03 重要な仕事
文字数 3,659文字
おそらくは、そんな気がしたのだ。
だがそのときは、彼女は何故それが気になったのか判っていなかった。
ただ、廊下の角を曲がったときに、その次の角を曲がっていく幾つかの影が目に入っただけである。
その先には緊急時のための階段しかないはずだ。その階段を使用する者は滅多にいない。暗いし、寒いし、わざわざそこへ行くとしたら城内でこっそりとつき合う男女が仕事の合間に逢い引きをするためくらいのものだ。
しかし角を曲がった影は、どれも女であったように思う。
それも、貴族の侍女の制服を着ていたように見えなかっただろうか。
そして、彼女は思い当たってしまった。その階段をほかの用途で使う人間について。
彼女は逡巡ののちにそれを追った。見たくないものに出会ってしまうことは――承知で。
音を立てぬように重い扉を押し開けた途端、がらがらがっしゃんと何かが派手に階段を転げ落ちる音がした。
「あら……失礼」
半階ほど下から響いたその声に、レイジュは顔をしかめた。
嫌な記憶を呼び起こす癇に障る声は、セラー侯爵の親戚の何だか言う姫に仕える侍女ネレディスのものに間違いない。となると当然、声をかけられた相手についても推測がつく。
誰も使わないこの場所に担当の掃除人などはおらず、一旬おきくらいに交代制であたっていると聞いたことがあるが、その日にちまでいちいち調べたのだとしたら、そのまめ さに置いてだけはネレディスに感心してやってもよかった。
「せっかく終わりそうだったのに、もう一度やり直しね、テリスン?」
レイジュは内心で呪いの言葉を吐いて――上品な教育を受けた侍女はそんな言葉をもともとは知らず、これはエイル少年の影響だった――そっと身を乗り出すと下をのぞき込む。
見れば汚れた水がぶちまけられた階段と、階下に転がった錫桶、踊り場にはネレディスを含む三人の侍女と、青い顔をした掃除娘が立っているのが見える。
ここまで見ておいて、これを見なかったことにして入ってきた扉から去るには、レイジュはどうにも正直すぎた。
「これをきれいにしてからじゃないと、次の仕事には行けないわよねえ?」
レイジュが名を知らない侍女が笑いながら言った。
「ほら、さっさと掃除をしたら!」
ネレディスがテリスンの細い肩をぐいと押した。まさか階段から突き落とす気もなかろうが、少女は足元をふらつかせる。
「ちょっと!」
思わず出てしまった声に、レイジュはまた心で自分に罵声を浴びせた。
「いい加減に、したら」
「――レイジュ」
階段の上からでも、ネレディスの目が不機嫌そうに細められたのは判った。
「あなたには関係、ないでしょう」
「関係ですって?」
レイジュは繰り返した。
「そうよ。それとも、あるかしら。あなただってこの娘が気に入らないはずよ」
「馬鹿言わないで」
レイジュは腰に手を当てた。
「はっきり言って否定しないけど、それとこれとは別問題だわ」
「別問題?」
今度はネレディスの方が繰り返した。
「問題なんて、ひとつでしょう。この女に知らせてやるの。判ってないらしい、身の程ってものをね」
「それはあなたでしょう」
レイジュはずばりと言った。
「こんな馬鹿な真似を繰り返して」
一瞬 躊躇ってから、彼女は思い切って続けた。
「ファドック様がご存知ないと思ってるの?」
「……何ですって」
ネレディスの声に動揺が走った。
「どうして私がわざわざこんなところにいると思うの、ネレディス」
「……見え透いた嘘をつくんじゃないわ、レイジュ。あの人がそんなことを命じるはず、ないじゃない」
「そうね、私が勝手にやってることかもしれないわ」
レイジュはそう言うと半階下の侍女を睨みつけた。ふたりの恋敵は、間にもっと重要なひとりを置いたままでしばらくそうしていたが、ネレディスは視線を逸らすとそのまま「配下」を従えて階下に降りていった。汚れた階段を降りることにはなったが、レイジュの方にやってくるのも嫌だったのだろう。
重い扉が侍女の怒りを表すような音を立てて閉まるのを見届けたあと、レイジュはほうっと息を吐いた。
彼女の視線の先に残されたのは、もっと重要なひとり、である。
「……あの。レイジュ、さん 」
「言っておくけど!」
躊躇いがちに出された声にかぶせるように、レイジュは言った。
「私はたまたま通りかかっただけ! ネレディスの底意地の悪さは知ってるから、ちょっと気になっただけなの! ファドック様にあなたのことを頼まれてなんか、いませんからねっ」
言った自分自身でも、それがどういう言い訳なのかよく判らなかった。
もし、彼女がファドックに何かを頼まれるようなことがあれば――本当にテリスンのことを頼まれたのなら複雑だろうが――彼女は大喜びするだろう。一方で、テリスンに、ファドックが彼女のことを案じているなどと思わせてなるものか、という思いがあった。
「あの。有難うございます。私、あの桶みたいに蹴り落とされるかと思った」
「まさか。そこまでしないわよ……たぶんね」
そう言ってからレイジュは思わず吹き出した。
「蹴り落とした? ネレディスが?」
「ええ。下に男性がいたらとても取れないだろう体勢でした」
そう言うと娘はにっと笑った。その笑みはどこか少年めいていて、レイジュはこれまで娘に感じていた印象と異なるものを見たように思った。
「片づけなきゃ。次に――遅れちゃう」
テリスンははっと思い出したように言うと小走りに階段を降り、桶を拾った。ネレディスの言葉を思い出せば、彼女の「次」がファドックの部屋――と言うよりは、それを含む階全体だったが――の清掃であることは想像に難くない。
何とも悔しい思いを抱きながら、しかしレイジュは言った。
「待って、テリスン。……手の空いている者を見つけて、やらせるわ。あなたはいつも通りの仕事をすればいい」
王女付きの侍女には、通りすがりの使用人に汚れた床の清掃を命じるくらいの権限はある。
レイジュはそう言いながら、やはり自身の気持ちが判らなかった。何を間違ってか彼女に同情しているのか、それとも彼女の仕事が滞って、ファドックが娘を案じることを心配しているのだろうか?
「……あなた」
長い沈黙のあとに、女は言った。
「……馬鹿?」
「その言い方はないんじゃない」
レイジュはむっとしてカリアを睨んだ。だが、むしろカリアに睨み返される形になる。
「だって、そうでしょう。恋敵を手伝ってどうするのよ。侍女としては、そう言った嫌がらせを阻止したのは立派だけれど、せいぜいがヴァリンに褒められるくらいでしょう。ファドック様は褒めてくださらないわよ。いえ、褒められるたとしてもそれならまだいいわね。彼女を 守った ことへ御礼でも言われたらあなた、どうするつもり? 泣いちゃうんじゃないの?」
「泣かないわよ」
レイジュはやはりむっとしたままで言った。
「それどころか笑ってみせるわ。ファドック様のお役に立てるなら、私、それでいいもの」
「強がり言うんじゃないわよ」
カリアはあっさりとレイジュの決意を切り捨てた。
「何よ、カリア。私はいま仕事中なのよ。わざわざ呼び出したのは、そんなことを言うため?」
「違うわよ。別の仕事をするようにという、シュアラ様のお言葉を伝えにきただけ」
「別って、何」
レイジュは少し驚いた。シュアラが侍女に用事を言いつけることはもちろん数多くあるが、それはそのときに側仕えている侍女が受けることであって、誰かが指名を受けて彼女の仕事をすると言うことは滅多にない。
「私に、感謝なさい」
カリアは胸を張って言った。
「ファドック様に殿下のお手紙を手渡して、なおかつご様子をうかがってくるという重要な仕事をあなたにもらってきたのよ」
それを聞いたレイジュはぽかんと口を開けた。
「どっ……どうやったの、カリア!? そ、それに第一、カリアが命じられたんじゃないの? 私が行っていいのっ!?」
「あなたに、よ。シュアラ様が、誰がいいかしらって言われるからあなたを推したの。今度、〈金の波〉亭の夕食でもご馳走しなさい」
「する! 何でもする!」
レイジュは友の手を両手で握りしめるとぶんぶんと振った。カリアはしばらく為されるままにしていたが、友人がなかなかそれをとめようとしないので自分から手を外した。
「有難うカリア、愛してる!」
「そういう台詞は」
ファドック様に言いなさい、と言われた娘は、このときは上手に耳をふさいでいた。
「くれぐれも、舞い上がらないようにね。ちゃんとご様子をうかがってくるのよ。……殿下のためだけじゃなくて、自分のために」
判ったわね、と言うカリアに力強くうなずいたレイジュは、新品のリボンを下ろそう、などと心に決めるのだった。
だがそのときは、彼女は何故それが気になったのか判っていなかった。
ただ、廊下の角を曲がったときに、その次の角を曲がっていく幾つかの影が目に入っただけである。
その先には緊急時のための階段しかないはずだ。その階段を使用する者は滅多にいない。暗いし、寒いし、わざわざそこへ行くとしたら城内でこっそりとつき合う男女が仕事の合間に逢い引きをするためくらいのものだ。
しかし角を曲がった影は、どれも女であったように思う。
それも、貴族の侍女の制服を着ていたように見えなかっただろうか。
そして、彼女は思い当たってしまった。その階段をほかの用途で使う人間について。
彼女は逡巡ののちにそれを追った。見たくないものに出会ってしまうことは――承知で。
音を立てぬように重い扉を押し開けた途端、がらがらがっしゃんと何かが派手に階段を転げ落ちる音がした。
「あら……失礼」
半階ほど下から響いたその声に、レイジュは顔をしかめた。
嫌な記憶を呼び起こす癇に障る声は、セラー侯爵の親戚の何だか言う姫に仕える侍女ネレディスのものに間違いない。となると当然、声をかけられた相手についても推測がつく。
誰も使わないこの場所に担当の掃除人などはおらず、一旬おきくらいに交代制であたっていると聞いたことがあるが、その日にちまでいちいち調べたのだとしたら、その
「せっかく終わりそうだったのに、もう一度やり直しね、テリスン?」
レイジュは内心で呪いの言葉を吐いて――上品な教育を受けた侍女はそんな言葉をもともとは知らず、これはエイル少年の影響だった――そっと身を乗り出すと下をのぞき込む。
見れば汚れた水がぶちまけられた階段と、階下に転がった錫桶、踊り場にはネレディスを含む三人の侍女と、青い顔をした掃除娘が立っているのが見える。
ここまで見ておいて、これを見なかったことにして入ってきた扉から去るには、レイジュはどうにも正直すぎた。
「これをきれいにしてからじゃないと、次の仕事には行けないわよねえ?」
レイジュが名を知らない侍女が笑いながら言った。
「ほら、さっさと掃除をしたら!」
ネレディスがテリスンの細い肩をぐいと押した。まさか階段から突き落とす気もなかろうが、少女は足元をふらつかせる。
「ちょっと!」
思わず出てしまった声に、レイジュはまた心で自分に罵声を浴びせた。
「いい加減に、したら」
「――レイジュ」
階段の上からでも、ネレディスの目が不機嫌そうに細められたのは判った。
「あなたには関係、ないでしょう」
「関係ですって?」
レイジュは繰り返した。
「そうよ。それとも、あるかしら。あなただってこの娘が気に入らないはずよ」
「馬鹿言わないで」
レイジュは腰に手を当てた。
「はっきり言って否定しないけど、それとこれとは別問題だわ」
「別問題?」
今度はネレディスの方が繰り返した。
「問題なんて、ひとつでしょう。この女に知らせてやるの。判ってないらしい、身の程ってものをね」
「それはあなたでしょう」
レイジュはずばりと言った。
「こんな馬鹿な真似を繰り返して」
一
「ファドック様がご存知ないと思ってるの?」
「……何ですって」
ネレディスの声に動揺が走った。
「どうして私がわざわざこんなところにいると思うの、ネレディス」
「……見え透いた嘘をつくんじゃないわ、レイジュ。あの人がそんなことを命じるはず、ないじゃない」
「そうね、私が勝手にやってることかもしれないわ」
レイジュはそう言うと半階下の侍女を睨みつけた。ふたりの恋敵は、間にもっと重要なひとりを置いたままでしばらくそうしていたが、ネレディスは視線を逸らすとそのまま「配下」を従えて階下に降りていった。汚れた階段を降りることにはなったが、レイジュの方にやってくるのも嫌だったのだろう。
重い扉が侍女の怒りを表すような音を立てて閉まるのを見届けたあと、レイジュはほうっと息を吐いた。
彼女の視線の先に残されたのは、もっと重要なひとり、である。
「……あの。
「言っておくけど!」
躊躇いがちに出された声にかぶせるように、レイジュは言った。
「私はたまたま通りかかっただけ! ネレディスの底意地の悪さは知ってるから、ちょっと気になっただけなの! ファドック様にあなたのことを頼まれてなんか、いませんからねっ」
言った自分自身でも、それがどういう言い訳なのかよく判らなかった。
もし、彼女がファドックに何かを頼まれるようなことがあれば――本当にテリスンのことを頼まれたのなら複雑だろうが――彼女は大喜びするだろう。一方で、テリスンに、ファドックが彼女のことを案じているなどと思わせてなるものか、という思いがあった。
「あの。有難うございます。私、あの桶みたいに蹴り落とされるかと思った」
「まさか。そこまでしないわよ……たぶんね」
そう言ってからレイジュは思わず吹き出した。
「蹴り落とした? ネレディスが?」
「ええ。下に男性がいたらとても取れないだろう体勢でした」
そう言うと娘はにっと笑った。その笑みはどこか少年めいていて、レイジュはこれまで娘に感じていた印象と異なるものを見たように思った。
「片づけなきゃ。次に――遅れちゃう」
テリスンははっと思い出したように言うと小走りに階段を降り、桶を拾った。ネレディスの言葉を思い出せば、彼女の「次」がファドックの部屋――と言うよりは、それを含む階全体だったが――の清掃であることは想像に難くない。
何とも悔しい思いを抱きながら、しかしレイジュは言った。
「待って、テリスン。……手の空いている者を見つけて、やらせるわ。あなたはいつも通りの仕事をすればいい」
王女付きの侍女には、通りすがりの使用人に汚れた床の清掃を命じるくらいの権限はある。
レイジュはそう言いながら、やはり自身の気持ちが判らなかった。何を間違ってか彼女に同情しているのか、それとも彼女の仕事が滞って、ファドックが娘を案じることを心配しているのだろうか?
「……あなた」
長い沈黙のあとに、女は言った。
「……馬鹿?」
「その言い方はないんじゃない」
レイジュはむっとしてカリアを睨んだ。だが、むしろカリアに睨み返される形になる。
「だって、そうでしょう。恋敵を手伝ってどうするのよ。侍女としては、そう言った嫌がらせを阻止したのは立派だけれど、せいぜいがヴァリンに褒められるくらいでしょう。ファドック様は褒めてくださらないわよ。いえ、褒められるたとしてもそれならまだいいわね。
「泣かないわよ」
レイジュはやはりむっとしたままで言った。
「それどころか笑ってみせるわ。ファドック様のお役に立てるなら、私、それでいいもの」
「強がり言うんじゃないわよ」
カリアはあっさりとレイジュの決意を切り捨てた。
「何よ、カリア。私はいま仕事中なのよ。わざわざ呼び出したのは、そんなことを言うため?」
「違うわよ。別の仕事をするようにという、シュアラ様のお言葉を伝えにきただけ」
「別って、何」
レイジュは少し驚いた。シュアラが侍女に用事を言いつけることはもちろん数多くあるが、それはそのときに側仕えている侍女が受けることであって、誰かが指名を受けて彼女の仕事をすると言うことは滅多にない。
「私に、感謝なさい」
カリアは胸を張って言った。
「ファドック様に殿下のお手紙を手渡して、なおかつご様子をうかがってくるという重要な仕事をあなたにもらってきたのよ」
それを聞いたレイジュはぽかんと口を開けた。
「どっ……どうやったの、カリア!? そ、それに第一、カリアが命じられたんじゃないの? 私が行っていいのっ!?」
「あなたに、よ。シュアラ様が、誰がいいかしらって言われるからあなたを推したの。今度、〈金の波〉亭の夕食でもご馳走しなさい」
「する! 何でもする!」
レイジュは友の手を両手で握りしめるとぶんぶんと振った。カリアはしばらく為されるままにしていたが、友人がなかなかそれをとめようとしないので自分から手を外した。
「有難うカリア、愛してる!」
「そういう台詞は」
ファドック様に言いなさい、と言われた娘は、このときは上手に耳をふさいでいた。
「くれぐれも、舞い上がらないようにね。ちゃんとご様子をうかがってくるのよ。……殿下のためだけじゃなくて、自分のために」
判ったわね、と言うカリアに力強くうなずいたレイジュは、新品のリボンを下ろそう、などと心に決めるのだった。