2 ささやかな嫌がらせ
文字数 4,737文字
その話を聞いたのは、翌朝だった。
情報源はレイジュだったが、トルスもそのようなことを匂わせた。だがその時点ではそれが彼に関わりがあるとは思ってもみなかった。
「──いま」
エイルは自分の耳を疑った。
「それに、俺にも出ろって言われました、ヴァリン殿 」
つい「俺」という一人称を使ってしまってじろりと一瞥を受けるが、注意はされずにうなずかれた。
「そうだよ、エイル。お小姓と言うには少しとう がたっているけれど、お前なら見た目はまあまあだし、作法も身に付いてきているようだから」
「もう一度、確認させていただきたいんですが」
エイルは言う。
「その、夜会とやらに、俺……私が給仕として出席すべきだと?」
「給仕役は給仕役なのだから、出席、とは言わないだろうけれど」
そう言いながらもヴァリンは再びうなずく。
「急に決まったことで、人手が足りないの。吟遊詩人 なんて流れ者には、いついつまでアーレイドにいろと言っても聞かないからね。そのフィエテの話を持ち込んだのはジェール伯爵だけれど、珍しくも陛下 がご興味を示されて。もちろん殿下 は芸事 がお好きでいらっしゃるから、お喜びですけれど」
街で評判の吟遊詩人を貴族が連れていって城で演奏させる、というのはそう珍しい話でもない。吟遊詩人に限らず、どんな芸人 でも、宴に華を添える、或いは宴を開く口実にするには格好だ。
「どんな吟遊詩人なんです?」
「見た訳じゃないけれどね、噂に聞くところだと、たいそう伝承を知っているらしいよ。それに、魔術的なものを絡めて歌にするのが得意だとか」
ヴァリンは眉をひそめてそう言った。魔術を神秘的なものとして歓迎する者もいれば、胡散臭いと避ける者もいる。世の中には圧倒的に後者が多く、ヴァリンもそちらであるようだが、貴族様方は違うのかもしれない。
「たいていの吟遊詩人ってのは、伝承を多く知ってるもんだと思いますがね」
思わずエイルがそう言うと、ヴァリンはまたじろりと睨んだ。
「私は知らないよ。きっと、普通より多く知ってるんだろう。それとも、単に見た目が綺麗なだけかもしれない。それにエイル。私たちには吟遊詩人の能力がどうの、なんて関係ないんだからね。夜会が開かれるならそれに向けて準備をし、それを完璧に行うのが仕事なんだから」
これ以上女中頭の機嫌を損ねてはたいへん、とエイルは黙って頭を下げた。
(普通の詩人より多く知っている?)
何だかその言葉が心に引っかかる。
そんな話を聞いたことがあるように思った。
(――リター)
ふと、街の少女の姿が蘇る。
(そうだ、俺がここに連れてこられた日……リターがそんな吟遊詩人がいるから話を聞くように、と言ってこなかったっけ?)
もうずいぶん以前のことのように感じるが、まだ半月経つか経たないかだ。
(例の話、聞けばいいじゃない。今度こそ、何か判るかもしれないわ)
(意地張らないで、エイル! 今夜〈森の宝石〉亭で待ってるからね!)
結局彼はその店を訪れなかった訳だが、リターはどう思っただろうか。それきり、姿を見せない彼のことをどう思っているだろうか。まさか、城で働いているとは思うまい。
リターとは仲がよかったが、特別な少女という訳でもなかったから、ひと月くらいエイルが顔を見せなくても特に不審には思わないだろう。だが、ザックや仕事でよく会った友人たちは、もしかしたら心配しているかもしれない。
不意にそんなことを考えて、エイルは何だかおかしくなった。
これまで、そんなことを考える暇などなかった自分に気づいたのだが、いまだって暇ができた訳でもないのに。
(吟遊詩人)
ヴァリンの前から退いて、エイルはだがむしろそのことを考えた。
(まさか、〈森の宝石〉亭にきてた詩人じゃないだろうけど)
(それに、給仕をするってんだから余裕なんてできないだろうけど)
(――訊けるようだったら、訊いてみようか)
翡翠の宮殿。
ただの戯言かもしれない、その言葉。
いや、ただの戯言だと考えることの方が多い。
それでも、全く気にならないと言えば嘘なのだ。
翡翠 。
その単語に覚えるこの感覚は何なのだろう。
懐かしさのようでもあり、そして同時に感じる、焦るような気持ち。
心のふた色と、翡翠の宮殿。
下らぬ予言、占い師の戯言。
だがエイルは気づきはじめている。ファドックに対して現れる奇妙な感覚と、その戯言には繋がりが――あること。
シュアラは、軽く目をみはった、だろうか?
嫌々ながら、という調子で何ともおざなりにされたこれまでの礼に比べたら、この日のエイルのそれはずいぶん見事だったと言えるはずだ。
だが生憎と、と言おうか。王女がそれに気づいたとしても、かけらも気づかずに受け入れたとしても、面を伏せた少年には見て取ることはできないのだった。
「――お入りなさい」
「はい、殿下 」
今度は、見ることができた。きれいな眉をほんの少しひそめる少女。
彼女自身もおそらくは判っていない。本来ならばヴァリン同様に、エイルの学習を――多少の皮肉や嫌みが混ざったとしても――褒めるなり喜ぶなりするのが筋である。だがシュアラは、感じた違和感が何なのか判らなかったようだ。まさかそれが不満であるとも、思わなかったろうが。
「何か、申し開きはあって?」
先日の、逃亡劇のことだろう。
「ございません」
エイルは聞き返しもせずに即答した。また目を伏せたから、シュアラの表情は判らない。
「……そう。それならそれでいいのよ」
少女は、奇妙な声色でそう答えた。それは、自分でも満足すべきか不満に思うべきか、はっきりしないかのようだった。
「元気のようね。お前が戻ったと、ファドックやレイジュからは聞いていたけれど、顔を見るのはあの日以来だもの」
エイルは返答をしなかった。黙っていることも、またレイジュに教わった技のひとつだ。余計な口を利かなければへまをやらかすこともないと言うことである。シュアラは落ちた沈黙に少し戸惑ったような顔をしながら、言葉を探すように視線をさまよわせた。
「――そうだわ、夜会の話は聞いたわね」
「はい」
これなら答えるのは簡単だ。はい、か、いいえ、だけで済むのなら楽なものだ。
「お前も、くるのですってね?」
「そのように仰せつかりました」
答えながらエイルは内心で、いいぞ、と思う。シュアラの出鼻をくじくことができたし、なかなかに順調だ。
「どういう宴かは聞いたの?」
「何でも、街で評判の吟遊詩人が歌うのだとか」
「その通りよ。お前はその歌を聞いたことがあって?」
「畏れながら、殿下」
エイルは続けた。
「街には、日々様々なフィエテやトラントがきては去っていくものです。私の出会うトラントたちなどほんのひと握り、評判になったと言ってもまさか街中の人間に知れ渡るほどではないでしょう」
「……何なの、さっきから」
「と、仰いますと」
「やめなさい。その……おかしいわ。お前がそんなふうな口を利くなんて」
「私に何か不手際がございましたでしょうか、殿下」
澄ました顔で――というより、無表情を保って答える。
「エイル!」
どうやら、この調子は姫君のお気に召さないらしい。エイルの目論見通りだ。
「私を愚か者だと思っているのね? そんな、私を王女として扱う『振り』をして、それで私が騙されると思っているのね?」
「何を……仰るのですか」
返しながら、エイルは少し驚いた。事実、エイルはそう思っていたからだ。
「私が儀礼にかなった物言いをすることを気に入られないのですか?『野蛮』な少年の語り口は、殿下のお好みじゃないでしょう?」
「そうよ、当たり前だわ」
シュアラはつんとして言った。
「今日のお前は、これまでのお前よりもずっと感じがいいわ」
「それなら」
それでいいじゃないか、もとい、それでよろしいのではないでしょうか、と言おうとしたエイルをシュアラはじろりと睨んだ。
「お前が『感じがいい』なんて、おかしいのよ!」
エイルは浮かぶ苦笑を押えようと、必死で冷静を保った。
「それでは、今日も私は殿下のお怒りを買ってしまったということですね」
洩れそうな笑いを堪えて息を整えると、そんなことを言う。
「それでは、もうこれ以上殿下のご負担にならぬうちに、退出をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
ほとんど、きたばかりも同然だ。
だが、退出を求めた使用人を大した理由もなく引き止めるのは、それこそ礼儀に反すると言っていい。王女と言えども、いや、だからこそ守るべき儀礼というものがある。
シュアラは渋々と言った調子で許しを与え、エイルは――完璧とは言い難いながらも礼を失したとはさすがのシュアラでも言えない程度の――退出の礼をしっかりとやっていくことを忘れない。
不満そうな王女を室内に残して静かに戸を閉めたエイルは、しかしそこでつい、にやりとしてしまった。仕返しと言うほどでもない、ささやかな嫌がらせとしては、上出来だ。
(少しは高慢が直ればいいんだ)
(俺のこの態度が嫌なら、以前みたいにしてくれと……命令じゃなくて、お願いしてみろってな)
そう考えるものの、まさかシュアラが素直にそう出てくるとは思っていない。
(それとも、母さんが言ったようにシュアラが俺に「飽きる」んなら)
(ま、それでもいいかな)
日々の仕事と寝床と食事と、着るものまで心配いらない生活はなかなかに魅惑的だったが、いまならまだ、以前の暮らしに戻れる自信がある。
と言うのは、仕事がきついのは城下でも城内でも変わらぬから、問題は仕事探しだけなのだ。あとひと月もこの生活を続ければ、少し前まで必死で仕事を探していたときの勢いとでも言うものが失われてしまうかもしれない。それは少しだけ心配だったが、楽天的なところのあるエイルは、そうなってしまっても少し頑張れば元通りになるはずだと考えた。
(俺、もしかして)
(この暮らしは長くは続かないと思ってんのかな)
(そうかもな、厨房の仕事だけならまだしも、問題はやっぱり)
(シュアラだもんな)
王女に呆れられて追い出されることを自分が期待しているのか心配しているのか、彼自身よく判らなかった。
判っているのは、ファドックのこと。慕わしいのに、会えば拙 いことになると思っている。
幸いにしてここしばらくというもの、ファドックと遭遇することはなかった。
だがそれこそ、いつまでも続くまい。
姫の護衛騎士なればシュアラの隣によくいることは当然だし、厨房の主トルスの友人でもある。剣や体術を教わる約束もしている。いつまで、ファドックを避けられるものか。
そう、それに夜会だ。そのような席ともなれば、ファドックがシュアラの傍にいないはずもない。
そして夜会と言えば気になるのはもうひとつ。主役は──口実だとしても──噂の吟遊詩人。
(詩人に話を聞こうってのは、無理かもしれないな)
(この調子で真面目にお勤めしたら、隙を見てこっそり話を聞くなんて難しそうだ)
そう考えてこっそり嘆息した。
そしてがっかりしているらしい自分に少し驚いた。
何か聞けると、彼は期待しているのだろうか。
気にしてなどいないと、そう思ってきたはずなのに、何かを訊きたいと、何かが聞けると、彼は期待しているのだろうか?
情報源はレイジュだったが、トルスもそのようなことを匂わせた。だがその時点ではそれが彼に関わりがあるとは思ってもみなかった。
「──いま」
エイルは自分の耳を疑った。
「それに、俺にも出ろって言われました、
つい「俺」という一人称を使ってしまってじろりと一瞥を受けるが、注意はされずにうなずかれた。
「そうだよ、エイル。お小姓と言うには少し
「もう一度、確認させていただきたいんですが」
エイルは言う。
「その、夜会とやらに、俺……私が給仕として出席すべきだと?」
「給仕役は給仕役なのだから、出席、とは言わないだろうけれど」
そう言いながらもヴァリンは再びうなずく。
「急に決まったことで、人手が足りないの。
街で評判の吟遊詩人を貴族が連れていって城で演奏させる、というのはそう珍しい話でもない。吟遊詩人に限らず、どんな
「どんな吟遊詩人なんです?」
「見た訳じゃないけれどね、噂に聞くところだと、たいそう伝承を知っているらしいよ。それに、魔術的なものを絡めて歌にするのが得意だとか」
ヴァリンは眉をひそめてそう言った。魔術を神秘的なものとして歓迎する者もいれば、胡散臭いと避ける者もいる。世の中には圧倒的に後者が多く、ヴァリンもそちらであるようだが、貴族様方は違うのかもしれない。
「たいていの吟遊詩人ってのは、伝承を多く知ってるもんだと思いますがね」
思わずエイルがそう言うと、ヴァリンはまたじろりと睨んだ。
「私は知らないよ。きっと、普通より多く知ってるんだろう。それとも、単に見た目が綺麗なだけかもしれない。それにエイル。私たちには吟遊詩人の能力がどうの、なんて関係ないんだからね。夜会が開かれるならそれに向けて準備をし、それを完璧に行うのが仕事なんだから」
これ以上女中頭の機嫌を損ねてはたいへん、とエイルは黙って頭を下げた。
(普通の詩人より多く知っている?)
何だかその言葉が心に引っかかる。
そんな話を聞いたことがあるように思った。
(――リター)
ふと、街の少女の姿が蘇る。
(そうだ、俺がここに連れてこられた日……リターがそんな吟遊詩人がいるから話を聞くように、と言ってこなかったっけ?)
もうずいぶん以前のことのように感じるが、まだ半月経つか経たないかだ。
(例の話、聞けばいいじゃない。今度こそ、何か判るかもしれないわ)
(意地張らないで、エイル! 今夜〈森の宝石〉亭で待ってるからね!)
結局彼はその店を訪れなかった訳だが、リターはどう思っただろうか。それきり、姿を見せない彼のことをどう思っているだろうか。まさか、城で働いているとは思うまい。
リターとは仲がよかったが、特別な少女という訳でもなかったから、ひと月くらいエイルが顔を見せなくても特に不審には思わないだろう。だが、ザックや仕事でよく会った友人たちは、もしかしたら心配しているかもしれない。
不意にそんなことを考えて、エイルは何だかおかしくなった。
これまで、そんなことを考える暇などなかった自分に気づいたのだが、いまだって暇ができた訳でもないのに。
(吟遊詩人)
ヴァリンの前から退いて、エイルはだがむしろそのことを考えた。
(まさか、〈森の宝石〉亭にきてた詩人じゃないだろうけど)
(それに、給仕をするってんだから余裕なんてできないだろうけど)
(――訊けるようだったら、訊いてみようか)
翡翠の宮殿。
ただの戯言かもしれない、その言葉。
いや、ただの戯言だと考えることの方が多い。
それでも、全く気にならないと言えば嘘なのだ。
その単語に覚えるこの感覚は何なのだろう。
懐かしさのようでもあり、そして同時に感じる、焦るような気持ち。
心のふた色と、翡翠の宮殿。
下らぬ予言、占い師の戯言。
だがエイルは気づきはじめている。ファドックに対して現れる奇妙な感覚と、その戯言には繋がりが――あること。
シュアラは、軽く目をみはった、だろうか?
嫌々ながら、という調子で何ともおざなりにされたこれまでの礼に比べたら、この日のエイルのそれはずいぶん見事だったと言えるはずだ。
だが生憎と、と言おうか。王女がそれに気づいたとしても、かけらも気づかずに受け入れたとしても、面を伏せた少年には見て取ることはできないのだった。
「――お入りなさい」
「はい、
今度は、見ることができた。きれいな眉をほんの少しひそめる少女。
彼女自身もおそらくは判っていない。本来ならばヴァリン同様に、エイルの学習を――多少の皮肉や嫌みが混ざったとしても――褒めるなり喜ぶなりするのが筋である。だがシュアラは、感じた違和感が何なのか判らなかったようだ。まさかそれが不満であるとも、思わなかったろうが。
「何か、申し開きはあって?」
先日の、逃亡劇のことだろう。
「ございません」
エイルは聞き返しもせずに即答した。また目を伏せたから、シュアラの表情は判らない。
「……そう。それならそれでいいのよ」
少女は、奇妙な声色でそう答えた。それは、自分でも満足すべきか不満に思うべきか、はっきりしないかのようだった。
「元気のようね。お前が戻ったと、ファドックやレイジュからは聞いていたけれど、顔を見るのはあの日以来だもの」
エイルは返答をしなかった。黙っていることも、またレイジュに教わった技のひとつだ。余計な口を利かなければへまをやらかすこともないと言うことである。シュアラは落ちた沈黙に少し戸惑ったような顔をしながら、言葉を探すように視線をさまよわせた。
「――そうだわ、夜会の話は聞いたわね」
「はい」
これなら答えるのは簡単だ。はい、か、いいえ、だけで済むのなら楽なものだ。
「お前も、くるのですってね?」
「そのように仰せつかりました」
答えながらエイルは内心で、いいぞ、と思う。シュアラの出鼻をくじくことができたし、なかなかに順調だ。
「どういう宴かは聞いたの?」
「何でも、街で評判の吟遊詩人が歌うのだとか」
「その通りよ。お前はその歌を聞いたことがあって?」
「畏れながら、殿下」
エイルは続けた。
「街には、日々様々なフィエテやトラントがきては去っていくものです。私の出会うトラントたちなどほんのひと握り、評判になったと言ってもまさか街中の人間に知れ渡るほどではないでしょう」
「……何なの、さっきから」
「と、仰いますと」
「やめなさい。その……おかしいわ。お前がそんなふうな口を利くなんて」
「私に何か不手際がございましたでしょうか、殿下」
澄ました顔で――というより、無表情を保って答える。
「エイル!」
どうやら、この調子は姫君のお気に召さないらしい。エイルの目論見通りだ。
「私を愚か者だと思っているのね? そんな、私を王女として扱う『振り』をして、それで私が騙されると思っているのね?」
「何を……仰るのですか」
返しながら、エイルは少し驚いた。事実、エイルはそう思っていたからだ。
「私が儀礼にかなった物言いをすることを気に入られないのですか?『野蛮』な少年の語り口は、殿下のお好みじゃないでしょう?」
「そうよ、当たり前だわ」
シュアラはつんとして言った。
「今日のお前は、これまでのお前よりもずっと感じがいいわ」
「それなら」
それでいいじゃないか、もとい、それでよろしいのではないでしょうか、と言おうとしたエイルをシュアラはじろりと睨んだ。
「お前が『感じがいい』なんて、おかしいのよ!」
エイルは浮かぶ苦笑を押えようと、必死で冷静を保った。
「それでは、今日も私は殿下のお怒りを買ってしまったということですね」
洩れそうな笑いを堪えて息を整えると、そんなことを言う。
「それでは、もうこれ以上殿下のご負担にならぬうちに、退出をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
ほとんど、きたばかりも同然だ。
だが、退出を求めた使用人を大した理由もなく引き止めるのは、それこそ礼儀に反すると言っていい。王女と言えども、いや、だからこそ守るべき儀礼というものがある。
シュアラは渋々と言った調子で許しを与え、エイルは――完璧とは言い難いながらも礼を失したとはさすがのシュアラでも言えない程度の――退出の礼をしっかりとやっていくことを忘れない。
不満そうな王女を室内に残して静かに戸を閉めたエイルは、しかしそこでつい、にやりとしてしまった。仕返しと言うほどでもない、ささやかな嫌がらせとしては、上出来だ。
(少しは高慢が直ればいいんだ)
(俺のこの態度が嫌なら、以前みたいにしてくれと……命令じゃなくて、お願いしてみろってな)
そう考えるものの、まさかシュアラが素直にそう出てくるとは思っていない。
(それとも、母さんが言ったようにシュアラが俺に「飽きる」んなら)
(ま、それでもいいかな)
日々の仕事と寝床と食事と、着るものまで心配いらない生活はなかなかに魅惑的だったが、いまならまだ、以前の暮らしに戻れる自信がある。
と言うのは、仕事がきついのは城下でも城内でも変わらぬから、問題は仕事探しだけなのだ。あとひと月もこの生活を続ければ、少し前まで必死で仕事を探していたときの勢いとでも言うものが失われてしまうかもしれない。それは少しだけ心配だったが、楽天的なところのあるエイルは、そうなってしまっても少し頑張れば元通りになるはずだと考えた。
(俺、もしかして)
(この暮らしは長くは続かないと思ってんのかな)
(そうかもな、厨房の仕事だけならまだしも、問題はやっぱり)
(シュアラだもんな)
王女に呆れられて追い出されることを自分が期待しているのか心配しているのか、彼自身よく判らなかった。
判っているのは、ファドックのこと。慕わしいのに、会えば
幸いにしてここしばらくというもの、ファドックと遭遇することはなかった。
だがそれこそ、いつまでも続くまい。
姫の護衛騎士なればシュアラの隣によくいることは当然だし、厨房の主トルスの友人でもある。剣や体術を教わる約束もしている。いつまで、ファドックを避けられるものか。
そう、それに夜会だ。そのような席ともなれば、ファドックがシュアラの傍にいないはずもない。
そして夜会と言えば気になるのはもうひとつ。主役は──口実だとしても──噂の吟遊詩人。
(詩人に話を聞こうってのは、無理かもしれないな)
(この調子で真面目にお勤めしたら、隙を見てこっそり話を聞くなんて難しそうだ)
そう考えてこっそり嘆息した。
そしてがっかりしているらしい自分に少し驚いた。
何か聞けると、彼は期待しているのだろうか。
気にしてなどいないと、そう思ってきたはずなのに、何かを訊きたいと、何かが聞けると、彼は期待しているのだろうか?