の当番だった。
 無音の回転灯を煌めかせて違反を未然に防ぐ為に街を縦横無尽に走るだけの仕事。
 何かに遭遇することもない。
 日常に埋もれる事故や違反は軽微にも満たず、回転灯の光が抑止力になるほど治安は悪くない。
 のどかな日常は徐々に街を包んで過去を消し去ろうとしている。

「なあ、このまま終わるかな」運転席のトムはふと思い出したかのように呟いた。
 ジムも彼の意図を察して「かもな」とだけ返した。

「それにしても妙な事件だった。何であいつは殺されなきゃならなかったんだろうな。新しい仕事場を斡旋されて資格まで取って、さあこれからってときに……」

「わからんよ」

 ジムはトムが知り得ない情報をうっかり喋ってしまいそうで怖かった。
 公私の微妙な情報が彼の窮屈な頭の中を翻弄していく。

 被害者の部屋から見つかった遺留品。
 それが何らかの発明や会合への案内であること、彼の勤務先情報などは捜査員に公開されている。
 ジムが動いたことによって得られた情報もあるが情報源に関しては機密だ。
 よもや隣にいる男が情報源で同じ発明への参加者だとは思いもよらないだろう。

 話せることがなくて、最近の巡回では聞き役に徹するしかない。
 トムは影でスピーカーと揶揄されるほどにおしゃべりで誰に何を言ってしまうか分からない。
 重役の運転手を任されることもあって評価に響くと困ると誰もが嘯く。

 無論、重役もトムの性格と資質を分かって起用していて、適度に流れてほしい情報を雑談に交えて話していた。
 それが噂話として浸透していく。
 うまく使えば良いスピーカー、失敗すれば筒抜けの拡声器に他ならない。
 調子者のトムはそんな思惑などおかまいなし。
 ただ話すことが好きなだけで所構わずに軽口を叩き続けていた。

 ジムは重役に自分の話が筒抜けになるのは問題ないと思っていた。
 おそらくは共有されている可能性の方が高い。
 だが同僚にまで話が広がるのは勘弁だ。
 同じ発明に参加していたという話が広がると誰もが興味本位で聞いてくるだろう。
 下世話な噂話だけならまだしもそんな噂はどこを一人歩きするかもわからない。
 こいつにだけは喋ってはダメだ。
 ジムはそう心に言い聞かせながら慎重に言葉を選んでいた。

「あの発明ってやつの中身はなんなんだろうな。あの手紙の文面だと未来を見せてくれるみたいだけど……。夢でも見るのかな?」

「さあな。安眠枕から音楽でも流れてくるとか……」

「そんな証拠品はなかったぞ」

「冗談だよ。たとえばの話さ」

「だよな。でも案外そんなものかもな。でもさ……」

 トムが急に神妙な顔つきになった。
 そしてハンドルを握りながら顔を近づけて囁いた。

「見せられた未来に納得がいかなくて、それで相手を殺すって言うのなら話はわかるけど、あいつが殺されるってのは理解できない」

 トムの問いかけは誰もが共感する疑問だ。

「それにさ、この問題に関してはお偉いさんも頭を抱えているらしい」

「どう言うことだ?」

「被害者の元会社あるだろ、ESCなんとか……」

「メディアカンパニーか」

「そ、そう。その会社からの圧力がスゴいんだってさ。報道各社への圧力も相当らしい。あいつら被害者面しているからな」

「そりゃ、元社員だからだろ。関係ないと言いたいんだろう」

「でもさ、斡旋した事務所との関係とかあんまり知られたくないところを探るじゃないか。特にマスコミは。それで捜査上でも報道上でもあんまり名前を出すなってさ。本署には直々に社長さんがお見えになったそうだ」

「へぇ……、そりゃ初耳だ」

「マスコミは憶測で記事を書くからな。あたかもESCが殺したみたいな書き方をするところもある。解雇したから殺されたなんてな」

「そりゃ、ヒドいな。解雇と言えばそうだろうけど、ESCとしては建前上仕事を斡旋してるんだろ。そう言われるのは心外だろうな」

「まあ、そこはきな臭いもの同士、好きにやってくださいってところだけどな」

「それはどう言う意味だ?」

「まあ、ESCは上場を果たすまでに色々とあったみたいだからさ」

「色々って何が?」

「ゴシップを信じる気があるならネットで拾って見ろ。溢れるほど噂話はたくさんあるぜ。どれが真実かは分からないし、真実があるのかも分からない。それでも百の嘘の中にひとつぐらいは真実があるはずだ。でないと……」

「煙のないところに、って奴か」

「そう、それだよ。急成長の裏には色々あるってことよ」

 トムはネットやマスコミの記事があたかも自分の知識のようにひけらかす。
 ジムは苦笑しながらも一連の動きのきっかけがESCメディアカンパニーにあるという憶測は否定できないと思った。
 それにしてもネットの声だと?
 理解のできない領域がこの社会の中に浸透していることに愕然としていた。

「おっと、噂のESCだぜ」

 トムは左窓を指差した。
 いつの間にかビジネス街の一角に入り、ふたりの眼前にESCメディアカンパニーの本社ビルが視界に入ってくる。
 よく見ると挙動不審な連中がビルの周辺にいるのが見えた。
 警備員が睨みを効かせている為か近寄る気配はないが遠目から見ると不審者続出の光景だ。

「ほら、あいつらネタ探しに今でもウロウロしているみたいだぜ」

「あれか? へぇ……」

 以前にここに訪れたときにはあんな連中はいなかったのに。
 ジムは拙い記憶がまさぐるが何も出てきそうになくて苦笑した。
 まあ休日だったからかもな。
 情報を得られるほど人気もなかった。
 そう言い聞かせて車窓の不審を視界から消す。

「職質する?」

「やめとけ、意味ないだろ」

 トムのおとぼけも悪質極まりない。
 ジムは窓越しにビルを見上げながら写り込んだ雲の動きを眺めた。
 

 しばらく停滞していたパトカーは回転灯を揺らめかせてESCを去る。

「どこへ?」ジムはルートから外れていくトムに訊いた。

「ああ、そろそろかと思って」

 意味がわからず、黙ったまま行く先を眺める。
 すると角を曲がったところで本署が姿を現した。

「お迎えね」

 トムは駐車場に入れず、道を挟んだ向かい側に停車した。
 慣例になっているようで玄関前の制服が手を上げて合図をする。
 それに応えるようにハザードランプを一瞬煌かせると、トムはエンジンを切って回転灯を沈黙させた。

「のんびり待とう」

 トムはそう言ってリクライニングを倒し体を預けた。
 ジムはそれを横目に何となく本署の方をじっと眺める。
 制服が深々を頭を下げるのが見えた。
 恰幅が体重を石段に軋ませる。
 そしてこちらに気付いて軽く手を振って歩いてきた。

*****

 灰色の空が地平線まで続いている。
 目的地を雲に聞いても答えてはくれない。
 雲景色のビルの上から老人が見下ろして呟く。
 暗雲は必要な場所に滞るがそれには意味があるのだよ、と。

(第58話につづく)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み