第104話 さあ、空に還ろう

文字数 5,194文字

 ひとつめのチャイムが鳴る。
 時間は午前9時をまわっていた。
 インターホンからアンナの軽快な声。
 エディナが摺り足で壁を伝って玄関に出向くと、アンナが合い鍵で入って靴を脱いでいるところだった。

「おはよう……」

「あら、おはようエディナ。どうだった?」

 声に反応して見上げるアンナ。
 そして言葉を失ったようにエディナの顔を見た。

「エディナ……、あなた」

「たまには太陽の光をあげなきゃ……」

 そこにはガーゼを外して素顔を晒したエディナが立っていた。
 アンナはこぼれそうな涙を堪える。

「やっと……」

「ジムが来る前に慣れなきゃ……。お母さんもびっくりしてたわ」

「そりゃそうでしょう。でも嬉しいわ、エディナ」

「ありがとう、アンナさん」

 ふたりはそのままエディナの部屋に向かった。
 アンナはエディナを鏡台に座らせて顔をきれいに拭いた。
 瘡蓋がぽろぽろと落ちたが気にせずに続けた。
 落ちるものがなくなってから薄くファンデーションを塗る。
 そして目元口元に明るい色のラインとルージュを乗せた。

「どう?」

「ひさしぶりに化粧をしたわ……」

「もう少し治ってくればもっとキレイに塗れるわ。そうすればもう少し隠せるかも」

「隠す必要はないわ」

 エディナのその言葉にアンナは驚いていた。
 随分と強くなったものだ、と。

「会えたの? エディナ」

「うん……」

「そうか……、よかった」

「アンナさんはどうだった?」

「私? 残念ながら私のところには来てなかったわ」

「そうなの?」

 エディナは不思議に思ったが、二人はうまくいっているから来てないのかと思った。

「それで?」

「うん、夢の中でジムに会えたの。それも前の続きみたいに彼と会った場所で。そして、約束をしたの」

「約束?」

「そう、現実世界でも会う約束を」

「へぇ……」

「向こうではね、顔はきれいな元通り。嘘の登録をしていたときとは違って何故か本当の自分だった」

「……」

「少し心が楽になった。ジムは約束してくれたけど……。でも、少し怖い……」

 エディナはそっと火傷痕をさわる。
 アンナはエディナの言葉を待った。

「でも『現実で私がどんなに傷ついていても』とジムは言ってくれた。その言葉を信じるしかないの」

 アンナは机の上の便箋を読む。
 そして自分の体験も踏まえて、この発明で見る夢が現実世界に繋がっていることを思い返した。

「そこで約束したのよね……」

「うん……」

「じゃあ、ジムはきっと約束を守るわ」

「あらジムを知っているみたいな口ぶり……」

「妬かない妬かない」
 アンナは便箋を戻して、エディナの髪を撫でて結い始めた。

「うんとお洒落しましょう」

「ありがとう、アンナさん」

 エディナの笑顔にアンナは後ろから抱きしめて応えた。


 午後になるとふたりは手分けして家のそうじを始めた。
 できるかぎり動いてアンナの手伝いをするエディナ。
 「自分ひとりで大丈夫」と言うけど、エディナもじっとはしていられなかった。

 雑巾を奪い合ってじゃれあって、気がついたところを拭いていく。
 まるで姉妹のようなふたりは至福に満ちた時を過ごしていた。


 その頃ジムは分署にいた。
 生まれ変わった分署は以前と同じ間取りで彼のデスクは刑事課の方に移動していた。
 パーテーション越しにフェルナンデスがひやかす。
 その理由は配転だけではなく、私服のスーツで出勤するようになったからだった。

「馬子にも衣装だな」

「うるさい」

 そんな他愛のない台詞が飛び交うほど平和だった。
 街を襲った事件はいつしか記憶の奥底に消えていく。

 あの事件を受けて変わったことと言えば、武器庫が署外に新設された別館に移ったことぐらいだった。
 面目上は市民の安全の為だが、ジャスティンが去り際に「これでまた、やりたい放題できるな」とぼやいていた。

 特別捜査班は解散、ジャスティンは本署に戻された。
 トムは殺人容疑で確定、被疑者死亡にて書類送検される。
 それ以外は予想通りすべて事故で処理された。
 グレゴリーの鶴の一声で全員が日常業務に戻る。
 特別捜査班の誰もが口惜しい思いを胸に秘めながらそれぞれの部署に戻っていった。


 ジムは去りゆくジャスティンの背中に敬礼をして、そしてまた一緒に仕事がしたいと願った。
 彼の頭脳や発想力はずば抜けていて嗅覚も言動も素晴らしい。
 ただその為には誰かが犠牲になる事件が起きなければならない。
 それを喜ぶことは許されないことでジムは不用意な妄想を戒めていた。
 それでも「人間は欲深い。いずれまた会えるさ」とコトリーは諭す。
 その言葉はとても深くて辛い現実の言葉だった。


 ジムは定時になるとそそくさと署を後にした。
 浮かれ気分のジムの背中を見て、フェルナンデスが「彼女によろしくな」と言葉を投げる。
 にやけた顔で振り返ると、「さっさと逮捕されてこい!」とどこかしらからジョークが飛んだ。

 ジムは着替えを済ませて、スイーツ専門店に寄った。
 何か良いものはないだろうかと財布の中身を覗き込む。
「贈り物ですか?」との店員の声に戸惑いながら頷くジム。
 すると店員は、「じゃあ、リボンでもつけておきましょう」と真っ赤なリボンを施した。
 焦りながらも、きれいに彩られていくのを見て「まあ、いいか」と呟いた。


 その後、ジムは花屋に寄った。
 特別な日だからと浮かれ気分で店頭の彩りの誘惑に負ける。
 リボンに合う色を適当に見繕ってもらって、それを抱えてタクシーに乗った。

 車窓に降り注ぐ星の光、透き通った空気がそれらに命を与えている。
 見覚えのある星座を探しながら着くまでの時間を楽しんだ。


 タクシーが玄関口に滑り込む。
 ジムは花束を後ろ手に隠してインターホンを鳴らした。
 いつものようにアンナが出てくるんだろうか、まさかお母さんが出てくるんじゃなかろうかとそわそわしていると、ノイズ混じりの声が返ってきた。
 それはエディナの声だった。

「ジム?」

「そ……、そうです! ジム・ゴードンです!」

 テンションが急に上がりきったジムはなぜかフルネームで挨拶をする。
 すると笑い声がインターホンから漏れてきた。
 ドアが開く。
 ジムはエディナがどんな姿でいるんだろうと怖くなる。
 現実で会うのはあのミュージアムホール以来だ。
 エディナは扉で顔を半分隠したまま、「入って」と声を掛けた。

 緊張した足取りで玄関口に入る。
 すると僅かの先にエディナは立っていた。
 顔を隠すこともなく、火傷痕を晒していた。
 ジムはそれに見とれながら、そして心の中に去来する怒りを押さえ込んだ。

「エディナ……、ありがとう」

 ジムは両手の荷物をその場に落としてエディナを抱きしめる。
 それに応えるようにエディナもジムの背中を抱く。
 あの日引き裂かれた絆がもう一度繋がろうと必死にもがいていた。

「どう……?」

「ああ、これかい? きっと治るよ。きっと」
 それが精一杯の言葉だった。

「ああ、そうだ」
 ジムは床に落ちた花を拾ってエディナに手渡す。

「なんで花束?」

「いいじゃないか。再会の記念だ」

「おもしろいわね、ふふ……」

 エディナはジムの手を取ってリビングへと向かった。
 誘われるように後をついて、高価そうな壁の絵を横目に暮らしの違いを実感する。
 リビングには高級感漂う一枚板のテーブルと天井にはシャンデリアがあった。
 映画で見るような貴族の食卓だ。
 ジムは促された椅子に座り、エディナは奥のダイニングに消えていった。
 そして拙い歩きでテーブルに食事を持ってきた。
「手伝おうか」と言っても、「いいから座って待っていて」と言う。
 無理に手伝うのもどうかと思い、招かれた椅子で静かに座っていた。
 豪華な洋食がテーブルに並んでいく。

「これって手作り?」

「そうよ、アンナさんと作ったの」

「凄いなって、あれ? アンナさんは?」

「なんかね、用事があるからって用意だけして帰っちゃった。気を利かせたのかしら」

「どうなんだろ……」

 ジムは改めてエディナとふたりきりであることを認識して緊張する。
 現実世界で女性とふたりきりなんてのは……と、過去の自分を振り返りながらどうすれば良いのかと焦る。
 夢の中で言えた気障が舞い降りそうな気配もなかった。
 途端に現実世界の自分がいかに未熟で情けないかと思い知る。


 テーブルに料理がセッティングされて、真向かいにエディナが座った。
 ふたりは無言で見つめ合っている。
 ジムはよく見れば見るほど、彼女がきれいな顔をしていると思った。
 火傷の痕は確かに酷いけれど、それがすべてじゃない。

「エディナ……、やっぱり君はきれいだ」

「ほんとう?」

「うん……、俺にはもったいないくらいだよ」

「あら? ジムも男前よ」

「そうかい? そんなことを言われたのは初めてだな」

「そうなの? ふしぎ……」
 エディナは少し照れているように見えた。

「食べようか……」

「そうね、冷める前に。アンナさんが手伝ってくれたから味は保証するわ」

「ふふ……、なんだよ、それ」

「ひとりで作れる自信ないわよ。こんな手の込んだお料理なんて」

「じゃあ、当分アンナさんの元で修行しなきゃね」

「なによ、それ……。ふふ、でもそうね。これまで何もしてこなかったから当然かもね」

 その日用意されたのはデミグラスソースのハンバーグにポタージュスープとライスだった。
 ジムは久しぶりに家庭の味を味わった。
 いや、どちらかと言えば高級な外食のディナーだろうか。
 ケトルと水の芸術。
 一人暮らしのジムにとって栄養を放り込むだけの時間が情けなくも感じる。

「おいしいよ。レストランで食事をしている気分だ」

「そう……、うれしい」

 ジムの勢いのよい食べっぷりを見てエディナは嬉しく思った。
 自分の手伝った料理を美味しそうに食べてくれている。
 誰かのために何かをすることがこんなにも愛おしいなんて。


 夕食のあと、エディナはジムが買ってきたスイーツをテーブルに並べた。
 落とした際に少しだけ歪みが出ていた。
 エディナは気にもせずにそれらを小皿に分けていく。
 季節の彩りが施されたモンブラン。
 エディナは口元に指を当てて何かを呟いたあと、冷蔵庫からシャンパンを出してきた。

「お酒は大丈夫なの?」気になって訊くジム。

「えっ? それは飲めるかどうかってこと?」

「いや、傷にさわらないのかと……」

「知らないけど大丈夫じゃない? 退院してから飲むのは初めてだけど……」

「どうなんだろ……」

「まあ、いいんじゃない?」

「そうかな」

 ジムの不安をよそにエディナはグラスにシャンパンを注いだ。
 泡が弾けあって、かすかに香りが部屋を包んだ。

「ほら……」

 ジムはそれを受け取り、そっとエディナにキスをした。
 くちびるがふれて、吐息と熱がふたりを包み込んだ。

「ジムって、時々気障なことをする」

「いいじゃないか」

「そうね、ふふ……」

 ふたりはグラスを重ねてシャンパンで喉を潤した。
 弾けた泡が喉元を刺激して何とも心地よい気分になる。

 ふたりは寄り添って静かな時を過ごした。
 頬ずりをしたり、指で腕をなぞったり。
 髪を撫でて、耳元にそっと息を吹きかけたりもする。
 そして、しばらくの沈黙のあとお酒で気が大きくなったのだろうか。
 ジムはエディナの耳元でそっと囁いた。

「言っただろう。空に還るまでだって」
 
 エディナはその言葉を受けて無言でジムを見上げた。
 そして、そっと唇を重ね、体を預けるように倒れ込んだ。


 月明かりが部屋に忍び寄る。
 雲が気まぐれにそれを隠して、ふたりの時をまどろみに変えていく。
 長いキスのあと、ジムはエディナを見つめて頬にそっと口づけをした。
 エディナの熱く火照った傷痕からジムの愛が溶けていく。
 痛みに混じる快感が全身に走っていく。
 エディナは悶えるようにジムにしがみついて何度も何度も唇を重ねた。

*****

 愛は鎖のようなもの。
 互いを縛るか、それとも結ぶのか。
 ベランダで月明かりを眺めながら老人は呟く。
 ふたりの因果は時を超える。未来の礎は今に委ねられている、と。

(第105話:最終話につづく)
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