第72話 音の向こうに希望はあるか

文字数 3,582文字

 アンナはセントラル病院に運ばれた。
 ビジネス街の一角にある病院でこの街の医療の根幹を握っている。
 トリアージに関わらず、ほぼすべての被害者の受け入れが始まろうとしていた。

 アンナは軽症患者に分類され、ブルーシートの敷かれた大広間に誘導される。
 周りにも煤だらけの一般人、警察官などがいたが、動ける警察官は現場に戻って救助活動への参加を懇願する。
 医師の診察を終えて、許可の出た者から順次警察のワゴンに乗って現場へと戻っていった。

 アンナは放心状態のまま動けずにいた。
 看護師に毛布を渡されても体が言うことを聞かない。
 体に被せられた毛布が力なく解けても、それに抗う力は残っていなかった。

 運ばれてくる煤だらけの被害者を視線だけで追う。
 エディナが運ばれてこないだろうか。
 私と同じ場所に連れてきて。
 そう願いながら、集中力を切らさないようにと病院の入り口を凝視していた。

「アンナ! アンナ!」聞き覚えのある声、スタッカートだった。
 雑音に思えた叫び声が次第にアンナの中で希望の声へと変わってくる。

「アンナ!」声がすぐ近くで響いた。

「スタッカート!」アンナは突然叫んで立ち上がる。
 それに気づいたスタッカートは傍に駆け寄って彼女を抱きしめた。

「嫌な予感がしたんだよ、アンナ」

「ごめんなさい……」

「いいんだ。無事なら……」

 スタッカートの暖かみにアンナの頬が濡れていく。
 煤が泥に変わって顔じゅうを埋め尽くしていく。

「どうしてここが?」

「今はそんなことは気にしなくていいよ」

「そうね……」疲労が思考を勝りアンナを襲う。

 スタッカートはジョセフの誘導でここに一緒に来たとは言えなかった。
 彼に入った一本の電話から署に直行し、警察無線を傍受して先回りでここに来たからだ。
 ジョセフはスタッカートをここに降ろした後、一目散にESCに戻っていてここにはいない。
 一緒にいるところを見られたらそれはそれで面倒になるところだった。

 アンナはぐったりとしていたがふと思い出したように叫び出す。
「スタッカート! エディナさんが!」

「一緒だったのか?」スタッカートは嘯く。
 余計な詮索はされたくなかった。

「そう……、でも途中で……」

「わかった。引き続き僕も捜してみるよ。君はここで待っていておくれ。それと10分おきに彼女の携帯を鳴らしておくれ。それが目印になるかもしれないから」

 スタッカートはそう言うと病院に来ていた警察官の群の中に消えていく。
 そして「エディナを見なかったか」と特徴を交えて情報を集めていく。
 警察官は首を横に振りながらも次々に入ってくる無線に対応していた。

 スタッカートは病院のフロアを隈無く捜していく。
 どこかに運び込まれているかも知れない。
 無事でいておくれ。
 そう願い続けるしかなかった。
 緑、黄色、赤、黒…。
 それぞれのシートを捜していく。
 どうか黒や赤のシートにはいないでおくれ。
 そう言い聞かせながらスタッカートの捜索は続いた。

 リリリリリ…。

 突然、スタッカートの携帯電話が鳴った。
 相手はヴァンガードだった。

「今どこに?」

「セントラル病院だ」

「エディナは無事か?」

「まだ見つかっていない」

「わかった。俺は現場の方に行くから病院の方を捜してくれ」

「そっちは任せる。それとアンナが10分おきに彼女の携帯を鳴らすから、それが合図になると伝えてくれ」

「わかった。恩に着るよ」

 普段とは違ったヴァンガードの悲壮感、焦燥感が伝わってくる。

 スタッカートは一通りフロアを捜索して、病院事務員に「このフロアだけか?」と確認する。
 事務員が頷くとスタッカートはアンナの元に戻った。

「まだここには来ていないみたいだ。あんまり騒いでも迷惑だからね。じっと待とう。それにヴァンガードが……、父親が現場に出向くそうだ」

「そう……、良かった」

 アンナは疲れ切って眠るようにスタッカートに寄り添う。
 そして目を閉じて、しばしの安息を待った。
 スタッカートは彼女の携帯を預かってコールを続けた。


 どうして彼はここがわかったんだろう。
 嫌な予感ってなんだろう。
 難しいことを考えるのは疲れた。
 アンナは疲れ果て、いつの間にか眠っていた。

 スタッカートは顔の煤を払いながら我が子を抱くようにぐっと肩を引き寄せた。


 一方その頃、ヴァンガードとジョセフがようやく現場に到着した。
 縦横無尽に乱列して放水をする消防車の群の中に旧車が颯爽と現れる。
 ジョセフは適当なところに車を止め、二人は燃えさかる分署へと走っていった。

「中は危険です!」煤まみれの警察官がふたりを制止する。

「娘がいるんだ!」

「気持ちはわかりますがあなたがたが危険に晒される」

 興奮するヴァンガードをよそにジョセフは冷静に尋ねた。

「今どれくらい救助は進んでいるんだ?」

「はっきりした数はわかりませんが、あと数人がまだ中のフロアにいるみたいで……」

「それは1階の話か? 2階は?」

「1階だけですね。2階に関しては火の勢いが強すぎて消火が最優先です」

「わかった。ありがとう」ジョセフはそう言うとヴァンガードを前線から引き離す。

「2階は絶望的ですが一般人が入るフロアではありません。いるとすれば1階の入り口付近のはずですから」

「そうだな。無事を祈るしかない」

「大丈夫ですよ。エディナ様がこんな火事で死ぬはずがない。彼女は神に守られている」

「そうであることを祈るよ」

 ピピピピ……。

 ふたりの会話を遮るように微かな音が聞こえてきた。
 ヴァンガードはスタッカートの言葉を思い出す。「あの音はどこから……」

「音がどうしました?」ジョセフには周囲を気にかける彼の意図が読めずにいる。

「スタッカートがエディナの電話を鳴らすと言っていた」

「捜しましょう!」

 ふたりは微かな音を追う。
 どうやら搬送を待っている集団から聞こえてくるようだ。

「すまないが、あの携帯の音のところまで行かせてくれ」ジョセフは消防隊員に懇願する。

 彼は頷いてふたりを音のところにまで誘導した。
 向かう先にはストレッチャーに乗せられた黒ずくめの被害者がいた。
 エディナであることを祈りながらも最悪のことが頭を巡る。
 ヴァンガードの足取りは重く、一歩一歩が懺悔の道のように感じる。

 近づくにつれて姿や格好がはっきりとしてきた。
 女性のようだ。
 髪は肩まで伸びたブロンドだろうか、レギンスが焼け焦げて変色している。
 眠っているのか?
 近くに救助班はいない。
 どちらの事実を突きつけるのだろう。
 着信音は太股のあたりから鳴っていた。

「エディナ……、エディナ……」ヴァンガードは思わず走り出す。
 ジョセフもレスキューも彼を追った。
 そして駆け寄ると同時に着信音が消えた。

 ヴァンガードはおそるおそる顔を確認する。
 顔に包帯が巻かれていて目だけが露出している。
 たが、すぐにエディナだとわかった。

「エディナ! エディナ!」ヴァンガードの悲痛な叫びが響いた。
 それでもエディナは目を覚まさない。

「誰か!」ジョセフが近くのレスキューに声を掛ける。

「彼女は大丈夫なのか!」

 レスキューはストレッチャーに添えられたボードで彼女を確認する。

「顔に火傷と足に骨折があります。今は顔の処置を終えて救急車の到着を待っています。命に別状はありません」

「どれくらいかかる?」

「わかりません。重傷を優先しているので……」

「彼女が重傷ではないと?」

「落ち着いてください。他の方に比べると軽症という意味です。ただし火傷が酷いのでできるかぎり清潔な場所に移せるように依頼してあります」

「わかった。すまなかった」

「いえ、お気持ちはわかります。もう少しお待ちください」

 レスキューはそう言い残して現場へと戻っていく。
 ジョセフは深々と頭を下げた。
 ヴァンガードはエディナの傍でただひたすらに泣き崩れていた。

 ジョセフが劫火を見上げると黒色の中の朱が奇妙に揺らめいていた。
 そしておもむろに携帯を確認する。
 ひとつメッセージが届いていた。
 彼はそれを確認すると、口元を隠してそっと目を閉じた。

*****

 劣等感に苛まれ続ける魂たちよ。
 無限軌道に弄ばれる魂たちよ。
 鳴り響くサイレンの渦を俯瞰して老人は呟く。
 偽りのない業の果てに魂の浄化は許されるのだろうか、と。

(第73話につづく)
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