11 明け方の夢
文字数 5,684文字
「冗談じゃない」
エイラは言った。
「何だって?」
シーヴは面白そうに返す。
「冗談じゃないと言ったんだ」
「そうか」
砂漠の王子は肩をすくめる。
「いい考えだと思ったんだが」
「馬鹿かっ。いまさら王子殿下を演じてどうするんだよっ」
もちろん彼は「演じる」のではなく本物であったが、エイラにしてみればそのようなものだった。
「城を訪れるのが『シーヴ』ではまずいだろう」
「船乗りふうの男」は彼自身の作り話のせいでできぬ変装になっているし、この館でしているようにファドックの身分ある友人という形をとれば――キド伯爵は気づいているに違いなかったが、何も言わなかった――「リャカラーダ」を隠し切れないかもしれない。それならばいっそ、最初からそう名乗ろうかというシーヴの呟きをエイラが蹴飛ばしたのであった。
「ソレスに一言もなしで出立するのも気に入らんのだが」
「本当はもう、ランスハル先生がつきっきりで診てなきゃいけないこともないらしいけど、目を放すとあの人はすぐに仕事に戻ろうとするから、ああやって王城で監視してなきゃならないのさ」
「だろうな」
シーヴはにやりとしてから、少し顔を曇らせた。
「しかしそれならやはり、俺は隊長殿 と言葉を交わす機会はないということか」
「――行く、のか」
もちろん行くに決まっている。彼はシャムレイの第三王子であるのだ。彼の街に帰るに決まっている。
「ああ」
シーヴはうなずいた。
「ここは居心地がいいが……いつまでものんびりしていられない。俺は、この年が終われば帰るという約束をしたんだ。いますぐ経ったって今年中には間に合いそうもないが、帰る意志を固めたのは今年中だということで父上には勘弁してもらおう」
王子リャカラーダはそんなふうに言うと、東の地を眺めるようにした。
「まあ、とんだ騒ぎだったってとこだな。死にかけたことも、さんざっぱら魔術に翻弄されたことも、こうなったからにはいい思い出だ」
とてもそうは思っていなさそうな苦々しい口調でシーヴは言った。
「とにかく、俺は無事だし、お前も無事だ」
めでたいことだ、と言うように青年は両手をぱん、と打ち鳴らした。
「もう少し……お前を守ったと言い切れるくらいであれば最上だったが」
「何だよ」
エイラは意味もなく顔が熱くなるのを覚えた。
「あんたは、私を守る必要なんてない。何度もそう言ったのに、何度も私を守ろうとしてくれたじゃないか」
「だが、俺が剣を抜いた先には誰もおらず、振り返るとお前はいないのさ。『守ろうとした』って実際に守れなきゃ何の意味がある。幸い、お前は無事だが、それはお前自身の力と――あとはあれだな、守り手殿たちに、先代殿たちのおかげだ」
「……拗ねてるのか、お前?」
「……そうかもしれん」
エイラにとって意外なことにシーヴはそれを認めた。
「俺は、やろうと思えばたいていのことはできると思ってた。言っておくが、命令をして、じゃないぞ。自分の力で……場合によっては砂漠の民の力を借りることはあっても、乗り越えられない砂嵐はないと思っていた。だが」
青年は言葉を切った。
「結果、俺は自分が思っていたほどに強くは――こう在りたいと思ったほどには強くなかった、と思い知らされた訳だ」
エイラは心臓が小さく跳ねるのを感じた。
(思うほどに、強く在れたら――よい)
それは、エイラが、それともエイル、或いはリ・ガン、どのような形であっても強く惹かれたふたりの男――〈守護者〉と呼んだ彼らが発した言葉とよく似ていた。
浮かんだ懐かしい気持ちに苦笑が浮かんだ。
終わったばかりであるはずの「翡翠」を巡る一連の出来事に対して郷愁にすら似た気持ちを覚えるには、まだ早くはないだろうか?
「可笑しいか。かもしれんな」
その笑みを目にとめて、シーヴは肩をすくめて言った。エイラは首を振る。
「違うさ、馬鹿にした訳じゃない。ちょっと……思っただけさ」
何を――と言うようにシーヴは片眉を上げた。エイラは少し躊躇ってから、続ける。
「私が、強い人だと尊敬する……同時に、負けるもんかと思う人はみんな、自分は強くない、強く在りたいと、そう言うんだ」
それには彼も含まれるのだろうか、そうだとしてそれは褒め言葉なのだろうか、などと考えるようにシーヴは目を細め、エイラは、あまり考えるな、とでも言うように手を振った。
「いつ、発つ気だ」
話を変えようとするかのようにエイラは言った。そうだな、とシーヴは顎に手をやる。
「ろくな準備も要らんし、発とうと思えばいますぐにでも」
それもいいな、と王子は言った。エイラはどきりとするのを覚える。
「そんなに……急がなくても」
シーヴは片眉を上げる。
「何だって?」
「いや、その、せっかくけりがついたんだし、ファドック様だってお前が行っちまったら残念がるよ。いや、礼儀を欠いたと申し訳なく思うかもしれない」
「ありそうだな」
彼は笑った。
「機会があればいずれまたくるさ。……まあ、ないような気もするが」
馬鹿げた放浪はやめる、と言った自身の誓いを思い出してシーヴは肩をすくめた。
「そう、か」
エイラは何を言おうとしたのか――何を言いたいのか判らなくなって視線を落とした。
「――お前も、一緒にくるか。俺の、街に」
躊躇いがちに出された声にエイラは顔をあげると目をぱちくりとさせる。この台詞はどこかで聞いたことがあるように思った。
「……何だって?」
今度はエイラが言った。
「いや」
シーヴは咳払いをいた。
「おかしな意味じゃないぞ。ただ、その、もしアーレイドにいたくないって言うなら、東も悪くないぞ――と、な」
そう言えば、とエイラは思い出した。「エイラ」はアーレイドには顔を合わせたくない人間が多いと言うことになっているのだ。決して嘘ではないどころか、ある意味、真実ではあるが。
「私は」
エイラはいつか〈翡翠の宮殿 〉で見た夢を思い出して言った。
「砂漠には――興味ないよ、王子殿下」
「そうか」
シーヴはまた東方を見据えてそう言うと、外していた装備を身に付け始めた。
「本当に、もう行く気なのか?」
エイラが驚いて言うと、シーヴは剣帯を締め直しながら脇に手をやった。
「こいつがいささか、心許ないな。一本残して、アスレンにみんな燃やされちまったからなあ」
その問いには答えず、シーヴはそんなことを言う。
「おい」
「何だ」
「本当に、いますぐ発つ気なのか!?」
聞こえなかったと言うのならもう一度言ってやる――とばかりに娘は叫んだ。これなら聞かなかったふりはできまい。シーヴは片耳をふさぐ動作をする。
「〈夕星 の導きには夕刻までに従え〉と言うだろう」
進むべき道を指し示すと言うダムルトに関する言い回しを使って、シーヴはそれを認めた。
「夕星は不可思議な我が定めの終わりを指し、今夕も美しく輝かん、とな」
「ダムルトが見えるのは西だろうが」
「細かいことを言うな」
シーヴはさらりと言った。
「それじゃ、お別れといくか、エイラ」
「――本当に、行くのか」
エイラは、何を馬鹿みたいに繰り返すのだろう、と考えながらもまた言った。
「いつまでも留まっていても、な」
シーヴは唇を歪めて言った。
「でも……せめて〈変異〉の年が終わるまで、ここにいたらどうだ。その、本当に……全部済んだのか、判らないじゃないか」
「終わったさ。そう言ったろう。判ってるはずだ」
シーヴは肩をすくめた。
「たとえ終わっていなかったとしたって、アスレンの阿呆はもういないんだ。いまから翡翠を狙おうって馬鹿も出てこないだろう。先代殿たちには申し訳ない言い方だが、幸いにして俺たちには、次回 の心配をする必要はない」
シーヴの言葉はその通りであって、エイラはそれに反駁することはできなかった。何故自分がそのようなことをしようとするのかも判らず――いや、判りたくなかった。不意にシーヴは片眉を上げる。
「……まさかとは思うが、俺を引き止めようと言うのか?」
「そりゃ」
エイラは目を泳がせた。
「言ったろう。ファドック様が気にする」
「お前は」
砂漠の青年は言った。
「お前自身は、どうなんだ。エイラ」
「私は」
エイラは押し黙った。何か言おうとして口を開きかけ、やめたというように首を振る。そしてふと思いついたように左腰に――触れた。
「これ」
エイラはそれを差し出した。
「やる。あんたの愛用のもんよりでかくて重いけど、あんたはこの手の が得意だろう」
言いながら差し出された短剣をシーヴはじっと見た。
「……大事なもん、なんだろ」
「大事さ」
エイラは言った。
「でも私はアーレイドに帰ってきたんだし、その……よりどころ としての『お守り』はもう必要ないんだ。実用的にあんたの方がこれが要るだろうし、それに」
戸惑い気味のシーヴの手にそれを握らせながら、エイラは続けた。
「俺の大事なもんをあんたに持っててほしい」
複雑な表情を見せながら礼を言うシーヴの顔を眺めながら、エイラは言った。
「そうさ、終わった」
彼女は先のシーヴの言葉を使った。
「私は、まだリ・ガンという存在だけれど、それでも見えていたものや感じていたものがなくなっているんだ」
「なくなっている?」
シーヴの繰り返しに彼女はうなずいた。
「私はもう、〈守護者〉がどこにいるのか感じ取れないし、〈鍵〉との絶対的なつながりも――失せた」
「そうか。……そうかもしれんな」
シーヴもまた、似たものを覚えていた。
エイラが彼の〈翡翠の娘〉であるという思いは変わらない。彼の運命を強く揺さぶった存在。だが、これまで幾度となく彼を襲った焦燥感――彼女を探さなければ、隣にいなければ、守らなければ、という強迫的な感覚はなくなっているように思えた。
だが、変わらぬものも、あった。
「エイラ。言っておく」
シーヴは彼女の目を見た。
「リ・ガンと〈鍵〉という関係のもたらす運命だったとしても、俺はお前に惹かれた。お前は大切な存在で、俺の運命の女」
その言葉にエイラは咳き込みかけたが、どうにか耐えた。
「笑うなよ」
それを見て取ってシーヴは苦笑した。
「まあ、その、だからそれは……」
エイラは言いかけて頭をかいた。
「もう消えたろ。そんな馬鹿げた思いは」
「――そう思うか」
シーヴの瞳と声に真剣な色を感じ取って、エイラは戸惑った。
「勘違い、するなよ。おかしな力に影響されてなんて、あんたはそう言うの、嫌いだろ。もしあんたがまだ私に何か感じるところがあったとしても、それは……残り香みたいなもんだよ。夜は……明けたんだ。それは、明け方の夢みたいなもんさ。見たものは心に残るけど……すぐに消える」
「そうかも、しれんな」
シーヴはまた言った。
「残像。幻。砂上の蜃気楼だ。だがな、エイラ。たとえ幻でも、それを見た者にとっては――それは確かに、あったんだ」
「そうかも……しれないな」
今度はエイラがそう繰り返した。
「翡翠が見せた夢。あんたはそれに巻き込まれて……いや、私も巻き込まれた、のかな」
エイラはうつむき、口のなかで何か呟くようにした。
「何だ?」
声を聞き取ろうと、シーヴは身を乗り出すようにする。
「ええい」
エイラは顔を上げた。彼女の間近まで寄っていた青年は、その両頬を掴まれ、予期せぬ口づけを受けることに――なる。
「ええいっ、この、忌々しい砂漠のクソ王子殿下め!」
エイラはすっかり少年の口調で言った。
「俺の方から男にキスをするなんて、考えたくもなかったよ!」
「そりゃ、まあ」
シーヴは目をしばたたかせながら言った。
「俺も、驚きだ」
「さっさと、東国にでも大砂漠 にでも帰れ!」
くるりと背中を向けて怒鳴るようにするエイラは照れ隠しと言うより――自分はいま何をしてしまったのだろうと血の気が引きかけるのを隠そうとしていた。
シーヴはその肩を掴んで振り返らせようかどうしようか迷うように右手を差し伸べて、ぎこちなく開いていた右手を閉ざすと、娘に聞こえないほどの微かな嘆息をしてその手を引いた。
「――エイラ」
「何だよ」
「砂漠に興味がなくてもかまわん。だがシャムレイを……いつでも俺を訪れて、こい。ああ、俺は妻を娶ればランティムにいるかもしれん。シャムレイで、すちゃらか第三王子の居所を尋ねてくれ」
シーヴが妹エムレイデルによって評された言葉を使うと、エイラの肩が揺れた。
笑ったのだろう。
「ああ、そうするよ」
エイラはうなずいた。彼女はもう――次の年には自身が存在していないかもしれないと言う不安は語らなかった。
「――それじゃな、シーヴ。城門まで見送ったり、しないからな」
エイラは振り返るとにやりとした。シーヴも同様にする。
「結構だ。お前を泣かせれば、騎士殿に切られるかもしれんしな」
「馬鹿っ何を言っ」
お前と分かれるからって泣くものか、という抗議と、エイラを泣かせたと言ってファドックが怒るはずがあろうか、との文句を複雑に込めようとした台詞は、先と同じような突然の口づけでふさがれた。
「……一方的にお前からだけでは、割に合わないからな」
砂漠の王子はそう言うと、怒りと寂しさという両極端な感情を混乱させて浮かべている娘の髪を撫でた。
「お別れだ、エイラ。達者で暮らせよ」
その言葉を残して砂漠の青年は、そのまま彼女の横を通り過ぎて部屋の戸へ向かい、かちゃりと音を立ててそれを開けた。
シーヴはゆっくりと、しかし力強く一歩を踏み出し、その向こうから彼女を振り返ることもしないままで、エイラの視界から――姿を消した。
エイラは言った。
「何だって?」
シーヴは面白そうに返す。
「冗談じゃないと言ったんだ」
「そうか」
砂漠の王子は肩をすくめる。
「いい考えだと思ったんだが」
「馬鹿かっ。いまさら王子殿下を演じてどうするんだよっ」
もちろん彼は「演じる」のではなく本物であったが、エイラにしてみればそのようなものだった。
「城を訪れるのが『シーヴ』ではまずいだろう」
「船乗りふうの男」は彼自身の作り話のせいでできぬ変装になっているし、この館でしているようにファドックの身分ある友人という形をとれば――キド伯爵は気づいているに違いなかったが、何も言わなかった――「リャカラーダ」を隠し切れないかもしれない。それならばいっそ、最初からそう名乗ろうかというシーヴの呟きをエイラが蹴飛ばしたのであった。
「ソレスに一言もなしで出立するのも気に入らんのだが」
「本当はもう、ランスハル先生がつきっきりで診てなきゃいけないこともないらしいけど、目を放すとあの人はすぐに仕事に戻ろうとするから、ああやって王城で監視してなきゃならないのさ」
「だろうな」
シーヴはにやりとしてから、少し顔を曇らせた。
「しかしそれならやはり、俺は
「――行く、のか」
もちろん行くに決まっている。彼はシャムレイの第三王子であるのだ。彼の街に帰るに決まっている。
「ああ」
シーヴはうなずいた。
「ここは居心地がいいが……いつまでものんびりしていられない。俺は、この年が終われば帰るという約束をしたんだ。いますぐ経ったって今年中には間に合いそうもないが、帰る意志を固めたのは今年中だということで父上には勘弁してもらおう」
王子リャカラーダはそんなふうに言うと、東の地を眺めるようにした。
「まあ、とんだ騒ぎだったってとこだな。死にかけたことも、さんざっぱら魔術に翻弄されたことも、こうなったからにはいい思い出だ」
とてもそうは思っていなさそうな苦々しい口調でシーヴは言った。
「とにかく、俺は無事だし、お前も無事だ」
めでたいことだ、と言うように青年は両手をぱん、と打ち鳴らした。
「もう少し……お前を守ったと言い切れるくらいであれば最上だったが」
「何だよ」
エイラは意味もなく顔が熱くなるのを覚えた。
「あんたは、私を守る必要なんてない。何度もそう言ったのに、何度も私を守ろうとしてくれたじゃないか」
「だが、俺が剣を抜いた先には誰もおらず、振り返るとお前はいないのさ。『守ろうとした』って実際に守れなきゃ何の意味がある。幸い、お前は無事だが、それはお前自身の力と――あとはあれだな、守り手殿たちに、先代殿たちのおかげだ」
「……拗ねてるのか、お前?」
「……そうかもしれん」
エイラにとって意外なことにシーヴはそれを認めた。
「俺は、やろうと思えばたいていのことはできると思ってた。言っておくが、命令をして、じゃないぞ。自分の力で……場合によっては砂漠の民の力を借りることはあっても、乗り越えられない砂嵐はないと思っていた。だが」
青年は言葉を切った。
「結果、俺は自分が思っていたほどに強くは――こう在りたいと思ったほどには強くなかった、と思い知らされた訳だ」
エイラは心臓が小さく跳ねるのを感じた。
(思うほどに、強く在れたら――よい)
それは、エイラが、それともエイル、或いはリ・ガン、どのような形であっても強く惹かれたふたりの男――〈守護者〉と呼んだ彼らが発した言葉とよく似ていた。
浮かんだ懐かしい気持ちに苦笑が浮かんだ。
終わったばかりであるはずの「翡翠」を巡る一連の出来事に対して郷愁にすら似た気持ちを覚えるには、まだ早くはないだろうか?
「可笑しいか。かもしれんな」
その笑みを目にとめて、シーヴは肩をすくめて言った。エイラは首を振る。
「違うさ、馬鹿にした訳じゃない。ちょっと……思っただけさ」
何を――と言うようにシーヴは片眉を上げた。エイラは少し躊躇ってから、続ける。
「私が、強い人だと尊敬する……同時に、負けるもんかと思う人はみんな、自分は強くない、強く在りたいと、そう言うんだ」
それには彼も含まれるのだろうか、そうだとしてそれは褒め言葉なのだろうか、などと考えるようにシーヴは目を細め、エイラは、あまり考えるな、とでも言うように手を振った。
「いつ、発つ気だ」
話を変えようとするかのようにエイラは言った。そうだな、とシーヴは顎に手をやる。
「ろくな準備も要らんし、発とうと思えばいますぐにでも」
それもいいな、と王子は言った。エイラはどきりとするのを覚える。
「そんなに……急がなくても」
シーヴは片眉を上げる。
「何だって?」
「いや、その、せっかくけりがついたんだし、ファドック様だってお前が行っちまったら残念がるよ。いや、礼儀を欠いたと申し訳なく思うかもしれない」
「ありそうだな」
彼は笑った。
「機会があればいずれまたくるさ。……まあ、ないような気もするが」
馬鹿げた放浪はやめる、と言った自身の誓いを思い出してシーヴは肩をすくめた。
「そう、か」
エイラは何を言おうとしたのか――何を言いたいのか判らなくなって視線を落とした。
「――お前も、一緒にくるか。俺の、街に」
躊躇いがちに出された声にエイラは顔をあげると目をぱちくりとさせる。この台詞はどこかで聞いたことがあるように思った。
「……何だって?」
今度はエイラが言った。
「いや」
シーヴは咳払いをいた。
「おかしな意味じゃないぞ。ただ、その、もしアーレイドにいたくないって言うなら、東も悪くないぞ――と、な」
そう言えば、とエイラは思い出した。「エイラ」はアーレイドには顔を合わせたくない人間が多いと言うことになっているのだ。決して嘘ではないどころか、ある意味、真実ではあるが。
「私は」
エイラはいつか〈
「砂漠には――興味ないよ、王子殿下」
「そうか」
シーヴはまた東方を見据えてそう言うと、外していた装備を身に付け始めた。
「本当に、もう行く気なのか?」
エイラが驚いて言うと、シーヴは剣帯を締め直しながら脇に手をやった。
「こいつがいささか、心許ないな。一本残して、アスレンにみんな燃やされちまったからなあ」
その問いには答えず、シーヴはそんなことを言う。
「おい」
「何だ」
「本当に、いますぐ発つ気なのか!?」
聞こえなかったと言うのならもう一度言ってやる――とばかりに娘は叫んだ。これなら聞かなかったふりはできまい。シーヴは片耳をふさぐ動作をする。
「〈
進むべき道を指し示すと言うダムルトに関する言い回しを使って、シーヴはそれを認めた。
「夕星は不可思議な我が定めの終わりを指し、今夕も美しく輝かん、とな」
「ダムルトが見えるのは西だろうが」
「細かいことを言うな」
シーヴはさらりと言った。
「それじゃ、お別れといくか、エイラ」
「――本当に、行くのか」
エイラは、何を馬鹿みたいに繰り返すのだろう、と考えながらもまた言った。
「いつまでも留まっていても、な」
シーヴは唇を歪めて言った。
「でも……せめて〈変異〉の年が終わるまで、ここにいたらどうだ。その、本当に……全部済んだのか、判らないじゃないか」
「終わったさ。そう言ったろう。判ってるはずだ」
シーヴは肩をすくめた。
「たとえ終わっていなかったとしたって、アスレンの阿呆はもういないんだ。いまから翡翠を狙おうって馬鹿も出てこないだろう。先代殿たちには申し訳ない言い方だが、幸いにして俺たちには、
シーヴの言葉はその通りであって、エイラはそれに反駁することはできなかった。何故自分がそのようなことをしようとするのかも判らず――いや、判りたくなかった。不意にシーヴは片眉を上げる。
「……まさかとは思うが、俺を引き止めようと言うのか?」
「そりゃ」
エイラは目を泳がせた。
「言ったろう。ファドック様が気にする」
「お前は」
砂漠の青年は言った。
「お前自身は、どうなんだ。エイラ」
「私は」
エイラは押し黙った。何か言おうとして口を開きかけ、やめたというように首を振る。そしてふと思いついたように左腰に――触れた。
「これ」
エイラはそれを差し出した。
「やる。あんたの愛用のもんよりでかくて重いけど、あんたは
言いながら差し出された短剣をシーヴはじっと見た。
「……大事なもん、なんだろ」
「大事さ」
エイラは言った。
「でも私はアーレイドに帰ってきたんだし、その……
戸惑い気味のシーヴの手にそれを握らせながら、エイラは続けた。
「俺の大事なもんをあんたに持っててほしい」
複雑な表情を見せながら礼を言うシーヴの顔を眺めながら、エイラは言った。
「そうさ、終わった」
彼女は先のシーヴの言葉を使った。
「私は、まだリ・ガンという存在だけれど、それでも見えていたものや感じていたものがなくなっているんだ」
「なくなっている?」
シーヴの繰り返しに彼女はうなずいた。
「私はもう、〈守護者〉がどこにいるのか感じ取れないし、〈鍵〉との絶対的なつながりも――失せた」
「そうか。……そうかもしれんな」
シーヴもまた、似たものを覚えていた。
エイラが彼の〈翡翠の娘〉であるという思いは変わらない。彼の運命を強く揺さぶった存在。だが、これまで幾度となく彼を襲った焦燥感――彼女を探さなければ、隣にいなければ、守らなければ、という強迫的な感覚はなくなっているように思えた。
だが、変わらぬものも、あった。
「エイラ。言っておく」
シーヴは彼女の目を見た。
「リ・ガンと〈鍵〉という関係のもたらす運命だったとしても、俺はお前に惹かれた。お前は大切な存在で、俺の運命の女」
その言葉にエイラは咳き込みかけたが、どうにか耐えた。
「笑うなよ」
それを見て取ってシーヴは苦笑した。
「まあ、その、だからそれは……」
エイラは言いかけて頭をかいた。
「もう消えたろ。そんな馬鹿げた思いは」
「――そう思うか」
シーヴの瞳と声に真剣な色を感じ取って、エイラは戸惑った。
「勘違い、するなよ。おかしな力に影響されてなんて、あんたはそう言うの、嫌いだろ。もしあんたがまだ私に何か感じるところがあったとしても、それは……残り香みたいなもんだよ。夜は……明けたんだ。それは、明け方の夢みたいなもんさ。見たものは心に残るけど……すぐに消える」
「そうかも、しれんな」
シーヴはまた言った。
「残像。幻。砂上の蜃気楼だ。だがな、エイラ。たとえ幻でも、それを見た者にとっては――それは確かに、あったんだ」
「そうかも……しれないな」
今度はエイラがそう繰り返した。
「翡翠が見せた夢。あんたはそれに巻き込まれて……いや、私も巻き込まれた、のかな」
エイラはうつむき、口のなかで何か呟くようにした。
「何だ?」
声を聞き取ろうと、シーヴは身を乗り出すようにする。
「ええい」
エイラは顔を上げた。彼女の間近まで寄っていた青年は、その両頬を掴まれ、予期せぬ口づけを受けることに――なる。
「ええいっ、この、忌々しい砂漠のクソ王子殿下め!」
エイラはすっかり少年の口調で言った。
「俺の方から男にキスをするなんて、考えたくもなかったよ!」
「そりゃ、まあ」
シーヴは目をしばたたかせながら言った。
「俺も、驚きだ」
「さっさと、東国にでも
くるりと背中を向けて怒鳴るようにするエイラは照れ隠しと言うより――自分はいま何をしてしまったのだろうと血の気が引きかけるのを隠そうとしていた。
シーヴはその肩を掴んで振り返らせようかどうしようか迷うように右手を差し伸べて、ぎこちなく開いていた右手を閉ざすと、娘に聞こえないほどの微かな嘆息をしてその手を引いた。
「――エイラ」
「何だよ」
「砂漠に興味がなくてもかまわん。だがシャムレイを……いつでも俺を訪れて、こい。ああ、俺は妻を娶ればランティムにいるかもしれん。シャムレイで、すちゃらか第三王子の居所を尋ねてくれ」
シーヴが妹エムレイデルによって評された言葉を使うと、エイラの肩が揺れた。
笑ったのだろう。
「ああ、そうするよ」
エイラはうなずいた。彼女はもう――次の年には自身が存在していないかもしれないと言う不安は語らなかった。
「――それじゃな、シーヴ。城門まで見送ったり、しないからな」
エイラは振り返るとにやりとした。シーヴも同様にする。
「結構だ。お前を泣かせれば、騎士殿に切られるかもしれんしな」
「馬鹿っ何を言っ」
お前と分かれるからって泣くものか、という抗議と、エイラを泣かせたと言ってファドックが怒るはずがあろうか、との文句を複雑に込めようとした台詞は、先と同じような突然の口づけでふさがれた。
「……一方的にお前からだけでは、割に合わないからな」
砂漠の王子はそう言うと、怒りと寂しさという両極端な感情を混乱させて浮かべている娘の髪を撫でた。
「お別れだ、エイラ。達者で暮らせよ」
その言葉を残して砂漠の青年は、そのまま彼女の横を通り過ぎて部屋の戸へ向かい、かちゃりと音を立ててそれを開けた。
シーヴはゆっくりと、しかし力強く一歩を踏み出し、その向こうから彼女を振り返ることもしないままで、エイラの視界から――姿を消した。