第36話 荘厳にかき消された希望

文字数 1,197文字

 きらびやかな照明が会場を包んだあと、荘厳な音楽が会場を包み込む。
 管弦楽のコントラストが空間を彩り、タクトは聴衆の意識を誘う。
 優美でいて重厚な調べ。
 ジムは次第に音楽に集中し始めた。
 演奏家への尊敬は心で示すべきものであろう。
 また舞台を無視して人探しをする仕草は他の聴衆にも失礼だ。
 ジムは冷静に状況を見定め、特別になるはずの夜を楽しむことにした。

 エディナはしばしジムの横顔を眺めていたが下を向いて考え込む。
 ジムは音楽を楽しもうとしている。
 周囲の失礼を承知で時間を奪うほど愚かでもない。
 それでも音楽に集中できるほどの余裕はなく不安だけが旋律に曝されていた。

 声を掛けても自分だと気づいてもらえないだろう。
 理由を話しても嘘をつく女だと思われてしまう。
 街角で再会して偶然を装っても隠し通せるはずもない。

 音楽が感情を撫でていく。
 ジムはひとときの安らぎを、エディナは永遠の後悔をそれぞれの心に刻んでいく。
 わずか90分、ジムにはとても短くエディナには苦しいほど長く感じられた。

 タクトが刻み終えるとそっと幕が下りた。
 喝采と興奮の中、イヴの一夜は終わりを告げようとしている。

 どうしよう……。

 ジムは喝采の渦の中、膝上に折り畳んだジャンパーを左腕に掛けてうねりにも似た雑踏を見回した。
 おもむろに立ち上がり目線を遠くに投げかける。
 そして通路に出ようとしたその時、右腕に温もりを感じて動きを止めた。 

「行かないで」

 叫びにも似た音なき声。
 俯いたままエディナがジムの腕をしっかりと掴んでいた。
 それだけで心が届いてしまいそうだ。

 ジムは驚きを隠せなかった。
 振り解くわけにもいかない。
 ジムは座り直して俯いたままの彼女を見た。
 エディナはまだ何かを堪えるようにじっと右腕を掴んで俯いている。
 どこか具合でも悪いのだろうか?

「どうしました?」ジムは悩みながらもこう話しかけるしかないと思った。

 高貴な淑女、見覚えのない女性が言葉なく自分の腕を掴んでいる。
 理解しがたい光景。
 そして、何か言葉が聞こえた気がした。
 聞き間違いでなければと思うしその真意はわからない。

 エディナはジムの声に反応して掴んだ手の力を緩めた。
 そして、震えるようにジムの顔を見上げた。

「ジム」と呼んだらどんな顔をするだろうか。
 嘘が招いた現実をどう受け止めればいいのだろう。
 すべてを話すか、隠し続けるのか。
 思いの交錯がエディナの表情を複雑にする。
 ジムはただ彼女の言葉を待つより他なかった。

*****

 並行していたはずの直線が交差した。
 どこかで交わるための意志が介在した。
 ホールの片隅でふたりを眺めて老人は呟く。
 寄り添うためには覚悟が必要だ、と。

(第37話につづく)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み