2 懸案
文字数 2,772文字
窓から差し込む朝日を見やりながら、男はじっと考えていた。
暖炉に火を入れにきた使用人は主が既に部屋にいることに驚き、遅れたことに詫びを言ったが、別に彼が寝坊をした訳ではない。彼は昨夜のお楽しみのあとでもちゃんと仕事を忘れず、朝一番でやってきたのだ。
それに言葉もなく手を振って追い払うような仕草をするのは、この主にしては珍しかった。使用人が主のその態度の理由を知るのは、この仕事の少しあと、朝食のために食堂へ向かったときのことにある。
「何故だ」
呟くように言ったその声は、苛ついていただろうか。
しばらくして、叩かれる音もなく開けられた扉の方にも、男は目を向けることさえしなかった。
「あら。お早うございます、閣下。ずいぶんとお早いですね、何か懸案事項でも?」
茶金髪をすっきりと編み上げた三十代前半ほどの女が声をかけると、仕方なさそうに男は振り向く。
「懸案。そうだな、そのようなものだ」
「まあ、はっきりしませんのね。不機嫌の原因は存じていますけれど……本当ですの? エイルがいなくなったというのは」
「そのようだな」
ゼレット・カーディルはむっつりと言った。女性執務官は困ったように微笑む。
「閣下が、しつこくされたんでしょう」
「お前までそんなことを言うのか、ミレイン」
「冗談ですわ。閣下はお優しいことを言うのに本当はつれないなんてことは、よく存じておりますもの」
澄ましてそう言うミレインに、普段のゼレットなら何か気の利いたことを返すであろうが、このときは曖昧な返答をしただけだった。
「気になるのですか? そうですね、私も気になります。あまり言葉は交わしませんでしたが、何も言わずに出ていくような子には見えませんでしたもの」
「そうだな」
ゼレットは再び、窓に目をやった。
「リ・ガンでは、なかったということか」
「何ですって? ああ、カーディル伯爵家の伝説ですか? まさか閣下、本当にあの子が『天から降ってきた』のだと思っていらっしゃったのですか?」
「まさか」
ゼレットは首を振った。
「伝承など、信じてはおらん」
「では」
ミレインは持ってきた書類を伯爵の卓の上で揃え直すと、主人に差し出した。
「お気に入りの少年が姿を消して、気落ちされていると。それを忘れるために職務に打ち込まれますか、それとも今日は一日中、そうしてぼんやりされますか?」
手厳しい言い草に、ようやくゼレットの口の端が上がった。
「そのような意地悪いことを言うな、ミレイン。妬いておるのか?」
「閣下がどんな女を抱かれようと男を抱かれようと、わたくしはかまいません。かまっていたら、仕事になりませんから」
「判った判った、仕事に入ろう。全く、寝台の外では厳しい女だな」
「常にお優しい閣下よりはましですわ」
ミレインはそう言うと、しかし書類をめくろうともしない主人を咎めることはせず、じっと見た。
「仕事の前に、ひとつ伺ってもよろしいでしょうか?」
「何だ」
意外そうに、ゼレットは返す。仕事前のミレインがそんなことを言うのは珍しい。
「エイルがいないのを見つけられたのは閣下なのでしょう? 今朝――早朝の話だと聞きましたわ。昨夜の春女に満足されなくて、あの子を求めたとも思いませんけれど」
「何だ、女どもを呼んでおったことまで知っとるのか、お前は」
ゼレットは耳の早い――言い換えれば、仕事のできる――執務官に唸り、再び窓の方に目をやった。
「深夜に……奇妙なものを感じてな」
「奇妙?」
「俺の部屋に、冷たい風が吹き込んだように思ったのだ」
「まあ、窓に歪みでも? 修繕の職人を呼ばなければなりませんね」
「いや」
ゼレットは否定した。
「確かめたが、窓はしっかりとしていた。ルアは気づかなかったと言うから俺は気のせいだろうと思うことにしたが、どうにも気になってな、睦言もそうそうに切り上げた」
「まあ」
ミレインは目を細めた。
「お気に入りの春女でしょうに、お珍しい」
「妬くなというのに。とにかくそのあと、ろくに寝付けず、明け方にサリタールの女どもを見送る真似までした」
「それはまた、喜ばれたでしょうね」
春女と呼ばれる女たちとの契約には様々な形があったが、高級娼館であるサリタールは、日が高く昇るまで男の元にいるのは堕落のはじまりだとばかりに――客に情が移る、というのは春女には堕落だ――明け方に寝台を去らせる。
たいていの男は寝こけたままであり、ゼレットも送るとしても寝台から見送る程度だったが、この日は全員を戸口まで送ってやったという。
もののついでだと伯爵は言うが、春女には好印象であろう、とミレインは言うのだ。
「期待をさせてはいけませんと申し上げたでしょう? 春女も女ですのよ」
「とにかく」
咳払いをして、ゼレットはまた言った。
「その戻り道でエイルの部屋の前を通ったのだ。戸が開いていたので奇妙に思ってのぞき込めば、エイルの姿も彼が連れ込んだ女の気配もなく、カティーラが乱れておらぬ寝台の真ん中で丸くなっておった」
「それで慌てられた、と?」
「慌てなど……いや、少し慌てたな」
半端に開いたままの引き出しは、賊が侵入したのでなければ、部屋の主の突然の旅立ちを示唆した。厨房に足を伸ばしてもまだディーグですらきている様子はなく、少年の仕事場は静まりかえっていた。
やがてやってきた料理長からいくばくかの保存食の紛失と、当番の町憲兵 から戸口の角灯の紛失を知らされた伯爵は、少年が去ったことを確信せざるを得なかったのだ。
「町の見張りを問いただしたが、昨夜の内に出ていった者はないと言った。となればまだカーディルにおるのかもしれんが」
ゼレットは首を振る。
「去りたいと言うのなら、無理に引き戻す訳にはいかぬだろう。俺はあの少年に対して何の権限も持たぬのだ」
「……驚きましたわ」
ミレインは言った。
「どうしてだ。俺ならば強引に連れ戻すとでも思ったか?」
「いえ、そうではなく。もう町まで行って、そして戻ってきて。あの子のために、朝からそれだけの仕事をされたのですか。それは少し」
妬けますわね、と女は微笑した。
「お休みにもなっておられないのでしたら、仕事をしていただいてもはかどりませんわ。まずは朝食でもお摂り下さいな、閣下。それから、念のためにお部屋の窓を調べさせましょう」
執務官の言葉にゼレットは曖昧に賛同を示したが、窓に何の異常もないことはエイルの旅立ちと同様に確信があった。
身を凍らすような風に思えたものは、少年の出奔を暗示していたのだろうかなどと考えたゼレット伯爵は、伝承の類など信じておらぬはずの自分がそんなふうに思うことを少し笑った。
暖炉に火を入れにきた使用人は主が既に部屋にいることに驚き、遅れたことに詫びを言ったが、別に彼が寝坊をした訳ではない。彼は昨夜のお楽しみのあとでもちゃんと仕事を忘れず、朝一番でやってきたのだ。
それに言葉もなく手を振って追い払うような仕草をするのは、この主にしては珍しかった。使用人が主のその態度の理由を知るのは、この仕事の少しあと、朝食のために食堂へ向かったときのことにある。
「何故だ」
呟くように言ったその声は、苛ついていただろうか。
しばらくして、叩かれる音もなく開けられた扉の方にも、男は目を向けることさえしなかった。
「あら。お早うございます、閣下。ずいぶんとお早いですね、何か懸案事項でも?」
茶金髪をすっきりと編み上げた三十代前半ほどの女が声をかけると、仕方なさそうに男は振り向く。
「懸案。そうだな、そのようなものだ」
「まあ、はっきりしませんのね。不機嫌の原因は存じていますけれど……本当ですの? エイルがいなくなったというのは」
「そのようだな」
ゼレット・カーディルはむっつりと言った。女性執務官は困ったように微笑む。
「閣下が、しつこくされたんでしょう」
「お前までそんなことを言うのか、ミレイン」
「冗談ですわ。閣下はお優しいことを言うのに本当はつれないなんてことは、よく存じておりますもの」
澄ましてそう言うミレインに、普段のゼレットなら何か気の利いたことを返すであろうが、このときは曖昧な返答をしただけだった。
「気になるのですか? そうですね、私も気になります。あまり言葉は交わしませんでしたが、何も言わずに出ていくような子には見えませんでしたもの」
「そうだな」
ゼレットは再び、窓に目をやった。
「リ・ガンでは、なかったということか」
「何ですって? ああ、カーディル伯爵家の伝説ですか? まさか閣下、本当にあの子が『天から降ってきた』のだと思っていらっしゃったのですか?」
「まさか」
ゼレットは首を振った。
「伝承など、信じてはおらん」
「では」
ミレインは持ってきた書類を伯爵の卓の上で揃え直すと、主人に差し出した。
「お気に入りの少年が姿を消して、気落ちされていると。それを忘れるために職務に打ち込まれますか、それとも今日は一日中、そうしてぼんやりされますか?」
手厳しい言い草に、ようやくゼレットの口の端が上がった。
「そのような意地悪いことを言うな、ミレイン。妬いておるのか?」
「閣下がどんな女を抱かれようと男を抱かれようと、わたくしはかまいません。かまっていたら、仕事になりませんから」
「判った判った、仕事に入ろう。全く、寝台の外では厳しい女だな」
「常にお優しい閣下よりはましですわ」
ミレインはそう言うと、しかし書類をめくろうともしない主人を咎めることはせず、じっと見た。
「仕事の前に、ひとつ伺ってもよろしいでしょうか?」
「何だ」
意外そうに、ゼレットは返す。仕事前のミレインがそんなことを言うのは珍しい。
「エイルがいないのを見つけられたのは閣下なのでしょう? 今朝――早朝の話だと聞きましたわ。昨夜の春女に満足されなくて、あの子を求めたとも思いませんけれど」
「何だ、女どもを呼んでおったことまで知っとるのか、お前は」
ゼレットは耳の早い――言い換えれば、仕事のできる――執務官に唸り、再び窓の方に目をやった。
「深夜に……奇妙なものを感じてな」
「奇妙?」
「俺の部屋に、冷たい風が吹き込んだように思ったのだ」
「まあ、窓に歪みでも? 修繕の職人を呼ばなければなりませんね」
「いや」
ゼレットは否定した。
「確かめたが、窓はしっかりとしていた。ルアは気づかなかったと言うから俺は気のせいだろうと思うことにしたが、どうにも気になってな、睦言もそうそうに切り上げた」
「まあ」
ミレインは目を細めた。
「お気に入りの春女でしょうに、お珍しい」
「妬くなというのに。とにかくそのあと、ろくに寝付けず、明け方にサリタールの女どもを見送る真似までした」
「それはまた、喜ばれたでしょうね」
春女と呼ばれる女たちとの契約には様々な形があったが、高級娼館であるサリタールは、日が高く昇るまで男の元にいるのは堕落のはじまりだとばかりに――客に情が移る、というのは春女には堕落だ――明け方に寝台を去らせる。
たいていの男は寝こけたままであり、ゼレットも送るとしても寝台から見送る程度だったが、この日は全員を戸口まで送ってやったという。
もののついでだと伯爵は言うが、春女には好印象であろう、とミレインは言うのだ。
「期待をさせてはいけませんと申し上げたでしょう? 春女も女ですのよ」
「とにかく」
咳払いをして、ゼレットはまた言った。
「その戻り道でエイルの部屋の前を通ったのだ。戸が開いていたので奇妙に思ってのぞき込めば、エイルの姿も彼が連れ込んだ女の気配もなく、カティーラが乱れておらぬ寝台の真ん中で丸くなっておった」
「それで慌てられた、と?」
「慌てなど……いや、少し慌てたな」
半端に開いたままの引き出しは、賊が侵入したのでなければ、部屋の主の突然の旅立ちを示唆した。厨房に足を伸ばしてもまだディーグですらきている様子はなく、少年の仕事場は静まりかえっていた。
やがてやってきた料理長からいくばくかの保存食の紛失と、当番の
「町の見張りを問いただしたが、昨夜の内に出ていった者はないと言った。となればまだカーディルにおるのかもしれんが」
ゼレットは首を振る。
「去りたいと言うのなら、無理に引き戻す訳にはいかぬだろう。俺はあの少年に対して何の権限も持たぬのだ」
「……驚きましたわ」
ミレインは言った。
「どうしてだ。俺ならば強引に連れ戻すとでも思ったか?」
「いえ、そうではなく。もう町まで行って、そして戻ってきて。あの子のために、朝からそれだけの仕事をされたのですか。それは少し」
妬けますわね、と女は微笑した。
「お休みにもなっておられないのでしたら、仕事をしていただいてもはかどりませんわ。まずは朝食でもお摂り下さいな、閣下。それから、念のためにお部屋の窓を調べさせましょう」
執務官の言葉にゼレットは曖昧に賛同を示したが、窓に何の異常もないことはエイルの旅立ちと同様に確信があった。
身を凍らすような風に思えたものは、少年の出奔を暗示していたのだろうかなどと考えたゼレット伯爵は、伝承の類など信じておらぬはずの自分がそんなふうに思うことを少し笑った。