07 それはどうかしらね
文字数 3,967文字
「俺はゼレット様から逃げる のに忙しかったっすからね、閣下の近くにいるミレインさん とは何度か顔合わせたくらいでしたっけ」
そんなふうに言えばミレインは面白そうに笑う。
「あなたが去ってから、閣下はずっとあなたのことを気にしていたわよ」
エイルは肩をすくめるに留めた。ミレインの言葉はただの世間話か詰問か、判断に苦しむところがあった。
「いきなり現れていきなり消えて、そしてまたいきなり現れて。考えてみるとなかなか怪しいっすね、俺」
「そうね」
冗談めかした台詞はあっさりと肯定され、少年は反応に迷う。
昼飯時をとうに過ぎた食堂にはほかに誰もおらず、厨房から離れた席に座った彼らのもとにはほかの音はほとんど届かなかった。沈黙が降りる。
「……あの」
エイルは考えあぐねながら言った。
「もしかしてセルは、俺を嫌ってますか? それとも何か本当に、怪しんでる?」
この聡明そうな女性が、まさか彼を恋敵と考えているとも思えなかったが、エイルは思い切って尋ねた。執務官はまた優しい笑みを浮かべ、ミレインでいいわ、と言って続ける。
「何と言ったらいいかしら。私は不思議なのよ、エイル」
「何がですか」
「まずは、うちの困った伯爵閣下のことね」
ミレインはそう言うと、執務室の方をちらりと見やった。
「翡翠 がどうの、と言った伝承なんて、あの方は女の気を引く寝物語くらいにしかお考えでなかったわ。もともと、目に見えないことは信じない性質 でいらっしゃったから、魔術の類もお嫌いになるし」
エイルは黙って聞いていた。
「私は以前に尋ねてみたのよ、エイル。そうしたら閣下曰く、『天啓があったのだと思え』ですって」
少年は咳き込みかけるのをこらえた。「エイラ」との再会は天の啓示だとでも言うのだろうか。
「それだって閣下らしいとは言えないけれど、少なくとも彼はその『天啓』を信じ、『伝承』を信じたのだわ。何か、閣下でさえも納得せざるを得ない出来事があったという訳ね。それは何なのだろうと考えてみると」
ミレインは言葉を切り、少し間を取ってから続けた。
「エイル、あなたが去ってから、閣下がそう口にするまでに、ちょっとした事件がひとつ、あったのよ」
「じ、事件、すか」
エイルは生唾を飲んだ。ミレインはうなずく。
「ふたりの旅人が、カーディルを訪れたの。行き合った閣下は、女性の具合が悪いことを心配されて、城に連れてこられたわ」
もちろん──エイルはその話を知っている。少年は言葉を探した。
「それは……ゼレット様らしいっすね」
彼の言葉にミレインは笑った。
「そうね。いまならば、そんな話があれば警戒をするところだけれど、あのときは『また閣下の気紛れだ』と、誰も気にしなかったわ」
「その人たちが何か、ミレインの気にかかったんですか」
エイルは少しどきどきしながら問うた。ミレインは思い出すように眉をひそめる。
「そうね……少し」
「どんな」
どのような点が気になったのかと尋ねようとしたエイルは、ふと思い直して言い換えることにする。
「どんなふたりだったんです」
ミレインがゼレットと同じか、或いはそれ以上に鋭いことは予測がついている。その話を初めて聞かされた少年が気にするべきは、まずこちらだ。
「東からきたと言う浅黒い肌をした青年とその連れの女性だったわ」
エイルは内心で不満に思った。「シーヴの連れ」扱いとは。
「青年は印象的で、おそらくは彼も閣下のお気に召したのでしょうね」
エイルは曖昧にうなずいた。「エイラ」も同じように考えたことである。伯爵が「エイラ」におかしな気持ちを持つのではないかと疑った――ある意味、疑いはその通りだったが――シーヴに聞かせてやりたいものだ、などとも考えた。
「とにかく彼らはこの城へやってきて、閣下のもてなしを受けた。けれど翌朝、女性は姿を消した」
レンに拐かされたと聞いたわ、とミレイン。エイルは、それは気に入らない事件だ、と言うようにただ顔をしかめた。
「それに関わった男は魔術でやはりレンに殺されたと。それ以上のことは閣下は話されなかったけれど、何か怖ろしい魔術が行われたことは予測がつくわね」
女性執務官は魔除けと弔いの印を切って、一秒 、目を閉じた。
「たいそうな事件ではあったけれど、それで終わったと思っていたわ。あのサズがレンの間者だなんて閣下が言い出すまでは」
ミレインは再び、じっとエイルを見た。
「そのとき、閣下は言ったの。レンの狙いはエイル、あなただと。あなたと翡翠なのだと。サズの前であなたの名を口にしないよう、私たちに命じ――まあ、私たちは彼と個人的に話なんかしなかったけれど」
彼は閣下しか見ていなかったから、とミレインは口の端を上げた。
「さて、エイル。あなたがカーディル城を去ってからサズがやってくるまで、ゼレット様の心に変化をもたらしたものは何だと――思う?」
エイルは緊張した。ミレインは「エイラ」のことを言っているのに、違いない。
恍けようかと考えたエイルは、しかしゼレットはそれを見破ったことを思い出す。
「その、ふたりの旅人、ですか」
「そうね 」
ミレインは穏やかに言った。
「セル・シーヴと、セル・エイラ」
その名を呼ぶとき、ミレインはまたじっと――エイルを見るのだった。
「私は気づいたのよ、エイル。彼女は……以前にもカーディル城にきたことがあると」
少年はどきりとした。「エイラ」はミレインの前で何か失態をやらかしただろうか。
「私が風呂 へ先導するとき、彼女は私が次にどちらに曲がるか知っていた。この城に風呂がふたつあることも知っていて、どちらが空いているのか、その表示を知っているように見ていた。本人は意識していなかったと思うけれど……誰かに教わったか、それとも、反射的にそうするくらい――彼女はこの城に慣れていたか、ね」
エイルは呪いの言葉を吐きそうになった。では、あのときミレインはじっと彼女を「観察」していたのだ。ゼレットにばかり気づかれまいと警戒して――彼女に見られていたとは気づかなかった。
「彼女は何者で、彼女とあなたはどういう関係なのかしら。いったい彼女は閣下に何を話して、あの方をその気にさせたのかしらね? そしてエイル」
ミレインは続けた。
「あなたは――何者なのかしらね」
「それは」
エイルは逡巡した。いかに彼女が勘がよくても、まさか「エイラ」の正体がエイルだとは思っていない。当然だ。だが、ふたりに関わりがあることは疑っていない。こうなっては、当然だろうか。
ここでミレインが、「ただの少年」だの「リ・ガン」だのという返答を求めているようには見えなかった。――答えを求めているのかどうか、さえ。
「……いいわ」
少年の返答を待たず、ミレインは言った。
「私はあなたが閣下やカーディルの害になるとは考えていないし、閣下はあなたを信頼している。でもねエイル。覚えていて」
ミレインはやはり彼を見たままで続けた。
「私は、閣下がサズを疑い、彼の裏をかこうとしていたときより、無条件にあなたに手を差し伸べる……いまの閣下の方が心配なの」
「俺は」
エイルは下を向いた。
「俺はこの件が済めば、カーディルを出ていきますから。ですから……安心してください」
彼は顔を上げるとようやく、そんなことを言った。ミレインは首を振る。
「勘違いしないで。私は、あなたがいなくなればいいとは思っていないわ。閣下の感情はあれでもなかなか読みづらいものだけれど、それでもあなたほど――突然の退城であの人を落胆させ、突然の帰還であの人を喜ばせる人間を私は知らない」
たとえあなたが何者であっても――と、翡翠にも魔術にも関わりを持たない執務官は言った。それはつまり、エイルに去らないでほしいと言っているようだった。
「でも」
エイルはまたも少し躊躇ってから、続けた。
「ゼレット様は知ってます。俺がいつまでもここにいないこと。それに」
彼は肩をすくめた。
「この件に片が付けば……ゼレット様の俺への興味なんて薄れちまいますよ」
「それはどうかしらね、エイル」
ミレインはそこでエイルから視線をそらすと、再び執務室を見るようにして繰り返した。
「それは、どうかしら」
エイルもまた、ミレインに倣うように同じ方向を見た。
カーディル城の、隠されし翡翠の〈守護者〉。サズとの戦いの際に、おそらくは自覚なきままにその力を振るい、リ・ガンを助けて翡翠を守ったゼレット。
エイルがリ・ガンでなければ、ゼレットはどこまでエイルに手を貸しただろうか。
それは、意味のないたとえだ。彼がリ・ガンでなければ、彼はこの土地を訪れることすらなかったのだから。
だが――いや、だから、ゼレットとの繋がりは全て〈翡翠〉が、〈翡翠の宮殿〉が、〈翡翠の女神〉が彼にもたらしたものだ。
リ・ガンの心はそれを当然のものと捕らえ、〈変異〉の年が終わればこの〈守護者〉との絆が切れることを知っている。
それに自分は安堵するのかそれとも寂しく思うのか、少年は判然としなかったが――いま、自分から〈翡翠〉に関わる数々のことを除いてしまったら、自分にはほとんど何も残らないことを知り、それを虚しく思っていた。
何も知らぬただの下町の少年に戻ることを望むと同時に、翡翠がもたらした全ての関わりを不要と切り捨てることは、彼にはできなかったのだ。
この期の〈変異〉の年はいまや十一番目の月の半ばを迎え、季節は夏へ移っていこうとしていた。
そんなふうに言えばミレインは面白そうに笑う。
「あなたが去ってから、閣下はずっとあなたのことを気にしていたわよ」
エイルは肩をすくめるに留めた。ミレインの言葉はただの世間話か詰問か、判断に苦しむところがあった。
「いきなり現れていきなり消えて、そしてまたいきなり現れて。考えてみるとなかなか怪しいっすね、俺」
「そうね」
冗談めかした台詞はあっさりと肯定され、少年は反応に迷う。
昼飯時をとうに過ぎた食堂にはほかに誰もおらず、厨房から離れた席に座った彼らのもとにはほかの音はほとんど届かなかった。沈黙が降りる。
「……あの」
エイルは考えあぐねながら言った。
「もしかしてセルは、俺を嫌ってますか? それとも何か本当に、怪しんでる?」
この聡明そうな女性が、まさか彼を恋敵と考えているとも思えなかったが、エイルは思い切って尋ねた。執務官はまた優しい笑みを浮かべ、ミレインでいいわ、と言って続ける。
「何と言ったらいいかしら。私は不思議なのよ、エイル」
「何がですか」
「まずは、うちの困った伯爵閣下のことね」
ミレインはそう言うと、執務室の方をちらりと見やった。
「
エイルは黙って聞いていた。
「私は以前に尋ねてみたのよ、エイル。そうしたら閣下曰く、『天啓があったのだと思え』ですって」
少年は咳き込みかけるのをこらえた。「エイラ」との再会は天の啓示だとでも言うのだろうか。
「それだって閣下らしいとは言えないけれど、少なくとも彼はその『天啓』を信じ、『伝承』を信じたのだわ。何か、閣下でさえも納得せざるを得ない出来事があったという訳ね。それは何なのだろうと考えてみると」
ミレインは言葉を切り、少し間を取ってから続けた。
「エイル、あなたが去ってから、閣下がそう口にするまでに、ちょっとした事件がひとつ、あったのよ」
「じ、事件、すか」
エイルは生唾を飲んだ。ミレインはうなずく。
「ふたりの旅人が、カーディルを訪れたの。行き合った閣下は、女性の具合が悪いことを心配されて、城に連れてこられたわ」
もちろん──エイルはその話を知っている。少年は言葉を探した。
「それは……ゼレット様らしいっすね」
彼の言葉にミレインは笑った。
「そうね。いまならば、そんな話があれば警戒をするところだけれど、あのときは『また閣下の気紛れだ』と、誰も気にしなかったわ」
「その人たちが何か、ミレインの気にかかったんですか」
エイルは少しどきどきしながら問うた。ミレインは思い出すように眉をひそめる。
「そうね……少し」
「どんな」
どのような点が気になったのかと尋ねようとしたエイルは、ふと思い直して言い換えることにする。
「どんなふたりだったんです」
ミレインがゼレットと同じか、或いはそれ以上に鋭いことは予測がついている。その話を初めて聞かされた少年が気にするべきは、まずこちらだ。
「東からきたと言う浅黒い肌をした青年とその連れの女性だったわ」
エイルは内心で不満に思った。「シーヴの連れ」扱いとは。
「青年は印象的で、おそらくは彼も閣下のお気に召したのでしょうね」
エイルは曖昧にうなずいた。「エイラ」も同じように考えたことである。伯爵が「エイラ」におかしな気持ちを持つのではないかと疑った――ある意味、疑いはその通りだったが――シーヴに聞かせてやりたいものだ、などとも考えた。
「とにかく彼らはこの城へやってきて、閣下のもてなしを受けた。けれど翌朝、女性は姿を消した」
レンに拐かされたと聞いたわ、とミレイン。エイルは、それは気に入らない事件だ、と言うようにただ顔をしかめた。
「それに関わった男は魔術でやはりレンに殺されたと。それ以上のことは閣下は話されなかったけれど、何か怖ろしい魔術が行われたことは予測がつくわね」
女性執務官は魔除けと弔いの印を切って、一
「たいそうな事件ではあったけれど、それで終わったと思っていたわ。あのサズがレンの間者だなんて閣下が言い出すまでは」
ミレインは再び、じっとエイルを見た。
「そのとき、閣下は言ったの。レンの狙いはエイル、あなただと。あなたと翡翠なのだと。サズの前であなたの名を口にしないよう、私たちに命じ――まあ、私たちは彼と個人的に話なんかしなかったけれど」
彼は閣下しか見ていなかったから、とミレインは口の端を上げた。
「さて、エイル。あなたがカーディル城を去ってからサズがやってくるまで、ゼレット様の心に変化をもたらしたものは何だと――思う?」
エイルは緊張した。ミレインは「エイラ」のことを言っているのに、違いない。
恍けようかと考えたエイルは、しかしゼレットはそれを見破ったことを思い出す。
「その、ふたりの旅人、ですか」
「
ミレインは穏やかに言った。
「セル・シーヴと、セル・エイラ」
その名を呼ぶとき、ミレインはまたじっと――エイルを見るのだった。
「私は気づいたのよ、エイル。彼女は……以前にもカーディル城にきたことがあると」
少年はどきりとした。「エイラ」はミレインの前で何か失態をやらかしただろうか。
「私が
エイルは呪いの言葉を吐きそうになった。では、あのときミレインはじっと彼女を「観察」していたのだ。ゼレットにばかり気づかれまいと警戒して――彼女に見られていたとは気づかなかった。
「彼女は何者で、彼女とあなたはどういう関係なのかしら。いったい彼女は閣下に何を話して、あの方をその気にさせたのかしらね? そしてエイル」
ミレインは続けた。
「あなたは――何者なのかしらね」
「それは」
エイルは逡巡した。いかに彼女が勘がよくても、まさか「エイラ」の正体がエイルだとは思っていない。当然だ。だが、ふたりに関わりがあることは疑っていない。こうなっては、当然だろうか。
ここでミレインが、「ただの少年」だの「リ・ガン」だのという返答を求めているようには見えなかった。――答えを求めているのかどうか、さえ。
「……いいわ」
少年の返答を待たず、ミレインは言った。
「私はあなたが閣下やカーディルの害になるとは考えていないし、閣下はあなたを信頼している。でもねエイル。覚えていて」
ミレインはやはり彼を見たままで続けた。
「私は、閣下がサズを疑い、彼の裏をかこうとしていたときより、無条件にあなたに手を差し伸べる……いまの閣下の方が心配なの」
「俺は」
エイルは下を向いた。
「俺はこの件が済めば、カーディルを出ていきますから。ですから……安心してください」
彼は顔を上げるとようやく、そんなことを言った。ミレインは首を振る。
「勘違いしないで。私は、あなたがいなくなればいいとは思っていないわ。閣下の感情はあれでもなかなか読みづらいものだけれど、それでもあなたほど――突然の退城であの人を落胆させ、突然の帰還であの人を喜ばせる人間を私は知らない」
たとえあなたが何者であっても――と、翡翠にも魔術にも関わりを持たない執務官は言った。それはつまり、エイルに去らないでほしいと言っているようだった。
「でも」
エイルはまたも少し躊躇ってから、続けた。
「ゼレット様は知ってます。俺がいつまでもここにいないこと。それに」
彼は肩をすくめた。
「この件に片が付けば……ゼレット様の俺への興味なんて薄れちまいますよ」
「それはどうかしらね、エイル」
ミレインはそこでエイルから視線をそらすと、再び執務室を見るようにして繰り返した。
「それは、どうかしら」
エイルもまた、ミレインに倣うように同じ方向を見た。
カーディル城の、隠されし翡翠の〈守護者〉。サズとの戦いの際に、おそらくは自覚なきままにその力を振るい、リ・ガンを助けて翡翠を守ったゼレット。
エイルがリ・ガンでなければ、ゼレットはどこまでエイルに手を貸しただろうか。
それは、意味のないたとえだ。彼がリ・ガンでなければ、彼はこの土地を訪れることすらなかったのだから。
だが――いや、だから、ゼレットとの繋がりは全て〈翡翠〉が、〈翡翠の宮殿〉が、〈翡翠の女神〉が彼にもたらしたものだ。
リ・ガンの心はそれを当然のものと捕らえ、〈変異〉の年が終わればこの〈守護者〉との絆が切れることを知っている。
それに自分は安堵するのかそれとも寂しく思うのか、少年は判然としなかったが――いま、自分から〈翡翠〉に関わる数々のことを除いてしまったら、自分にはほとんど何も残らないことを知り、それを虚しく思っていた。
何も知らぬただの下町の少年に戻ることを望むと同時に、翡翠がもたらした全ての関わりを不要と切り捨てることは、彼にはできなかったのだ。
この期の〈変異〉の年はいまや十一番目の月の半ばを迎え、季節は夏へ移っていこうとしていた。