第96話 木漏れ日に漂う希望の豊穣

文字数 1,870文字

 午後の旧家に鳥のさえずりが響いている。
 芽吹きを待つ小鳥が寂し気な小枝をつついて鳴いていた。
 何羽かの響き、話し声にも聞こえる。

 エディナは松葉杖に身を委ねながら庭の芝生の中にいた。
 声を見上げ、姿を隠す小鳥たちを探している。
 小枝が揺れると一瞬だけ空の青が視界を過ぎった。


 自宅療養になって二日目、退屈な時間だけが募り気力も衰えてくる。
 そんな彼女を支えていたのは母とアンナだった。

 アンナは入院中に何度となくエディナを訪ねた。
 そして詫びた。
 自分が連れ出さなければと何度も泣いた。
 その度にエディナは「アンナさんのせいじゃない」と言う。
 その言葉がアンナには辛かった。
 いっそ罵詈雑言を浴びせてほしい。
 そんな気持ちが募っていた。

 退院が決まったとき、アンナは世話をしてあげたいとエディナの母に申し出た。
 母もエディナも「そこまでしてもらわなくても」と断った。
 だが、行動派で決めたことは譲らないアンナは贖罪の意味も込めてエディナを支えると決めていた。
 その決意は今に至っている。


 アンナ自身も火災に巻き込まれた際に煙を少し吸って軽い火傷をしていた。
 そのせいで気分の悪い日が何日か続いたが入院することもなく療養できた。
 気分も気持ちも落ち着いてから、スタッカートとともにエディナの元を訪れる。
 それが入院3日目のことだった。

 はじめてエディナと病室で対面したとき、アンナは激しい後悔と罪悪感に襲われた。
 煤まみれの姿ではわからなかったことがはっきりと眼前に展開している。
 顔の半分を包帯が覆い隠し、その火傷の広さをはっきりと認識する。
 アンナはその惨状を突きつけられたとき、心を何かで抉られるような感覚に陥っていた。

「アンナさん、私は大丈夫よ」
 エディナのその言葉が沁みる。
 アンナは自分の人生を賭けて、エディナの為に尽くすと心に決めた。


 アンナはスタッカートと同棲を始めていたが、エディナの世話をするとスタッカートに告げるとスタッカートは快く送り出してくれた。
 それでも住み込むというわけにもいかないのでスタッカートの自宅から通うことになった。
 実家から持ち込んだバイクで往来する。
 忙しい生活の中でも、不謹慎な充実さを感じていた。

 これまで独身を貫いてきたアンナ。
 結婚を諦めた訳ではないがもう婚期としては最終列車が過ぎようとしている。
 スタッカートから見れば若くても、同世代の男性や年下から迫られることもない年頃だ。

 夢で出会ったとき、スタッカートはどうしてこんな素敵な女性が一人でいるのだろうと不思議に思った。
 そして自分のような年輩の男を相手にするのはいいのかと訊いた。
 アンナは「私はそんなに若くはないわよ」と言うと、「恋愛は年齢じゃないのかもな」とスタッカートは答える。
 アンナはそんな彼の姿勢が気に入っていた。
 恋愛と結婚は別。
 何度も失敗したスタッカートも、縛られない生活を続けてきたアンナも同じような考えだった。
 そして、お互いの価値観が夢の中で急速に近づいたとき、どちらともなく寄り添っていた。

「社会に囚われない恋愛をしよう」
 スタッカートのその言葉にアンナは頷いた。

 ふたりは互いを束縛しないことを約束しあった。
 はじめは自由に行き来していたアンナだったが、面倒になったのか居心地が良かったのかはわからないが、いつの間にか一緒に住み始めていた。
 収まるところに収まるような、そんな自然な出来事だった。


「エディナさん、ランチにしよう」

 庭で佇むエディナにテラスから呼び掛ける。
 エディナはゆっくりと振り向いて、大きく手を振るアンナを見つけて小さく手を振り返した。
 アンナはエディナの傍に駆け寄って歩行の介助をする。
 そしてテラスの椅子に座らせるとキッチンからランチを持ってきた。
 オニオンスープとパスタの心地よい香りが病院食で鈍った五感を刺激していく。

 一陣の風が庭に駆け抜けた。
 小鳥に匂いを届けるためだろうか。
 エディナは時折かすかに聞こえるさえずりに耳を傾ける。
 そして、ゆっくりと口元にスープを注ぎ込んだ。

*****

 自然の音が心地よいのは人のリズムが自然に近いから。
 音が眠りを誘うとき、魂は休息を求めている。
 バルコニーで茶を嗜みながら老人は呟く。
 心は心と溶け合う。思考を置き去りにした感覚の中で、と。

(第97話につづく)
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