第71話 灼熱の中で希望を信じたい
文字数 3,234文字
アンナがふと見上げるとちょうど署の二階部分が帯状に燃えていた
ほぼすべてのガラスは吹き飛び、寂しげな窓枠を炎が攻め続けている。
コンクリートの壁は爛れ溶けだして、脆く哀れな素肌を晒していた。
出火5分で消防車が到着し放水作業に入る。
アンナの目の前で放水を始まり、レスキュー隊が煙に消えていく。
そして次々と誰かを抱えて出てくる。
比較的入り口近くにいたから助かるはず、という希望を胸にアンナは祈っていた。
「あなたは大丈夫ですか?」近くにいた煤塗れの警察官が尋ねた。
「ええ、私は大丈夫。でも、中に……」震える指を伸ばして燃えさかる警察署を指差した。
「家族の方がいるのですか? それともご友人ですか?」別の警察官がそばに駆け寄って訊く。
「家族みたいなものよ」
アンナの動揺と震えを察知して警察官のひとりが肩を抱いた。
アンナはハッと我に返って、「エディナ……、エディナ……」と譫言のようにか細い声を絞り出していた。
「エディナさんと言う方が中にいるのですね? どの辺にいたか覚えていますか?」
「入り口の案内板の近くで……。でも、逃げる人の下敷きになって……。私、手を離してしまった……。ジムになんて言えばいいの……」
「ジム? その男性も中に?」
「ジムは警察官よ」
「警察官?」
「ええ、彼に会いに……、いや……、そうじゃなくて……」
アンナは動揺し自分でも何を言っているのかわからなくなっている。
警察官はこれ以上は混乱させるだけだと感じたのか、「わかりました。全力で助け出します。あなたもかなり火傷をしている。治療を受けてください」と言って手を挙げた。
それを合図に、何人かのレスキュー隊員が駆け寄ってくる。
「頼むぞ」そう言ってアンナを託すと警察官は無線に叫びながら現場へと走っていった。
アンナは担架に乗せられて近くに待機していた救急車に運ばれる。
どんどんと意識が遠のく中でエディナとの距離も遠ざかっていくのがわかった。
涙が滲んで黒煙の煤が視界を遮っていく。
アンナを乗せた救急車はアベニューを疾走した。
赤い回転灯を回しながら周囲の笑顔を紅く染めていく。
誰もが良からぬ事態を悟りながら悲壮な表情を浮かべて見守る。
救急車は路駐で狭くなったアベニューを駆け抜けながら一路救急病院へと走っていった。
バーン!
何かが弾けるような音がした。
壁の一部が壊れて中から堆く炎が立ち上った音だ。
放水が集中的にそこを攻めていく。
水しぶきの中を駆けるレスキュー。
額につけた僅かな光は命を探して奔走している。
足下に横たわっている誰かを見つけては抱え込むようにして応援を呼ぶ。
その作業は延々と続いた。
「一体何人の犠牲者が……」陣頭指揮を執るレスキュー隊のオリバーが呟いた。
「常勤120名に数10人の市民がいたとの情報があります。まだ正確な数字が出ていませんし鎮火のメドは立っていません」部下のジェシィが報告を上げた。
「それはわかっているよ」
「火の勢いと炎の種類からおそらくは爆発物によるものと推定されています。2階部分のガラスの融解状況から察すると複数箇所に仕掛けられたものかと」
「2階には何人いる?」
「署員35名。電脳捜査課と麻薬捜査課、それに総務、会計といったところですね。武器庫があるようでそこに引火した可能性も……」
「一般市民は?」
「立ち入っている可能性は低いかと思われます」
「それで2階部分の生存者はどれだけ確認できている?」
「それが……」
「どうした?」
「麻薬捜査課は全員不明。電脳捜査課は数名を除いて……。他はまだ情報が入っていません」
「そうか……、その……、電脳捜査課は何人が無事だ? 詳しいことが聞けるかも知れん」
「それが……」
「どうした?」
「無事だった捜査員はここにはいなかった者たちです」
「いなかった?」
「ええ、本署の会議で出向していまして、火事を聞きつけてここに向かっているところです」
「なんだそれは?」
「さあ、詳しくはなんとも……」
「ところで、例の噂は麻薬捜査課だったよな」オリバーは急に小声になる。
「ええ……、例のアレですか……。でもトップが変わって、あの部署の人間も一新されたはずでは……」
「その一新ってのが動機かもな」
「どういうことです?」
「もっと頭を働かせろ!」オリバーはジェシィの頭をポンと叩いた。
野次馬の彼方で白煙といきりたつブレーキ音が響く。
オリバーがそれに気づいて振り返ると、旧式から駆け寄るジャスティンの姿が見えた。
「おでましか……。あの人が絡んでいるにしては随分と派手な展開を見せているな」
オリバーはそう呟いたあと、ジャスティンに向かって走っていく。
後からついて来たコトリーは数歩近づいてから炎の惨劇に見入って立ち尽くしていた。
「ジャスティン!」オリバーの叫び声にジャスティンが気づく。
「オリバー!」
「ジャスティン、例の内偵絡みか?」
「なんとも言えないが、まあ……」
「ここまで派手にやるとは……」
「逸るなよ、オリバー」
「逸りはしないが……」
「言いたいことはわかるがな。まだ影すら踏めていない」
「君でもか?」
「ああ、そうだ。それとこいつの発表は2階武器庫で発火して延焼。これで行くぞ」
「ええ!」オリバーとコトリーが声を上げる。
「それは……、納得するか?」
「誰を納得させたいんだ?」
「いや……、しかし」
「じゃあいつの間にか爆弾魔に入られて営業時間内にドカンとやられましたって発表するのか?」
「そう言う訳じゃ……」
「そんなゴシップは邪推好きの新聞にやらせとけ。あくまでも定期点検中の火器が暴発して引火ってことで統一だ!」
いつにもましてジャスティンが声を荒げる。
オリバーは恐縮したように覇気に押されて口を噤んだ。
「ジムはどこにいる?」不意にジャスティンがコトリーに訊いた。
コトリーは記憶を辿りながら「署外に出ているはずだが……」と呟く。
「連絡は取れないか?」
「やってみよう」
コトリーがそう言って携帯を取り出すと、既に複数のジムからの着信があった。
時間は発火時間に近い。
「ダメだ。電話に出ない」着信履歴を何度タップしてもコールはすぐに切れてしまう。
「無事だといいんだが……」
「あいつのことですから」コトリーはこの火災の直前のジムの行動を思い起こす。
巻き込まれた可能性もあるがこの着信履歴は彼の生存を示すものだろう。
「信じましょう」コトリーはそう言うと手袋を填めて担架の移動を手伝いに走った。
ジャスティンは思慮にまみれながら立ち尽くす。
すると緊急用の携帯電話が鳴り響いた。
「状況はどうだ?」本署の署長だ。
「どうだもこうだもありませんよ」
「空撮も入ってきているようだな。こっちで見ているが詳しい状況がわからん」
「複数の爆発物が同時にドカン! ってとこですかね。2階部分の人気の少ないところを狙われたようです」
「何人が無事だ?」
「わかりません。確認できているのは本署に出向していた電脳班7名だけです」
「そうか、引き続き捜査を頼むよ。逐一報告してくれたまえ」
「了解しました」
ジャスティンは電話を切ると叩きつける仕草をして力なくポケットに放り入れた。
そして、震える口元を結んで現場へと走って行った。
*****
さまよえる魂よ、安堵を求めたまえ。
昇華する思い出たちよ、成就の法をたぐりたまえ。
水神に畏れを見せてきた炎を眺めながら老人は呟く。
良き行いには良き結果を。それが神の導きならば、と。
(第72話につづく)
ほぼすべてのガラスは吹き飛び、寂しげな窓枠を炎が攻め続けている。
コンクリートの壁は爛れ溶けだして、脆く哀れな素肌を晒していた。
出火5分で消防車が到着し放水作業に入る。
アンナの目の前で放水を始まり、レスキュー隊が煙に消えていく。
そして次々と誰かを抱えて出てくる。
比較的入り口近くにいたから助かるはず、という希望を胸にアンナは祈っていた。
「あなたは大丈夫ですか?」近くにいた煤塗れの警察官が尋ねた。
「ええ、私は大丈夫。でも、中に……」震える指を伸ばして燃えさかる警察署を指差した。
「家族の方がいるのですか? それともご友人ですか?」別の警察官がそばに駆け寄って訊く。
「家族みたいなものよ」
アンナの動揺と震えを察知して警察官のひとりが肩を抱いた。
アンナはハッと我に返って、「エディナ……、エディナ……」と譫言のようにか細い声を絞り出していた。
「エディナさんと言う方が中にいるのですね? どの辺にいたか覚えていますか?」
「入り口の案内板の近くで……。でも、逃げる人の下敷きになって……。私、手を離してしまった……。ジムになんて言えばいいの……」
「ジム? その男性も中に?」
「ジムは警察官よ」
「警察官?」
「ええ、彼に会いに……、いや……、そうじゃなくて……」
アンナは動揺し自分でも何を言っているのかわからなくなっている。
警察官はこれ以上は混乱させるだけだと感じたのか、「わかりました。全力で助け出します。あなたもかなり火傷をしている。治療を受けてください」と言って手を挙げた。
それを合図に、何人かのレスキュー隊員が駆け寄ってくる。
「頼むぞ」そう言ってアンナを託すと警察官は無線に叫びながら現場へと走っていった。
アンナは担架に乗せられて近くに待機していた救急車に運ばれる。
どんどんと意識が遠のく中でエディナとの距離も遠ざかっていくのがわかった。
涙が滲んで黒煙の煤が視界を遮っていく。
アンナを乗せた救急車はアベニューを疾走した。
赤い回転灯を回しながら周囲の笑顔を紅く染めていく。
誰もが良からぬ事態を悟りながら悲壮な表情を浮かべて見守る。
救急車は路駐で狭くなったアベニューを駆け抜けながら一路救急病院へと走っていった。
バーン!
何かが弾けるような音がした。
壁の一部が壊れて中から堆く炎が立ち上った音だ。
放水が集中的にそこを攻めていく。
水しぶきの中を駆けるレスキュー。
額につけた僅かな光は命を探して奔走している。
足下に横たわっている誰かを見つけては抱え込むようにして応援を呼ぶ。
その作業は延々と続いた。
「一体何人の犠牲者が……」陣頭指揮を執るレスキュー隊のオリバーが呟いた。
「常勤120名に数10人の市民がいたとの情報があります。まだ正確な数字が出ていませんし鎮火のメドは立っていません」部下のジェシィが報告を上げた。
「それはわかっているよ」
「火の勢いと炎の種類からおそらくは爆発物によるものと推定されています。2階部分のガラスの融解状況から察すると複数箇所に仕掛けられたものかと」
「2階には何人いる?」
「署員35名。電脳捜査課と麻薬捜査課、それに総務、会計といったところですね。武器庫があるようでそこに引火した可能性も……」
「一般市民は?」
「立ち入っている可能性は低いかと思われます」
「それで2階部分の生存者はどれだけ確認できている?」
「それが……」
「どうした?」
「麻薬捜査課は全員不明。電脳捜査課は数名を除いて……。他はまだ情報が入っていません」
「そうか……、その……、電脳捜査課は何人が無事だ? 詳しいことが聞けるかも知れん」
「それが……」
「どうした?」
「無事だった捜査員はここにはいなかった者たちです」
「いなかった?」
「ええ、本署の会議で出向していまして、火事を聞きつけてここに向かっているところです」
「なんだそれは?」
「さあ、詳しくはなんとも……」
「ところで、例の噂は麻薬捜査課だったよな」オリバーは急に小声になる。
「ええ……、例のアレですか……。でもトップが変わって、あの部署の人間も一新されたはずでは……」
「その一新ってのが動機かもな」
「どういうことです?」
「もっと頭を働かせろ!」オリバーはジェシィの頭をポンと叩いた。
野次馬の彼方で白煙といきりたつブレーキ音が響く。
オリバーがそれに気づいて振り返ると、旧式から駆け寄るジャスティンの姿が見えた。
「おでましか……。あの人が絡んでいるにしては随分と派手な展開を見せているな」
オリバーはそう呟いたあと、ジャスティンに向かって走っていく。
後からついて来たコトリーは数歩近づいてから炎の惨劇に見入って立ち尽くしていた。
「ジャスティン!」オリバーの叫び声にジャスティンが気づく。
「オリバー!」
「ジャスティン、例の内偵絡みか?」
「なんとも言えないが、まあ……」
「ここまで派手にやるとは……」
「逸るなよ、オリバー」
「逸りはしないが……」
「言いたいことはわかるがな。まだ影すら踏めていない」
「君でもか?」
「ああ、そうだ。それとこいつの発表は2階武器庫で発火して延焼。これで行くぞ」
「ええ!」オリバーとコトリーが声を上げる。
「それは……、納得するか?」
「誰を納得させたいんだ?」
「いや……、しかし」
「じゃあいつの間にか爆弾魔に入られて営業時間内にドカンとやられましたって発表するのか?」
「そう言う訳じゃ……」
「そんなゴシップは邪推好きの新聞にやらせとけ。あくまでも定期点検中の火器が暴発して引火ってことで統一だ!」
いつにもましてジャスティンが声を荒げる。
オリバーは恐縮したように覇気に押されて口を噤んだ。
「ジムはどこにいる?」不意にジャスティンがコトリーに訊いた。
コトリーは記憶を辿りながら「署外に出ているはずだが……」と呟く。
「連絡は取れないか?」
「やってみよう」
コトリーがそう言って携帯を取り出すと、既に複数のジムからの着信があった。
時間は発火時間に近い。
「ダメだ。電話に出ない」着信履歴を何度タップしてもコールはすぐに切れてしまう。
「無事だといいんだが……」
「あいつのことですから」コトリーはこの火災の直前のジムの行動を思い起こす。
巻き込まれた可能性もあるがこの着信履歴は彼の生存を示すものだろう。
「信じましょう」コトリーはそう言うと手袋を填めて担架の移動を手伝いに走った。
ジャスティンは思慮にまみれながら立ち尽くす。
すると緊急用の携帯電話が鳴り響いた。
「状況はどうだ?」本署の署長だ。
「どうだもこうだもありませんよ」
「空撮も入ってきているようだな。こっちで見ているが詳しい状況がわからん」
「複数の爆発物が同時にドカン! ってとこですかね。2階部分の人気の少ないところを狙われたようです」
「何人が無事だ?」
「わかりません。確認できているのは本署に出向していた電脳班7名だけです」
「そうか、引き続き捜査を頼むよ。逐一報告してくれたまえ」
「了解しました」
ジャスティンは電話を切ると叩きつける仕草をして力なくポケットに放り入れた。
そして、震える口元を結んで現場へと走って行った。
*****
さまよえる魂よ、安堵を求めたまえ。
昇華する思い出たちよ、成就の法をたぐりたまえ。
水神に畏れを見せてきた炎を眺めながら老人は呟く。
良き行いには良き結果を。それが神の導きならば、と。
(第72話につづく)