第97話 心の柔和がその時を呼んでくる
文字数 3,603文字
昼下がりのテラスは春の訪れを歓迎している。
ついこの間まで冬枯れだった芝生も少しずつ色を取り戻していた。
テラスから眺める庭の向こうにはまだ灰色の空が横たわっている。
だが、時折吹く風は心地よく、冬を奪っていくようだ。
エディナは食事の際に頬を動かすことが苦痛だった。
固まりだした皮膚が一斉に動き出して痛覚を刺激する。
その感触がたまらない。
だが医師は「動かしていくことで筋肉が柔らかくなるし、今は辛いだろうけどできるだけ動かして」とアドバイスをする。
特にパスタを啜るときは思った以上に頬の筋肉を使う。
アンナもできるだけ啜る仕草ができるようにと短く切ったりはせずにそのままの長さで調理した。
その意図を汲んでいるのでエディナも文句を言うことはない。
ただ痛みが走るたびに逃れたい欲求が先走っていた。
「大丈夫? エディナさん」
時折心配そうに声を掛けるアンナ。
必要だと思っていても端で見ているのは辛い。
でも甘やかすことで頬の筋肉が落ちても困る。
動かなくなって、表情がなくなるという最悪の想像は現実の苦難を置き去りにする強さがあった。
そして、そんな苦しい中でもエディナはアンナを気遣っていた。
「アンナさん、いいんですか?」
「えっ? 何が? 時間なら問題ないわよ」
「そう言うことじゃなくて、ほらスタッカートおじさまと……」
「あら、やだ。そんなことを考える余裕が出てきたのね。大丈夫よ。大人の恋愛真っ最中ですから」
「なんですか、その表現は……。でも、こんなに私のために時間をつかって、おじさまは寂しくないのかしら」
「そんなことは気にしない。一生こうだってわけじゃないんだから。エディナさんは自分のことだけ考えて」
「はい……、ありがとうございます」
エディナは申し訳ない気持ちで一杯だった。
アンナは自分が連れ出したからと言っているが、エディナは自分につきあわせてしまったと思っている。
お互いが気を使いあう。
優しさにあふれた関係はあの火災事件を機にさらに深まっていった。
「ヴィンはね……。とても子どもみたいよ。わがまま」
「ヴィン?」
「ああ、彼のことね。ヴィンセンツ・スタッカート」
「もうそんな呼び方? 羨ましいわ」
「ふふ……、でもあなたたちもきっと同じよ。今はタイミングが悪いだけ」
「そうでしょうか。神様が一緒になるなって言っているみたい」
「そう? でも考え方次第よ、エディナさん」
「どう言うこと?」
「経験上、障害があるほど燃えるものよ。ふふ……」
アンナの含みのある笑いにエディナは思わず良からぬ妄想を始める。
「でもジムが障害を楽しむかどうかなんてわからないわ……」
「大丈夫よ、彼なら。あとはエディナさん次第だと思うの」
「どこからその自信が?」
「そう? でも彼は特別よ。それにあの発明は最高の出会いをチョイスしてくれるはずだから……」
「それはどういう意味?」
アンナはちょっと口を滑らせたと思った。
こっそりと裏話を聞いていたことが裏目に出る。
成就していない恋人たちが知るのには早すぎる真実だった。
「今は内緒よ。時が満ちればあなたにも教えてあげる」
アンナはそっとエディナの右頬を撫でる。
そして、彼女を見つめて「あなたはきっと幸せになれる」と呟いた。
エディナにはその言葉の裏付けがどこから来るのか理解できなかった。
「ジャスミンにする? アールグレイでもいいわよ」
「おまかせするわ」
「そう? じゃあ気まぐれカフェにおまかせあれ」
アンナはそう言うとキッチンに消えていく。
足取りは軽く、木床をコツンと鳴らしていく。
そのリズムは心地よく、心が軽やかになってくる気がした。
エディナは残りのパスタを食べ切る。
頬の痛みが食べ始めよりもマシな気がした。
心の持ちようなのかも。
エディナがちょうど食べ終わってフォークを置いたとき、アンナはトレイにカップとティーポットを乗せて運んできた。
かすかに香りが漂って、それはジャスミンでもアールグレイでもなかった。
エディナは不意に笑いがこみ上げてくる。
アンナさんらしい、これが気まぐれカフェ?
「さあ頃合いよ」
アンナはカップに注ぐと、それは濃い紅色をしていて、その紅に白が混じろうと手を伸ばしていた。
「アッサム?」
「さすがエディナさんね。ミルクが先でよかったかしら」
「おまかせですから」そう言ってエディナは笑う。
アンナはエディナが火傷を気にせずに笑うのを見て安心した。
それでも頬を庇うように時々うずくまる仕草をするので心配になる。
「痛い……、でも大丈夫」
エディナは久しぶりに笑って頬が引っ張られる痛みを感じた。
でも痛みはすぐにおさまって、頬を引っ張る感覚だけが残っていた。
少しずつ動かしていけそうな気がする。
「甘いわ……」
「甘いね」
ふたりはまるで姉妹のように陽光の午後を過ごしていた。
木々のさえずりを呼ぶように風が吹く。
短めの芝生がさっと流れるように靡いていく。
風が吹く度に緩く巻かれた包帯が頬を擽った。
産毛と戯れるその感覚はジムに優しく撫でられたときの感覚に似ている気がした。
エディナはそれを思うと、あの日の続きがどんな形で現実になるのか。
それが怖くて仕方なかった。
プルルル……。
不意に電話が鳴る。
アンナへのメール着信だ。
アンナはそれを読むと意味ありげな笑みを浮かべる。
エディナはそれを見て、また何かを企んでいるのではと身構えた。
思い過ごしだろうか?
でも、あの笑顔には見覚えがあると思った。
アンナはメールを確認すると家の中に入っていく。
そして誰かに電話を掛けた。
仕事の話だろうか?
数分後、電話を終えてアンナは戻ってきた。
さすがに詮索するのは野暮だと思いながらも気になって仕方がない。
聞くわけにもいかないし……。
そう思って、「おじさまから?」とだけ聞いてみた。
「おやおや、気になるかな? そう、ヴィンからよ」
「今晩のお誘い?」
「いえいえ、残念ながら違うわ」
「そう……」
エディナはそれ以上聞くのをやめた。
ふたりのプライベートに踏み込むわけにもいかない。
今でもふたりのプライベートを荒らしているのに、と思って少し悲しくなった。
「ヴィンもとてもあなたを心配している。我が娘のように慕っている。私はなぜそこまで気に掛けるのかと嫉妬していた。でも、ヴィンが無邪気にあなたのことを話すのを見て、男女の関係ではない何かを感じたわ。その理由を聞いたとき、ヴィンもあなたのこともとても好きになったわ」
「どんな話をしたのかしら」
「それは言えないわ。でも、彼はあなたを恩人だと言っていた。若い子のことを恩人だなんてとは思ったし、それは彼の思い過ごしかもしれない。でも、彼にとってのあなたという存在はかけがえのないものだわ。それは羨ましくもあるし、でも踏み込む必要のない場所でもあるわね」
「なんだか良くわからない」
「でしょうね。でも、彼はあなたを尊敬している。あなたも彼を、父のように慕っている。そのことに私は不満も不安もないもの。エディナさんは素敵な人だから」
「そんな……、そこまで言われるほどのことは」
「でも人間なんてそんなものよ。何気ないことがとても大事なの。潜在意識の中で選択されたことは必ず表層に出てくる。自分の知らないところでね。でもそれがとっても大事。いろんなものに真剣に向き合う中で、そう言ったものは研ぎ澄まされていくのよ」
エディナはアンナの饒舌の意味がほとんどわからずにいた。
人生経験の差だろうか。
でも、スタッカートが自分を気に掛けてくれる理由が少しだけわかるような気がしていた。
「さあ、サプライズの時間よ」
アンナは立ち上がって食器を片づける。
エディナにはアンナが何を考えているのか読めない。
「エディナさん。心の準備はできたかしら?」
アンナのその言葉に「まさか」という言葉がエディナを襲う。
その直感が正しければと思いながら、エディナは瞬時にこれまでのアンナの表情、言葉、ニュアンスを読み返していく。
そして考えがまとまろうとする頃、玄関のチャイムが鳴り響いた。
*****
慟哭の鐘が鳴る。切なく、低く、頼りなく。
衝動の鐘も鳴る。激しく、強く、心のままに。
金色の中に浮かぶ一葉を眺めながら老人は呟く。
運命の収束。それは神の仕業ではなく、人の業に由来する、と。
(第98話へつづく)
ついこの間まで冬枯れだった芝生も少しずつ色を取り戻していた。
テラスから眺める庭の向こうにはまだ灰色の空が横たわっている。
だが、時折吹く風は心地よく、冬を奪っていくようだ。
エディナは食事の際に頬を動かすことが苦痛だった。
固まりだした皮膚が一斉に動き出して痛覚を刺激する。
その感触がたまらない。
だが医師は「動かしていくことで筋肉が柔らかくなるし、今は辛いだろうけどできるだけ動かして」とアドバイスをする。
特にパスタを啜るときは思った以上に頬の筋肉を使う。
アンナもできるだけ啜る仕草ができるようにと短く切ったりはせずにそのままの長さで調理した。
その意図を汲んでいるのでエディナも文句を言うことはない。
ただ痛みが走るたびに逃れたい欲求が先走っていた。
「大丈夫? エディナさん」
時折心配そうに声を掛けるアンナ。
必要だと思っていても端で見ているのは辛い。
でも甘やかすことで頬の筋肉が落ちても困る。
動かなくなって、表情がなくなるという最悪の想像は現実の苦難を置き去りにする強さがあった。
そして、そんな苦しい中でもエディナはアンナを気遣っていた。
「アンナさん、いいんですか?」
「えっ? 何が? 時間なら問題ないわよ」
「そう言うことじゃなくて、ほらスタッカートおじさまと……」
「あら、やだ。そんなことを考える余裕が出てきたのね。大丈夫よ。大人の恋愛真っ最中ですから」
「なんですか、その表現は……。でも、こんなに私のために時間をつかって、おじさまは寂しくないのかしら」
「そんなことは気にしない。一生こうだってわけじゃないんだから。エディナさんは自分のことだけ考えて」
「はい……、ありがとうございます」
エディナは申し訳ない気持ちで一杯だった。
アンナは自分が連れ出したからと言っているが、エディナは自分につきあわせてしまったと思っている。
お互いが気を使いあう。
優しさにあふれた関係はあの火災事件を機にさらに深まっていった。
「ヴィンはね……。とても子どもみたいよ。わがまま」
「ヴィン?」
「ああ、彼のことね。ヴィンセンツ・スタッカート」
「もうそんな呼び方? 羨ましいわ」
「ふふ……、でもあなたたちもきっと同じよ。今はタイミングが悪いだけ」
「そうでしょうか。神様が一緒になるなって言っているみたい」
「そう? でも考え方次第よ、エディナさん」
「どう言うこと?」
「経験上、障害があるほど燃えるものよ。ふふ……」
アンナの含みのある笑いにエディナは思わず良からぬ妄想を始める。
「でもジムが障害を楽しむかどうかなんてわからないわ……」
「大丈夫よ、彼なら。あとはエディナさん次第だと思うの」
「どこからその自信が?」
「そう? でも彼は特別よ。それにあの発明は最高の出会いをチョイスしてくれるはずだから……」
「それはどういう意味?」
アンナはちょっと口を滑らせたと思った。
こっそりと裏話を聞いていたことが裏目に出る。
成就していない恋人たちが知るのには早すぎる真実だった。
「今は内緒よ。時が満ちればあなたにも教えてあげる」
アンナはそっとエディナの右頬を撫でる。
そして、彼女を見つめて「あなたはきっと幸せになれる」と呟いた。
エディナにはその言葉の裏付けがどこから来るのか理解できなかった。
「ジャスミンにする? アールグレイでもいいわよ」
「おまかせするわ」
「そう? じゃあ気まぐれカフェにおまかせあれ」
アンナはそう言うとキッチンに消えていく。
足取りは軽く、木床をコツンと鳴らしていく。
そのリズムは心地よく、心が軽やかになってくる気がした。
エディナは残りのパスタを食べ切る。
頬の痛みが食べ始めよりもマシな気がした。
心の持ちようなのかも。
エディナがちょうど食べ終わってフォークを置いたとき、アンナはトレイにカップとティーポットを乗せて運んできた。
かすかに香りが漂って、それはジャスミンでもアールグレイでもなかった。
エディナは不意に笑いがこみ上げてくる。
アンナさんらしい、これが気まぐれカフェ?
「さあ頃合いよ」
アンナはカップに注ぐと、それは濃い紅色をしていて、その紅に白が混じろうと手を伸ばしていた。
「アッサム?」
「さすがエディナさんね。ミルクが先でよかったかしら」
「おまかせですから」そう言ってエディナは笑う。
アンナはエディナが火傷を気にせずに笑うのを見て安心した。
それでも頬を庇うように時々うずくまる仕草をするので心配になる。
「痛い……、でも大丈夫」
エディナは久しぶりに笑って頬が引っ張られる痛みを感じた。
でも痛みはすぐにおさまって、頬を引っ張る感覚だけが残っていた。
少しずつ動かしていけそうな気がする。
「甘いわ……」
「甘いね」
ふたりはまるで姉妹のように陽光の午後を過ごしていた。
木々のさえずりを呼ぶように風が吹く。
短めの芝生がさっと流れるように靡いていく。
風が吹く度に緩く巻かれた包帯が頬を擽った。
産毛と戯れるその感覚はジムに優しく撫でられたときの感覚に似ている気がした。
エディナはそれを思うと、あの日の続きがどんな形で現実になるのか。
それが怖くて仕方なかった。
プルルル……。
不意に電話が鳴る。
アンナへのメール着信だ。
アンナはそれを読むと意味ありげな笑みを浮かべる。
エディナはそれを見て、また何かを企んでいるのではと身構えた。
思い過ごしだろうか?
でも、あの笑顔には見覚えがあると思った。
アンナはメールを確認すると家の中に入っていく。
そして誰かに電話を掛けた。
仕事の話だろうか?
数分後、電話を終えてアンナは戻ってきた。
さすがに詮索するのは野暮だと思いながらも気になって仕方がない。
聞くわけにもいかないし……。
そう思って、「おじさまから?」とだけ聞いてみた。
「おやおや、気になるかな? そう、ヴィンからよ」
「今晩のお誘い?」
「いえいえ、残念ながら違うわ」
「そう……」
エディナはそれ以上聞くのをやめた。
ふたりのプライベートに踏み込むわけにもいかない。
今でもふたりのプライベートを荒らしているのに、と思って少し悲しくなった。
「ヴィンもとてもあなたを心配している。我が娘のように慕っている。私はなぜそこまで気に掛けるのかと嫉妬していた。でも、ヴィンが無邪気にあなたのことを話すのを見て、男女の関係ではない何かを感じたわ。その理由を聞いたとき、ヴィンもあなたのこともとても好きになったわ」
「どんな話をしたのかしら」
「それは言えないわ。でも、彼はあなたを恩人だと言っていた。若い子のことを恩人だなんてとは思ったし、それは彼の思い過ごしかもしれない。でも、彼にとってのあなたという存在はかけがえのないものだわ。それは羨ましくもあるし、でも踏み込む必要のない場所でもあるわね」
「なんだか良くわからない」
「でしょうね。でも、彼はあなたを尊敬している。あなたも彼を、父のように慕っている。そのことに私は不満も不安もないもの。エディナさんは素敵な人だから」
「そんな……、そこまで言われるほどのことは」
「でも人間なんてそんなものよ。何気ないことがとても大事なの。潜在意識の中で選択されたことは必ず表層に出てくる。自分の知らないところでね。でもそれがとっても大事。いろんなものに真剣に向き合う中で、そう言ったものは研ぎ澄まされていくのよ」
エディナはアンナの饒舌の意味がほとんどわからずにいた。
人生経験の差だろうか。
でも、スタッカートが自分を気に掛けてくれる理由が少しだけわかるような気がしていた。
「さあ、サプライズの時間よ」
アンナは立ち上がって食器を片づける。
エディナにはアンナが何を考えているのか読めない。
「エディナさん。心の準備はできたかしら?」
アンナのその言葉に「まさか」という言葉がエディナを襲う。
その直感が正しければと思いながら、エディナは瞬時にこれまでのアンナの表情、言葉、ニュアンスを読み返していく。
そして考えがまとまろうとする頃、玄関のチャイムが鳴り響いた。
*****
慟哭の鐘が鳴る。切なく、低く、頼りなく。
衝動の鐘も鳴る。激しく、強く、心のままに。
金色の中に浮かぶ一葉を眺めながら老人は呟く。
運命の収束。それは神の仕業ではなく、人の業に由来する、と。
(第98話へつづく)