最終話 第105話 月明かりは妖艶に跪いて

文字数 4,022文字

 ふたりを見守っていた月明かりは彼らだけのものではなかった。
 赤煉瓦を敷き詰めた広いテラスにも注ぎ込む平等。
 その光は石造りの邸宅の庭に優雅な時を与えている。
 テラスには白いロッキングチェアーがふたつ、まるでリゾート地にあるホテルのような佇まいだ。

「あのふたりは幸せになれるかしら?」

「さあ、それはワシらにはわからんさ。選ばれたのは現在のふたりだ。未来永劫、彼らが変わらないとは限らない。今の行動や思念が良ければ良い未来を築いてくれるだろうがね」

「相変わらず小難しいことを言うのね」

「ふふ、何とでも。それにしてもこれほどまでに成果が上がるとは思わなんだな」

「あら、計算通りじゃなかったの?」

「そりゃあ、そうなることを願ってはいたがね。おまえと彼も含めて」

「ふふ……、私たちは大丈夫よ。お互いの欲もコンプレックスも認め合って充実しているわよ」

「なら、いいさ。お前が誰かの元に行くのは寂しいがワシが幸せにすることはできないからな」

「そりゃ、無理よね」

 月明かりに紛れて男と女が話している。
 赤いドレスの女は三十代ぐらい、男は白髭を蓄えた老紳士だった。
 老紳士は時折白髭を撫でる。

「それにしても、おまえの相手はなんであいつなんだろうな」

「知らないわよ。あなたの発明が選んだんでしょ」

「まあな。でも、もっと若い男でないとおまえの欲望は満たせないと思ったんだがな」

「なによそれ、でも男は体力だけじゃあねぇ。若い子とは遊び飽きたし、あの発明はそんなものを結びつきの材料にはしないでしょ」

「ああ、わかっているさ。潜在意識が要求しあう者同士が繋がりを求め合う。その手助けをするだけだからな」

「じゃあいいじゃない」

 女はテーブルに置かれたグラスに洋酒を注ぐ。
 それを男に手渡して、自分の分はグイと喉に走らせた。

「これからどうなるのかしら」

「さあね、発明のことだったら息子にでも聞いてくれ。この発明をビジネスに使うようだが果たしてうまく使いこなせるかどうかは知らん……」

「そうね……、でも私利私欲にまみれた男だからいずれは破綻が待っていそう」

「まあな。いずれは……。それは否定はしないがね……」

「それにあの娘も可哀想」

「ああ、エディナのことか?」

「ええ、ルーセントは自分の欲求を満たすために人の道を外している」

「そうだな。どこで間違えたんだろうな」

「責任は感じてる?」

「ワシが? よしてくれよ。さすがにそこまでは面倒を見切れんよ」

「いずれはわかるんだろうけど……」

 女は寂し気な表情をして俯いて続けた。

「せっかく幸せを手に入れたというのに……。これからも試練は続くのね」

「でもそんなことはあのふたりには障害にもならんだろう。ルーセントもジョセフもあの秘密は墓場まで持って行くだろう」

「でも、エディナさんはなんとなく気づいてそう……」

「そりゃ、わかるだろう。潜在意識と本能を騙すことはできないからな。違和感が疑念に変わって、それが真実に取って変わるまでに時間ときっかけは必要だがな」

「ふふ……、あいかわらず難しい言い回しが好きね、ミッシェル」

「これ、ワシのことを名前で呼ぶんじゃない。アンナ、おまえも躾がなっとらんな」

「仕方ないんじゃない?」

 月明かりが雲を薙ぎ払って、アンナの酔い混じりの顔を映し出す。
 ミッシェルは白髭をさわる仕草を続けていた。
 片方だけの丸眼鏡が光に反射して、その光が彼女の頬を照らしている。
 白髭の周りには年期の入った皺が無数に刻まれていた。
 彼は口元を歪ませて不敵な笑みを浮かべながらグラスを光に泳がせていく。

「あいつと結婚するのか?」ミッシェルは不意に呟いた。

「あら、気になるの?」

「そりゃあね。まあ、今更とは思うがね」

「ふふ……、それはこれからの流れに任せるわ。彼は社会に囚われない恋愛をしたいって言ってたからね」

「ふん、よくわからん価値観だな」

「そう? でも、彼の価値観は好きよ」

「勝手にしろ」

 ミッシェルは呆れたように言い放つ。
 アンナは洋酒をさらに注いでそれを空に翳した。

「それにしても親子って似るのね」

「どういう意味だ?」

「だって、あなたの若い頃の悪戯のせいでしょ。ルーセントが歪んでいるのもあなたの遺伝子を受け継いでいるからよ」

「そうかも知れんな。だが、ワシはあいつほど歪んではおらんぞ」

「あら、そう? ふふ……」

 アンナはそう言うと意味ありげな視線でミッシェルの胸元をまさぐる。
 ダウンの下から金装飾のロケットが姿を現した。
 アンナがチャームを開けるとふたりの女性の写真が飾られていた。

 それぞれの写真の下に名前がある。
 メインフレームにはマリー、サブフレームにはセシルと刻まれていた。

「これ、やめないか」

「いいじゃない。母も私には妬かないでしょ」

「こら。まったくもう……」

「ふふ……、教育と遺伝子の賜物よ」

 アンナは彼の背後に回ってそっと抱えるように手を回した。
 まるでじゃれ合うような無邪気な笑顔を見せている。
 ミッシェルはそんなアンナを横目で見ながら呆れかえっていた。
 アンナは背中越しに彼の白髭を撫でて呟いた。

「ふふ……、怒らないで。ねぇ、おじいさま。あなたのおかげで今の私がいるのよ」

 アンナはそう呟いてセシルの写真をそっと撫でた。

「親父さんは残念だったな」不意にミッシェルが呟いた。

「仕方のないことよ。でも、どうして今頃になって私に話すの?」

「心残りだからね。ワシとセシルの約束ごとだったがもうそれも時効だよ」

「母はどうしてあなたのことを隠し続けたのかしら?」

「それは本人じゃないとわからんかもな。でも彼を養子に迎え入れたことで彼の人生も一変してしまった。ルーセントやビリーのようにうまく渡れる奴ばかりじゃないってことさ」

「ジムはどうかしら?」

「さてね、ワシにはわからんよ。ジョセフとルーセントは大丈夫だと思っておるようだがね」

「そうなのね」

 アンナはこれまでの顛末に想いを馳せながら、「やっぱりあなたの悪戯が原因じゃないの?」と嘯いた。

「これこれ、ルーセントの悪戯は彼の墓場まで持っていくべき秘密だよ。絶対にエディナには言うなよ」

「わかってますよ」

 月明かりがテラスを覆い隠す。
 アンナは夜空に浮かぶ月を眺めて大きく息を吐いた。


 その息の行き先、タワーマンションのベランダでチェスに興じる二人がいた。

 雑念が消えたのか、それぞれの手は研ぎ澄まされた一手に沈黙が漲っていた。

 しばらくしたあと、拳を突き上げて喜びを漲らせたのはジョセフだった。

「お前がここまで強くなるとはのう」ヴァンガードは体をチェアに投げ出して呟いた。

「いえいえ、ご指導の賜物ですよ」

「ジョセフ、もういいぞ」

「いえ、それでも」

「構わんさ。無線を切れ」ヴァンガードはそう言うと冷やしていたバーボンを机の上に並べた。

「たまには親子に戻るのも悪くない」

 ヴァンガードはそう言ってグラスに高純度を注いでいく。
 芳醇が月明かりに燃えている。
 ジョセフをはグラスを取ってそれを高々と翳した。

「何を祝うのじゃ?」ヴァンガードが不適な笑みを浮かべる。

「もちろん、妹の幸せにですよ」

「彼なら大丈夫だろ? ワシのように悪戯好きではあるまい」

「本当にそう願いますよ」

 ジョセフは呆れてヴァンガードとグラスを重ねた。

「あら、楽しそうね」不意にマリーの声がする。
 ジョセフは改まって「奥様!」と姿勢を正した。

「いいのよ、ジョセフ」妖艶な眼差しが彼の心を惑わす。

「いえ、そんな……。今日はなぜこちらに?」

「あら、あなたたちのお膳立てがよろしくやってるのよ。帰られる訳ないじゃない」

「そ、そうでしたか……」
 心が縮まる思いでジョセフはその場に座り込む。

「ジムさんは大丈夫よ。この人とは違って。そうでしょ、ジョセフ」

 ジョセフは何も答えられないまま、ただ深く頭を下げていた。

「そう言えば一度くらいは会いたいわね」意地悪そうなマリーの言葉にジョセフが顔を上げた。

「あなたのお母様に」

 ジョセフがふとヴァンガードを見た。
 心地良く眠りに耽っているように見せかけて、目を閉じる目配せをする。
 ジョセフはそれを横目に「機会があれば」とだけ答えた。

 マリーはヴァンガードからバーボンのボトルを奪ってそのまま口をつける。
 そして、「父と言い、夫と言い、なんでそんなにふしだらなのでしょうね」と投げつけるように言い放った。

「養子に入ったのに御大層な身分ね、あなた」

 ジョセフもヴァンガードもこうなると止められないことはわかっていた。
 ただただ恥辱に耐えるしかない。
 マリーはなおもバーボンを喉に流し込む。
 そしてヴァンガードの肩に手を回して、「他にはいませんよね、ルーセント?」と囁いた。

 高純度で燃えた体が急速に平常を取り戻す。
 妖艶は二人の歓喜をよそに、「私も発明で見つけてもらおうかしら」と呟いた。


 月明かりが街を照らしていく。
 愛憎に揺れる影。
 愛を囁き合う二人には無縁の道楽。
 今宵もまた、流れ星を探そう。
 魂を探し求め合う孤独のために。


*****


 原因と結果には運命を決める力はない。
 過去と未来にも現在を縛る力はない。
 白髭を撫でた不敵な笑みは物語の発端にしか過ぎない。
 結果を知りて、原因を嘆くことなかれ。
 人はただ、自分の心と行動がつくる未来に生きるだけなのだから。

(完結)
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