08 何よ、あれ
文字数 2,290文字
違和感は、さして覚えなかった。
最初に手にしたときはどうにも奇妙な感じがしたが、一度袖を通してしまえば、彼自身には袖口くらいしか見えないのである。制服の型にそう種類がある訳でもなかったから、留め具をはめる位置や数がこれまでと大きく変わることもない。
つまり、濃紺であろうと明緑であろうと、ファドック・ソレスの制服が替わって違和感を覚えるのは、当人よりも周囲の方である。
決定がなされ、マザド・アーレイド三世によって認められれば、ケル・アルドゥイスの退任までは早かった。わざわざ引継をするまでもなく、ファドック・ソレスはアーレイド近衛隊長 の任務をよく知っていたからである。
変わったことはほとんどなかったと言っていい。最後までアルドゥイスと詰めて考え、決定していた事項をファドックがひとりで決定するようになっただけだ。
もちろん、彼の仕事は増えた。だがいまの彼にはそれは歓迎したいくらいであった。
余計なことを考えずに済むように、と業務に没頭すれば、手伝ったり代理でやったりしたことはあっても慣れ切らっておらぬはずの仕事は、目論見よりも効率的に素早く終わってしまう。そうなると、後回しでよいと考えていた別件に手を出し、やはりそれに集中した。
多くは彼が新たな職務に張り切り、励んでいると考えたが、なかにはその様子を案じる者もいた。
かちゃり、と扉の開く音がして彼が目を上げると、そこには口をぽかんと開けた娘の姿があった。
「あ……いらしてたんですか、ファドック様」
「テリスンか」
どうやら自身の業務とは関係がないと考えるとファドックは手元に視線を戻そうとしたが──ふと、何かが気になって顔を上げた。
「掃除にきたのでは、ないのか」
不審そうに問う。と言うのも、娘は箒一本、掃除に使いそうなものを持っていなかったからだ。その代わり、娘が手にしていたのは小さな陶器の皿であり、ファドックは眉をひそめる。
「では……このところの差し入れの主はあなたか」
ファドックが言うと娘は顔を赤くした。
「す、すみません、余計な真似を」
娘は赤くなった顔を伏せた。
「いや、助かった」
この新任近衛隊長はたいていの相手には親切であったから、時折、彼の執務卓上に遠慮がちに置かれている軽食が特に彼の役に立たずとも礼を言ったであろう。しかし実際に、その「差し入れ」は彼の役に立っていた。食事を取る時間も――「余計なことを考えさせる時間」であり、理性の声が休息を強く命じない限り、放っておけばろくに休まなかった。
だから、実際に、娘の気遣いは役に立っていたのだ。
「だがテリスン、仕事は怠らぬようにな」
「は、はいっ」
テリスンは真っ赤になると、具材の挟まれた麺麭 を乗せた小皿をファドックの卓の上に置いて足早に部屋を出ていった。
「……何よ、あれ」
「何って」
近頃は、カリアがレイジュを全く相手にしてくれないので、このところの彼女の愚痴の相手は年下のメイ=リスとなっていた。
「新しい掃除女、でしょう」
「そんなことは判ってるわよ」
レイジュはキッと後輩を睨んだ。
「問題はっ、どうして近衛隊長の任に就いて棟を移ったファドック様について、あの女まで移ってるかってことよっ」
レイジュの詰問に、メイ=リスは肩をすくめた。
「ヴァリンさん らしくない配置換えよね」
「あの女、絶対、何かコネがあるんだわ。そうだ、もしかしたらシュアラ様からファドック様を遠ざけようとロジェス様が画策を……」
「不敬罪で捕まるわよ、レイジュ」
メイ=リスは呆れ顔で忠告をした。
「第一、そんな目的ならもっと美人を寄越すんじゃない? あんな、ぱっとしない人じゃなくて」
「見目も麗しい」として選ばれる王女付きの侍女は辛辣なことを言って、先輩の邪推を遮った。
「でも彼女、誰かに似てるのよね。誰だったかしら」
「あんな気に入らない女はこれまでいなかったわ」
レイジュはきっぱりと言った。
「近衛隊長の制服を着られたファドック様は新鮮で目眩がしそうだけど、護衛騎士のほかに近衛隊長じゃ、以前みたいにシュアラ様のところにいらっしゃらないし、これじゃ王女様付きの価値が半減よ、ううん、半減以下だわっ」
「また、泣く」
もちろん、本当に泣いたと言うよりはそう言う動作をしただけであり、はじめは本気にして心配したメイ=リスの方も近頃は慣れたものである。
「泣かなくてもいいじゃない、ファドック様は若い娘に憧れられるのなんて慣れてらっしゃるんだから、いまさらどうこう、ってこともないわよ」
「違うわよっ、私が言ってるのはそんなことじゃなくて」
「私たちは時間的にも立場上も、シュアラ様の仕事以外のことはできないものねえ」
「それ、なの、よっ」
レイジュは可愛らしい手で卓をばん、と叩いた。
「勤務時間も配置場所もほとんど毎日決まってて、少しくらい自由になる時間があっても、こうして愚痴を言うのが関の山だわ。時間があったって、勝手に武官の棟になんか行けますかっ。ああ、以前みたいにシュアラ様が命じてくださればいいのに」
「されないでしょうね」
メイ=リスは肩をすくめてレイジュの希望を打ち砕く。
「一年前までべったりファドック様だったのに、最近の殿下は……様子が違うみたい。ロジェス様のせいかしらね」
「違うわよ」
レイジュは顔を上げると口調を普段のものに戻し、意外そうに言った。
「気づいてないの?殿下 を変えたのは、エイルだわ」
最初に手にしたときはどうにも奇妙な感じがしたが、一度袖を通してしまえば、彼自身には袖口くらいしか見えないのである。制服の型にそう種類がある訳でもなかったから、留め具をはめる位置や数がこれまでと大きく変わることもない。
つまり、濃紺であろうと明緑であろうと、ファドック・ソレスの制服が替わって違和感を覚えるのは、当人よりも周囲の方である。
決定がなされ、マザド・アーレイド三世によって認められれば、ケル・アルドゥイスの退任までは早かった。わざわざ引継をするまでもなく、ファドック・ソレスはアーレイド
変わったことはほとんどなかったと言っていい。最後までアルドゥイスと詰めて考え、決定していた事項をファドックがひとりで決定するようになっただけだ。
もちろん、彼の仕事は増えた。だがいまの彼にはそれは歓迎したいくらいであった。
余計なことを考えずに済むように、と業務に没頭すれば、手伝ったり代理でやったりしたことはあっても慣れ切らっておらぬはずの仕事は、目論見よりも効率的に素早く終わってしまう。そうなると、後回しでよいと考えていた別件に手を出し、やはりそれに集中した。
多くは彼が新たな職務に張り切り、励んでいると考えたが、なかにはその様子を案じる者もいた。
かちゃり、と扉の開く音がして彼が目を上げると、そこには口をぽかんと開けた娘の姿があった。
「あ……いらしてたんですか、ファドック様」
「テリスンか」
どうやら自身の業務とは関係がないと考えるとファドックは手元に視線を戻そうとしたが──ふと、何かが気になって顔を上げた。
「掃除にきたのでは、ないのか」
不審そうに問う。と言うのも、娘は箒一本、掃除に使いそうなものを持っていなかったからだ。その代わり、娘が手にしていたのは小さな陶器の皿であり、ファドックは眉をひそめる。
「では……このところの差し入れの主はあなたか」
ファドックが言うと娘は顔を赤くした。
「す、すみません、余計な真似を」
娘は赤くなった顔を伏せた。
「いや、助かった」
この新任近衛隊長はたいていの相手には親切であったから、時折、彼の執務卓上に遠慮がちに置かれている軽食が特に彼の役に立たずとも礼を言ったであろう。しかし実際に、その「差し入れ」は彼の役に立っていた。食事を取る時間も――「余計なことを考えさせる時間」であり、理性の声が休息を強く命じない限り、放っておけばろくに休まなかった。
だから、実際に、娘の気遣いは役に立っていたのだ。
「だがテリスン、仕事は怠らぬようにな」
「は、はいっ」
テリスンは真っ赤になると、具材の挟まれた
「……何よ、あれ」
「何って」
近頃は、カリアがレイジュを全く相手にしてくれないので、このところの彼女の愚痴の相手は年下のメイ=リスとなっていた。
「新しい掃除女、でしょう」
「そんなことは判ってるわよ」
レイジュはキッと後輩を睨んだ。
「問題はっ、どうして近衛隊長の任に就いて棟を移ったファドック様について、あの女まで移ってるかってことよっ」
レイジュの詰問に、メイ=リスは肩をすくめた。
「
「あの女、絶対、何かコネがあるんだわ。そうだ、もしかしたらシュアラ様からファドック様を遠ざけようとロジェス様が画策を……」
「不敬罪で捕まるわよ、レイジュ」
メイ=リスは呆れ顔で忠告をした。
「第一、そんな目的ならもっと美人を寄越すんじゃない? あんな、ぱっとしない人じゃなくて」
「見目も麗しい」として選ばれる王女付きの侍女は辛辣なことを言って、先輩の邪推を遮った。
「でも彼女、誰かに似てるのよね。誰だったかしら」
「あんな気に入らない女はこれまでいなかったわ」
レイジュはきっぱりと言った。
「近衛隊長の制服を着られたファドック様は新鮮で目眩がしそうだけど、護衛騎士のほかに近衛隊長じゃ、以前みたいにシュアラ様のところにいらっしゃらないし、これじゃ王女様付きの価値が半減よ、ううん、半減以下だわっ」
「また、泣く」
もちろん、本当に泣いたと言うよりはそう言う動作をしただけであり、はじめは本気にして心配したメイ=リスの方も近頃は慣れたものである。
「泣かなくてもいいじゃない、ファドック様は若い娘に憧れられるのなんて慣れてらっしゃるんだから、いまさらどうこう、ってこともないわよ」
「違うわよっ、私が言ってるのはそんなことじゃなくて」
「私たちは時間的にも立場上も、シュアラ様の仕事以外のことはできないものねえ」
「それ、なの、よっ」
レイジュは可愛らしい手で卓をばん、と叩いた。
「勤務時間も配置場所もほとんど毎日決まってて、少しくらい自由になる時間があっても、こうして愚痴を言うのが関の山だわ。時間があったって、勝手に武官の棟になんか行けますかっ。ああ、以前みたいにシュアラ様が命じてくださればいいのに」
「されないでしょうね」
メイ=リスは肩をすくめてレイジュの希望を打ち砕く。
「一年前までべったりファドック様だったのに、最近の殿下は……様子が違うみたい。ロジェス様のせいかしらね」
「違うわよ」
レイジュは顔を上げると口調を普段のものに戻し、意外そうに言った。
「気づいてないの?